2025年4月30日水曜日

第16回そらまどアカデミア「筆で線を書くのが好き」のゆくえ


 第16回そらまどアカデミア開催しました。

今回の講演は、元々は4月13日に開催予定でした。ところが主催者(私たち)の一身上の都合で、急遽直前に延期し27日に再設定しました。そのため、13日に申し込まれていた方の多くが参加できなくなりました。大変申し訳ありませんでした。この場を借りて改めてお詫びいたします。

講演していただいたのはYoko Wataseさん。フランスで書家として活躍されている方です。講演は、まず作品の制作過程を語った動画から始まりました。

講演の内容は、Yoko Wataseさんの作品を少しでも見たことがないとピンとこないものだったと思います。それは、Yokoさんは「書家/美術家」を名乗っていますが、Yokoさんの作品は普通の書道の作品とは全く違うものだからです。この動画で、その片鱗が窺えるのではないかと思います。

Yokoさんはどうしてこういう「コンテンポラリー作品」を作るようになったのでしょうか。

Yokoさんが書道を始めたのは7歳の時。テレビか何かで書の作品を見て「かっこいい!」と思ったことがきっかけだそうです。ちなみにYokoさんはそらまどがある大浦町の出身。当時、「日本習字」の教室が干拓(地元地名)であって、半年お願いして通わせてもらうことになります。ところが、この教室は2週間で辞めたくなってしまった! それは、お母さまがYokoさんを「ピアノの発表会にでも行くような格好」で教室に行かせて、その恰好をからかわれたから…! しかし幼心に「半年もお願いしていかせてもらったのに、すぐ辞めたいとか言えない…」というわけで続けることになります。ここで辞めてたら人生変わってましたね。

Yokoさんは、「字を書くのが好き」ではなく、「筆で線を書くのが好き」と一貫して言っています。それは、この教室の時に縦や横の線を書く練習があり、先生が「習字の基礎がこの線の練習に詰まっている」とおっしゃったことがきっかけだそうです。

ちなみに、Yokoさんは子供の頃、なかなか自分の気持ちを言葉で伝えられなかったそうです。「頭の中ではいろいろ考えているのにそれがなかなか言葉にならない」という鬱屈した気持ちが、書道と結びついて後の創作につながったのかもしれない、とYokoさんは言います。

Yokoさんは中学生の時に「日本習字」で師範を取って、純心高校に進学。書道部に所属します。ここのレベルがすごく高く、書道漬けの生活を送ります。「私も地元では字がうまいと言われていたけど、純心は県知事賞とか取るような子たちがウヨウヨいるところだった」。書道部なのに朝練や昼練、合宿もあるような部活生活だったそうです。すごい!

しかし、Yokoさんは大学進学では書道を選びませんでした。「書道の世界はピラミッド社会だし、すごく男性社会だった」から。進学したのは系列校である長崎純心大の比較文化学科。ここで第二外国語としてフランス語を選択。面白いのが寮で同室の女の子がドイツに一年留学していて、「この子がドイツなら私はフランスかな」ということでフランス語を選択したそう。私なら絶対「この子からドイツ語教えてもらえるからドイツ語にしよう」と思うところです。このあたりがYokoさんならではの発想かもしれません。

そして、英語以外の言語は、使える人が少ないから仕事にもつながりやすいということで、本格的に勉強したいと思い始め、21歳の時にマルセイユの隣のトゥーロンという街でホームステイします。しかしホームステイ程度ではフランス語は上達しないことを逆に痛感し、大学卒業後の1999年、フランス語の習得を決意してフランスのアンジェという街にあるアンジェ・カトリック大学に留学します。

同大学の卒業後は、日本に帰ってフランス語の教員になるか、逆にフランスで日本語の教員になるといった道も考えたそうですが、ちょうど「フランスで3週間の通訳アルバイトをやってみない?」と誘われてやったその仕事を、結果的に15年続けることになります。いやあ、人生ってわからないものですね。

その仕事の内容は、フラワーアレンジメントの学校の日仏通訳。ここは、生け花のようなものではなくて、教会や店舗の装飾といった、もう少し大規模な花の装飾を手掛けるところでした。ここで通訳をするうち、構造・テクスチャ―・配置などがちゃんとした理論に基づいていることを学び、「美しいものには理由がある」ことがわかったそうです。「感性」ではなく「理論」を学んだんですね。

この仕事をしながら、翻訳や別の通訳の仕事もたくさん手掛けます。そんな中、高校時代の書の作品を飾っていたのを見た人からの「書道も教えられるんじゃない?」という一言がきっかけとなり、気軽な気持ちで生徒を募集したところ、12人集まって教室がスタート。自然と自身の創作活動も行うようになりました。

しかし翻訳・通訳の仕事と書道を両立するのが大変になっていきます。翻訳・通訳のためは、様々な分野の専門用語をその都度学ぶ必要があるからです。でも日本からフランスにまで来て何かをやろうという人は情熱のある人ばかりで、そういう人たちと仕事できたことはよい人生経験だったとか。しかし結局、翻訳・通訳の仕事を全て辞めて書道に専念することになりました。それが10年前だそうです。

では、Yokoさんはどんな作品を創るようになったのか。書道というと、白い紙に墨で字が書いている、というのをイメージしますが、現在のYokoさんの中心的な創作である「コンテンポラリー作品」は、ちょっと違います。

まず「フラワーアレンジメントで学んだ理論から、作品が自然と立体的になっていった」そう。書道なのに立体的! 壁に平面的な作品を張り付けるのではなく、会場と調和するように立体的に作品を配置していきます。そして、パリッとした白い和紙……ではない、テクスチャーにこだわった画面が作品の特徴にもなっています。あえてデコボコした面をつくったり、墨で塗った紙の上に白い紙を重ねて灰色にしたり、あるいは多くの紙を屏風状に連ねたり、そしてそれらの紙はカットするのではなく手でちぎって成形したり……。さらに、反復が多用されていることも特徴。Yokoさんは反復の多用を「無限への志向」だと言います。

……じゃあ肝心の字はどうなってるの? と思いますよね。

これに関し、講演の中でYokoさんが面白いことを言っていました。紙に字を書いてそのままだと「文字を読みたくなるので」、「その上にもう一枚紙を重ねています」と言ってたんです。えっ? 「文字って読むために書くんじゃないの⁉」って思いませんか? ただ、これに文字を読めなくする意図はなく、「言葉を「奥に持っていく」「過去や思い出の中の景色に委ねる」ために、上から紙をかぶせた」そう。

また、Yokoさんがこれまでの中で一番気に入っている「壁抜け」という作品。これは、帯状に切った紙に文字を書いて、それを縒り合わせて作られていますが、縒り合わせる過程で当然文字は読めなくなります。というか、もはやそこに文字があったことさえ、わからない。

つまりYokoさんの作品では、文字は読まれることよりも、文字を紡ぐという行為を通じて世界観を表現することに重点が置かれています。これは、「達筆すぎて読めない」という書道あるあるではありません。読まれる前提ではなく、文字が「解体」されて再構成されているのです。デリダの概念を使えば「文字の脱構築〈déconstruction〉」というべきでしょう。

…と私は理解しましたが、Yokoさんには「文字を解体しよう」というつもりは全くないみたいです(笑) 。ただ、文字自体が主役ではないのは確か。

ちなみに、作品のテキスト(文字)はYokoさん自身が書いた詩。わざわざ詩を書いているのに、それを解体して読めなくするって、なんか不思議だなと思いました(作品によっては必ずしも読めなくなるわけではないですが)。読める読めないは関係なく、やっぱり詩は必要!!

でも、どうせ読めなくなるなら「最初から字じゃない線を書いたら?」と思って質問してみたのですが、「その質問予想してました! 字じゃないと線の表現がうまくできないんです」とのこと。たしかに「線」だけだとあまりに抽象度が高くてかえって表現しづらいかも。文字って数千年かけて培われた線表現の凝縮ですもんね。表情のある線を生み出すために文字の力を借りているのがYoko作品なのかも? 文字のために線があるのではなく、線のために文字がある!

今後の活動について、Yokoさんは「ただ作るのみ」と言ってました。そして、これまでは規則正しい生活の中で徐々に作品を創っていくというタイプの活動がメインだったそうですが、これからは「アーティスト・イン・レジデンス」で一気に仕上げるタイプの創作も取り組んでみたいとのことです。

「アーティスト・イン・レジデンス」とは、最近日本でもよく言われる「どこかに滞在して集中して2週間くらいで作品をつくる」みたいなやり方。戦前の文豪は温泉宿に逗留して作品を書いてますが、あれと一緒ですね。

Yokoさんは現在、2年間限定で日本に滞在していますが、これも一種の「逗留創作(アーティスト・イン・レジデンス)」かもしれません。そんな日本滞在ももうそろそろ終わりです。フランスに帰ったら、日本での経験も作品に昇華されることでしょう。「そらまど」での講演も作品につながる経験になっていたらいいのですが。これからYokoさんがどんな「線」を生み出すのか楽しみです。

2025年4月22日火曜日

田植え終了。「便乗値上げ」の予定です。

4月16日に今年の田植えが終わりました。

といっても、私はそんなに面積はないので、たった一日で終わったんですけどね。(でも機械のトラブルなどで一日で終わらない年も多い。)

それに、田植え自体は一日ですが、その前の耕起・代掻きなど含めると半月ほどの作業があります。苗作りまで含めるともっとですね。ですから、田植え自体は1日でも、やっぱり「ようやく田植えが終わったな」という感慨があります。

栽培方法自体は、今年も例年と同じです。肥料は投入せず、緑肥(レンゲ)のみです。ただし非常に少量ですが堆肥は入れています。微量元素を補給する必要があるためです。もう少し堆肥は入れた方がよかったかもしれません。

ところで、「米が高い!」というのは、みなさんからすると困ったことですが、 米農家としてはもちろん有り難い。しかし米の値段は上がりすぎだろうと思います。これまでの約2倍とはこれ如何に。

というのは、昨年の収穫後の卸価格はこのあたりでは平年より2割高くらいではありましたが、普通作の地域でも2倍も高かったところはないんじゃないでしょうか。集荷の頃の価格よりずいぶん上がってます。

それに、政府備蓄米もまだ本格的に流通しているわけではないとはいえ、備蓄米だから安いということはないようです。

つまり、「安く仕入れた米を高く売っている人(業者)がいる」ことは間違いありません。 米の高騰については政府の政策を批判する声が大きいですが、今回の高騰については民間業者の流通の中に大きな問題があります。お米の絶対量が足りないのではなく、お米の流通量を調節することで儲けている人がいそうです。少なくとも、今回の高騰で儲かっているのは農家ではありません。

というわけで、今後は「農家に恩恵がある形」のお米の価格になっていけばと思っています。 うちはそもそもインターネットで直販しているので市況とは直結していませんが、うちでもこの米高騰に便乗(!?)してお米の価格を上げたいと思っています。便乗値上げですみません。しかし市場価格程度の値段にするものですので、どうかご理解ください。

 豊作になりますように!

2025年4月10日木曜日

第17回そらまどアカデミア「鹿児島市立美術館 開館までと現在」を開催します!


5月11日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回は、鹿児島市立美術館の前館長である大山直幸さんに、鹿児島市立美術館の設立と美術館の役割について話していただきます。

鹿児島では最近、「県立美術館を設立すべきだ」という運動があります。県立(府立)美術館がないのは、大阪・京都・三重・奈良・鳥取・香川・鹿児島しかないらしいです。でも京都・奈良は国立の美術館・博物館が充実しているから県立美術館がないんでしょうし、ないからといって直ちに問題があるとも限りません。ただ、「全国的には県立美術館がないのは少数派」というのは事実です。

でも、鹿児島には県立の「霧島アートの森」もありますし、実は「黎明館」も「鹿児島県歴史・美術センター黎明館」と正式名称に「美術」が入りました(2020年)。多くの美術・工芸品を収蔵しているからだそうです。「こういう施設があるんだから県立美術館的な機能はすでにある」というのが県の言い分のようです。

一方で、県立美術館の設立を求めるグループは、こうした県の主張に対し、県民の作品の発表に使える場が足りないとか、大規模な展覧会が開催しづらいといった事情を訴えています。

こうした声に対しては「市立美術館があるじゃないか」というのがずっと言われてきました。確かに市立美術館があるから、というのが県立美術館がない一番大きな理由だと思います。実際、大阪も市立美術館があって府立美術館はないのはそういう事情でしょうね。

そして実は、鹿児島市立美術館は、全国の美術館の中ではかなり早い時期に設立されているのです。鹿児島に県立美術館がないと聞くと、鹿児島は美術に冷淡な土地なんだろうと思いがちですが、実際は逆で、いち早く美術館が作られた土地なんです!

鹿児島市立美術館が開館したのは戦後間もない昭和29年。これに先行した(国立以外の)美術館は、 京都市立美術館、大阪市立美術館、神奈川県立近代美術館、市立神戸美術館(現存せず)くらいだそうです。空襲で市街地が焼け野原になってしまった鹿児島が、戦後9年にしてこれらの都市と並んで美術館をつくるとはただ事ではありません。そして鹿児島市立美術館が開館した当時は「西日本唯一」の美術館だと謳われました。九州では、福岡より先に鹿児島に美術館ができたわけです。すごいと思いませんか?!

ではなぜ鹿児島市は、全国の自治体にさきがけて美術館を開館することができたのでしょうか? そして「美術館がある街」だったことは、鹿児島にどのような影響を与えたのでしょうか?  そこには、今後の鹿児島の発展のヒントとなることも含まれているかもしれません。

こんなお話ししていただく大山直幸さんは、先述の通り鹿児島市立美術館の前館長ですが、ただの館長ではありませんでした。昨年、鹿児島市立美術館が開館70周年だった時に、市立美術館の仕事とは別に個人で『鹿児島市立美術館ができるまで』という本を刊行しており、市立美術館の歴史に最も精通された方。そして幼少の頃は、鹿児島で創作を続けた鯨津(ときつ)政男さんに8年間絵の指導も受けていたとのこと。美術館に対する想いはひとしおです。

みなさんも、鹿児島の美術館について考えてみませんか?

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第17回 そらまどアカデミア

鹿児島市立美術館 開館までと現在

講 師:大山 直幸

鹿児島市立美術館は、30年間の開設運動を経て70年前に西日本では唯一の美術館として開館した。開館までの関係者の苦労を振り返り、なぜ早期に開設されたかを明らかにするとともに、現在所蔵する作品にもふれながら、美術館の役割や収集方針を紹介する。

日 時:5月11日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
京都大学理学部卒業、鹿児島市経済局長、船舶局長。平成28年4月から6年間鹿児島市立美術館長。著書に「あまみの森でケンムンにだまされた」( 令和2年度県立図書館推薦図書 )、「橋口五葉の中学校時代を中心に」、「鹿児島市立美術館ができるまで」