2024年5月13日月曜日

第11回そらまどアカデミア開催しました。古墳の謎と美しさ!

第11回そらまどアカデミア開催しました。

今回の講師は、福岡を拠点に活躍している古墳写真家のタニグチダイスケさんです。福岡からバイクでお越しいただきました。しかし当日は土砂降り。バイク移動には厳しい天候でした…。

さて、今回のテーマは「九州の古墳における横穴式石室とその特徴」。薩摩半島には古墳がほとんどないので、身近なテーマではなかったかもしれません。また、古墳といえば、「大山(だいせん)古墳」のような巨大な前方後円墳をイメージされる方が多いので、「九州の古墳」なんてたいしたことないんじゃないの? という先入観もあるかも。

しかし! 今回の講演で、タニグチさんは、九州の古墳の面白さと美しさを存分に伝えてくださいました。ここまで奥深い世界だったとは…!

そんなタニグチさんが古代に興味を持ったのはなんと2歳半。ツタンカーメンが入り口だったとか。やがて日本の古代に関心を向け、小学生の頃から古墳を追いかけるようになったんだそうです。すごいですね。

古墳は、日本全体に16万基以上もあると言われており、コンビニの3倍もあります。古墳時代に先行する時代にも、甕棺墓といったお墓はあったわけですが、古墳でも最初は竪穴を掘って、そこに遺体・棺を納めるという形になっています。ここでは石室、つまり遺体を納める部屋はありませんでした。

そして3世紀半ば、竪穴式ではあるのですが、壁を割石積みで作ってまるで部屋のような構造を持つ墓が徳島で登場。これは竪穴式石室と呼ばれています(これは石室ではなく石槨であるという主張もあります)。なお、この割石積みは、徳島で産出する緑泥片岩(層状に割れやすい緑の石)を板状にして、それを大量に積み上げて作ったものでした。

さらに佐賀県の唐津にある「谷口古墳」では、同様に精緻な割石積みによって、合掌造りのような形で部屋がつくられています。古代ローマでは石積みが発達してアーチ状構造が生まれたのですが、日本ではブロック状の石を積むアーチ状構造は生まれず、不規則に板状(棒状)に割った石を細かく層状に積み上げ、天井に向かって徐々に壁を狭めるという合掌構造によって石積みの部屋を造りました。この石積みの美しさはもはや官能的ですらあります。

注目すべきことに、この「谷口古墳」には、その合掌の頂点の部分(つまり天井部分)に横口が設けられていました。これは出入りに使うのは困難なため実用的ではなさそうですが、「横口を設けるという思想」が入ってきたようです。それまでの竪穴から、横穴をつけるというのがイノベーション!

そして福岡の「老司(ろうじ)古墳」では、ちゃんと出入りできる横穴が設けられており、追葬(追加での埋葬)が行われていたらしき形跡があります。なぜ横穴になっていったかというポイントはこの追葬にあります。一人きり・埋めっきりの墓ではなく、一族が死亡するたびにそこに埋葬することを前提として、出入りする横穴が必要になったわけです。

こうして畿内ではまだ竪穴式が続いていた時代に、九州北部では横穴式が発達していきました。古墳の埋葬施設が、まず竪穴で地下にもぐり、そこから横穴を潜って玄室に至る、という2段階構造になっていったのです。

一方で熊本でも石室が発達していったのですが、面白いのが「小鼠蔵(こそぞう)1号墳」。この古墳は小島につくられています(今は陸続きになっている)。石室はやはり割石積みで、コの字型に3体の遺体を並べるようになっていました。石室下部は石障(せきしょう)という板状の石がめぐらされています。これは横穴式なのかどうか判然としませんが(横穴なのか、単なる破壊なのかどうかわからない穴が開いている)、タニグチさんは横穴説を採っていました。だとすれば熊本で最古の横穴式石室(肥後式石室という)ということになり、小さな小島から新しい動きが始まっていることが面白いです。

「小鼠蔵1号墳」には、もう一つ新しいことがあります。それが石棺の装飾。小さな円がたったひとつだけですが石棺に刻まれているのです。石棺の装飾は、大阪の「安福寺石棺」や福井の「足羽(あすわ)山山頂古墳」の石棺に直弧文(ちょっこもん:直線と曲線を組み合わせた幾何学模様)が刻まれている例があります。しかしなぜか畿内では古墳内の装飾は普及せず、これらとは無関係に熊本の小島の古墳に突如として装飾が登場したのです。

では、この円の線刻は何を意味しているのか? それは銅鏡ではないのかというのが有力な説。豪華な副葬品が準備できないので、それを絵に描いたというわけですね。これから石棺には多重の円や直弧文が彫刻されることになります。6世紀初めの「千金甲(せごんこう)1号墳」では彩色が登場。多重の円とともに靫(ゆぎ)という矢を入れる道具が、石障に線刻と彩色(青・赤・黄)で描かれました。

古墳の装飾は始めは石棺から始まりましたが、やがて石室全体に広がっていきます。もはや「豪華な副葬品が準備できないので、それを絵に描いた」などというものではなく、石室の装飾に独立した意味が託されていたことは間違いありません。そのような中でもものすごいのが6世紀中頃の「桂川(けいせん)王塚古墳」。デザイン性の高い具象・抽象の文様で石室全体が埋め尽くされている様子は圧巻です! これは古墳では3つしかない国の特別史跡に指定されています(他は高松塚古墳、キトラ古墳)。

こうした装飾で面白いなと思ったのが、正面から見たときにしっかり見えるように計算して描かれているということです。先述のとおり、古墳は基本的に成形されない石を積み上げているため、壁面の石はデコボコです。そこに文様を描くのですが、例えば円の場合、真正面から見た時にきれいな円になるように工夫しているのです。石室は当然ながら真っ暗なのに、そこに豪華な装飾を施した人々は何を狙っていたのでしょうか。

ところで、先ほどから「石棺」と書いてきましたが、九州の石棺には、畿内にはない著しい特徴があります。それは、蓋がなく遺体が丸見えであること。肥後式石室の場合は、地面にベタ置きになっています。石棺っていうより「遺体置き場」と考えた方がよい…? そして、横穴式石室では追葬するわけです。つまり追加の遺体を安置する際には、腐敗したり白骨化したりした遺体が丸見えなわけです。なんだかおどろおどろしいのですが、当時の人はどう考えていたんでしょう…⁉

さらに九州の横穴式石室のもう一つの特徴は、「羨道」と「玄室(遺体を置く部屋)」の間に「前室」という部屋があることです。葬送儀礼がこの部屋で行われたのでしょう。つまり九州の横穴式石室の古墳は、個人の墓ではなく、一族の墓・祭祀の場でした。後の世の寺院や神社にあたるものだったのです。

なお、南九州では地下式横穴墓(古墳のような上部構造はなく、地下に埋葬)が広まったのですが、先述のように薩摩半島には古墳はほとんどありません。一方、一人用の狭い石積みの部屋のような「板石積石棺墓」は薩摩川内やさつま町にたくさん分布しています。その工法は明らかに北部九州の影響を受けていますが、どうも北部九州と鹿児島では様子が違うようです。装飾古墳は鹿児島には一つもありません。古墳時代から鹿児島はちょっと変わっていたのでしょうか…?

それにしても、どうして古墳時代の人々は、とんでもない労力をかけて古墳を造り、またそこに装飾を施したのでしょうか。講演が終わった後での懇談でタニグチさんに聞いてみたところ、まず古墳の造営については、強制労働だけでは説明できず、ピラミッドと同じような公共事業的な側面があったのではないかということでした。かつてはピラミッドは奴隷による強制労働で作ったと考えられてきましたが、今ではちゃんと「給料」が出ていたことがわかっています。農閑期に人々に仕事を与えるという一種の再配分政策でもあったのがピラミッド。それと同じように、古墳も公共事業として造られたと考えられるそうです。

では装飾についてはどうでしょう。古代エジプト人は死後も現世と似たような「死後の世界」があると考え、そこで安楽な暮らしを行うために副葬品を詰め込んだピラミッドを造営したのですが、古墳の場合は「死後の世界での暮らし」という観念が希薄だそうです。それよりも感じられるのは、「死者の蘇り」を恐れる気持ちなんだとか。石棺に刻まれた直弧文も、死者が蘇らないように封じ込める意味があるのでは? と推測されるそうです。「死者の蘇り」を願うのは世界中に見られますが、「死者の蘇り」を阻止しようというのは珍しい。

古墳はある種の「死後の家」ではあったのですが、「絶対にここから出てこないでね」という結界の意味も込めた「死後の家」だったのかもしれません。一方で、死者を恐れる気持ちばかりでなく、そこには祖先祭祀の意味も当然含まれていました。先述の通り、九州の横穴式石室は追葬が前提であり、何代にもわたって遺体が埋葬されましたが、それは父系親族に限られるそうです(つまり夫婦墓はない)。古墳は、父系親族の継承を神聖化するものだったのかもしれません。古墳には、死者への「怖れ」と「神聖化」という相反する観念が同居しています。

しかしながら、実際当時の人が古墳にどんな思いを込めていたかは謎に包まれています。それは、古墳には一切文字が残っていないからです。古墳時代に文字がなかったわけではありません。例えば有名な江田船山古墳の鉄剣など、副葬品には文字が残っている場合があります。ところが華麗な装飾を施しながら、なぜか古墳そのものには一文字も字が書かれませんでした。どんな死後の観念があったのか、まだまだ謎だらけなんですね。

そして古墳時代が終わると、当たり前ですが古墳は造られなくなりました。「寺院」が古墳に置き換わっていったのです。古墳は、日本最古の石造構造物ですが、その工法もあっさりと失われ、日本では長く石造構造物は造られない時代が続きます。今ではどうやって造ったのかよくわからない古墳もあるそうです。

ところで講演では、タニグチさん自ら撮影した美しい写真を次々と繰り出しつつお話してくださいました。講演では理屈とは別に、古墳の美しさにもびっくりさせられましたねー。タニグチさんの写真には古墳への愛があふれています。写真を見るだけでも新しい世界に目を開かされる講演でした。

しかし90分では足りないくらいの情報量でしたので、タニグチさんには、また場を改めてご講演いただきたいなと思っています。次回は大雨の中でないといいのですが!!

2024年5月6日月曜日

「砂の祭典」に初めて出店しました

5月3〜5日の3日間、「吹上浜 砂の祭典」に出店しました!

これまで、「砂の祭典」にはいろいろな関わり方をして来ましたが、出店するというのは実は初めてです。

場所は、メイン砂像がある場所とは違う、本町(ほんまち)の公園のそばでした。私たちがいたのは地元出店者枠のコーナーで、公園では「モジョピク」という、キッチンカーやハンドメイドショップなど外部の参加者によるマルシェが開催されていました。

私たちはコロナ以前からイベントへの出店を控えていたので、本格的なイベント出店は本当に久しぶりでした。不特定多数の人に訴える商売は数年ぶりといってもいいくらいだったかもしれません。

その点、「モジョピク」の方の飲食店の皆さんはさすがに慣れていて、売上の方も私たちの数倍はあったと思います。そんな皆さんのやり方を見て、とても勉強になりました。そんなわけで、今後に活かすために感じたことを記録しておきたいと思います。おそらく、皆さんにとっては「そんなの当たり前。むしろこれまで分かってなかったの!?」ということばかりですが…。

第1に、店はわかりやすさが大事。いろんな店がありましたが、繁盛しているのは、何が売っているか一目見て分かる店ばかりでした。「レモネード屋さん」「チュロス屋さん」といった調子です。テーマカラーをはっきりと打ち出した大きなサインを掲げ、遠くから見ても何を売っているか分かるようにするのが大事だと思いました。

第2に、商品は絞った方がよい。これは第1の点から派生することです。 普通のお店ではいろいろ商品がある方がよくても、こういうイベント出店の場合は商品数の多さはアダになると思いました。例えばマフィンとケーキとクッキーを売っているお店より、マフィンだけの店の方がわかりやすくて売れ行きがいい。お客さんはいろいろな店の商品を比較した上で購入するので、一店舗の中にマフィンとケーキとクッキーがある場合、その商品間の比較まで考えてしまい、結局購入に至らない場合がありますよね。むしろマフィンの種類を増やして、プレーン/チョコ/バナナマフィンにした方がわかりやすく、「選ぶ楽しみ」になります。

第3に、地元産はアピールすべき。これは考えてみれば当たり前ですが、いつも地元相手に商売しているのですっかり忘れていました。「砂の祭典」には地域外からたくさんのお客様が来ます。そしたら、「何かひとつくらい、南さつまのものをお土産に買って帰ろう」と思うのが人情。しかも、今回はいつもの特産品販売のブースがなかったので、お土産に飢えていた人が多かったようです。うちの南薩コンフィチュールなんか、いいお土産だったのに、「地元産」を全くアピールしていなかったのでほとんど売れませんでした(涙)。一方、ジンジャーエールシロップは「南さつま市産」を後から貼り付けたところ、売れ行きが格段によくなりました(でもその時はその効果だとわかっていませんでした!)。

第4に、飲み物350円は安すぎた(笑)。うちでは、「石蔵ブックカフェ」でジンジャーエールやコーヒーを300円で提供しています(あまり儲けを考えていません)。それじゃああまり安いよね(出店料も高いのに)、ということで「砂の祭典」では1杯350円にしました。ですが、出てみてビックリ。ほとんどの飲食店の飲み物は500円〜じゃあないですか! 物価が上がってるなー。大浦からほとんど出ていないので最近の相場がわかっていませんでした。400円にすればよかった。あんまり安いのは他の飲食店にも迷惑がかかりますからね。

これら4点は、3日間出店している間、徐々に分かってきました。なので、うちの店構えも徐々に変えていきました。1日目の最初の方は、あんまり売れ行きが悪いので「自家製ジンジャーエール350円」を大きく表示したところ、ちょっと売れ行きがよくなりました。2日目には、その文字を「そらまど」のテーマカラーの水色の台紙に書いたところもっとよくなりました。3日目には、そこに「南さつま市産」をつけたところ、シロップもどんどん売れるようになりました。最初からいろいろ工夫してやればよかったですね…!

いろいろ反省点はありますが、でも一番何がよかったかって、雨が降らなかったことです。ちょっと風が強かったとはいえ、3日間、お天気に恵まれました。イベント出店で一番大事なことは、天気ですよね!

初めて「吹上浜 砂の祭典」に出店してみて、本当にいい勉強にもなりました。また来年も出店できたらいいなと思っています。来て下さったお客様、スタッフのみなさん、どうもありがとうございました!

2024年4月30日火曜日

風の強い年

はっきりとしない天気が続いています。4月半ばから、まるで梅雨のような天候…。GW前のこの時期が、かぼちゃの受粉期なんですが、雨が降っていると当然受粉ができませんので、とても困るのです。

それでも、雨の合間に受粉作業を行い、徐々に着果してきました。実のついていないツルはあと2割ほど。4日連続で晴れてくれれば何もしなくても全部着果するのですが…。

ところで、今年はかぼちゃについていうと、あまり天候に恵まれていません。特に、風が強くて困りました。

3月半ばには、台風のように風の強い日が2日もあって、トンネルの支柱が合計で60本ほども折れ曲がってしまいました(当然、復旧作業も2回やりました…)。平年であれば、強風で折れ曲がるとしてもせいぜい5本くらいなのですが…。

しかも、3月の強風といえば春一番(南風)、なのに、今年は北風が強かったんですよね。どういうわけだ。

かぼちゃのようなつる植物は風に弱いのです。風がなければスクスクと成長するはずのところ、風のせいで成長も遅れ、それどころか根元から折れてしまったものも散見されます。

天候に恵まれさえすれば、農業ほど楽しい仕事はないと私は思います。

が、天候に翻弄されると、これほど徒労感のある仕事もないですね…。人間の努力など自然の前ではあってないようなものなので。

これからは穏やかな天候が続いてほしい。一番の願いです。

2024年4月26日金曜日

第10回そらまどアカデミア開催しました! 「土地改良」は町のインフラ整備の強力な武器だった

第10回そらまどアカデミア開催しました。

今回のテーマは「大浦町の土地改良」ということで、とてもニッチな(?)ものでした。何しろ、「大浦町」と「土地改良」という、かなり狭い範囲のことを掘り下げるものですからね〜。

そんなわけで、事前にお申込みいただいた方は正直少なかったのですが、当日参加の方も含めて計11人にご聴講いただきました。思いのほかたくさんの方に聞いていただけてよかったです。

さて、改めて「土地改良」についてですが、実は、私も講演を聞く前は、表面的にしか理解していなかったんです。

「土地改良(農業農村整備事業)」とは、「田んぼや畑を効率的に耕作できるようにするため、地形や土地の条件を改善したり、道路や水路を造ったりして環境を整えること」です。つまり農業のインフラづくり。もちろんこれが「土地改良」の本筋です。

しかし、講師の山之口大八さんは、「土地改良」を
(1)生活が安定するように
(2)住みやすくするように
(3)安心して生活できるように
する事業だと言います。「土地改良」だからといって農業限定ではない…!? 

山之口さんは、旧大浦町役場でずっと「土地改良」を担当しており、「土地改良」の裏の裏までご存じ。例えば、そらまどの前の道路は、今でこそ普通の市道ですが、元々は「シラス対策事業」によってできた道だったそうです。

「シラス対策事業」とは、台風や大雨でシラスが崩れたり土壌が流亡したりするのを防ぐため、用排水路をつくる事業です。つまり、そらまどの前の道路は、元はシラスが崩れないようにする排水路で、その水路の管理のために付属して造られた管理道だったのです。知らなかった…!

もちろん、その事業で整備する前から道自体はあったはずですが、道路の拡幅やアスファルト舗装などをするにはとてもお金がかかります。大浦町は過疎の弱小自治体でしたので、そうした予算は捻出できないわけです。一方シラス対策事業は補助率95%の補助事業。たった5%の手出しで、生活道路の舗装などができたということになります。

こんな感じで、予算のあまりなかった大浦町にとって、「土地改良」の補助事業は、町のインフラを整える強力な武器となりました。山之口さんによれば、大浦の各集落を通っている幹線道路は、ほとんどが「土地改良」の補助事業を活用して整備したものだということです。

それどころか、大浦町では、宅地、水道、下水道、バス停(の待合所)、公民館、街灯、公園までもが「土地改良」の事業を活用してつくられました。例えば、有木交流館や榊交流館は農業の交流施設として建設されたものだそうです。「公民館そのものは補助事業では造れないけど、農業に使う交流館と位置付ければ土地改良事業で整備できる。でも実際は公民館として使えるわけだから」とのこと。バス停の待合所も「農業の休憩・準備施設」として整備したそうです。

山之口さん自身、そういうのは「屁理屈です!」とおっしゃっていましたが、それが税金の無駄遣いかというとそうではなく、「国庫補助事業は、ちゃんと国の会計監査を受けるし、費用対効果を計算して認められないとできないわけだから、市町村の独自事業よりかえってちゃんとしている」そうです。

全国的にも、「土地改良」事業は農村整備に大きく活用されており、ヘリポート、飛行場、温泉、プール、発電所、水族館、海水浴場までもつくられたそうです。長島の伊唐島(旧東町)では、伊唐島大橋まで含めて総工費130億円で農免農道が整備されました。この事業では橋が離島架橋だったため補助率が99.5%(!)あって、町としてはたった数千万円の負担で100億円以上の事業ができたのです。これは島の農産物を運ぶという名目で整備されたのですが、島の農地は200ヘクタールくらいしかなく、費用対効果の点で「よく説明できたなと感心する」とのことでした。

大浦町の顔である干拓直線道路も元は農免農道です。農免農道とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道」のことで、これはガソリン価格に上乗せされている「揮発油税」(道路特定財源)を活用した農林水産業のための道路でした。

こうしたことを考えると、「土地改良」事業は、都市から田舎への再配分として機能していた、ということができると思います。税収に乏しく、自前でインフラ整備ができない農村の自治体にとって、「農林水産業の振興のため」という大義名分で使える「土地改良」事業があったことは、町づくりにも大きく役立ちました。大浦町についていえば、「土地改良」がもしなかったら、今のような町にはなっていなかったでしょう。

しかし道路特定財源は2009年に一般財源化され、「土地改良」事業全体の予算も半減しました。都市から田舎への再配分があまり行われなくなったのです。また、大浦町の場合は、合併して南さつま市になったため、田舎のちょっとした生活インフラを含め農村整備する「土地改良」は優先度が低くなり、事業は激減しました。しかし大浦町の場合、合併前に積極的に「土地改良」を行ってきたため、町内のインフラがだいたい整ってきていた、ということも事実だと思います。合併のタイミングがよかったんですね。

このように、「土地改良」は田舎へお金を引っ張ってくる大事な手法だったのですが、実はお金を引っ張ってくる性格が全然なかったのが、今回のもう一つのテーマである大浦干拓です。

大浦では、安土桃山時代から干拓が始まっており、下田間の田んぼ(今、役場や農協があるところ一帯)は安土桃山時代の干拓でできたものです。江戸時代には島津直轄で干拓がたびたびおこなわれるなど、大浦は干拓の適地でした。

そこで戦時中に計画されたのが、今の広大な大浦干拓で、昭和17年に国営事業(農地営団開発事業)として採択されます。山之口さんによれば、「仮に事業を国が設けたとしても、それを採択しようとして計画し動く人がいなければ始まらない。この時代の大浦(当時は笠沙町)に手を挙げる人がいたことがすごい」とのこと。この時は、鹿児島県で8事業が手を上げましたが、採択されたのは大浦干拓を含む3事業でした。

ところが、戦争が激しくなってきて、国家予算のほとんどは軍事費になってしまいます。さらに労働力の中心である若い男性は徴兵され労働力もなくなり、事業の継続は不可能となりました。しかし大浦町では、労働力は地元でなんとかするからと事業継続を訴え、戦争中は小学生まで動員して手弁当で干拓を続けました。

なお干拓事業で問題になるのは漁業権の問題ですが、大浦では干拓のために漁業権を全て放棄しているそうです。

終戦後、工事はいったん中止されますが、なんと終戦からたった17日後には工事が再開されます。国が崩壊したのにすぐ工事が再開されているのは、地元の人が自らやっていた工事だったことを物語っています。ところが工事再開から1週間後、超大型台風「枕崎台風」が襲い、せっかく作った汐止めが破壊されます。それでも事業は継続されました。大浦干拓第一工区は、大浦や笠沙の人たちが自ら作り上げた干拓なのです。

昭和22年、大浦干拓は農林省の事業に改めて採択され、大浦干拓第二工区の工事が始まります。ここからは請負業者が入っての工事で、第一工区とは違って道路も計画的に作り、客土も行われました。こちらは昭和40年度に完成。その時にすでにヘリコプターでの農薬散布が行われていたというのは驚きです。大浦干拓は、大浦に農業機械の導入を促し、近代的農業をもたらしました。現在でも大浦干拓は耕作率100%で、大浦の農業の中心になっています。

しかし、他の地域の干拓も大浦干拓のようにうまくいったかというとそうでもなく、国営事業で整備された場所も、100%が田んぼとして使われているのはむしろ少数派。山之口さんは、「全国の干拓地を見てきたが、田んぼだけで100%耕作されているのは大浦干拓くらい。大浦干拓は地域の宝」と言っていました。

実は、鹿児島市でもみなさんのなじみ深い地域が干拓地なんです。それは谷山! 今ラ・サール高校があるあたりも実は元は海。ここは昭和のはじめまでに完成した和田干拓の場所です。さらに戦後に行われたのが谷山干拓で、200ha近くあり、以前木材団地になっていた場所です。これらはもちろん、元は農業用地として造成されたのですが、後に用途変更を行って、今は街になっているというわけです。

ということは、農地の造成「土地改良」がなかったら、谷山の街だってずいぶん違うものになっていたでしょう。イオンなんて建てる場所なかったでしょうね(笑)

講演を聞いて、今まで農業の話としか思っていなかった「土地改良」が、いかに農村のインフラ整備や都市的な発展に役立ってきたかが分かり、目からウロコでした。農業は、農村の生活と一体に行われるものであるからこそ、「土地改良」が大きな広がりを持って町作りに役立ってきたんですね。今般、「土地改良」の根拠法である食料・農業・農村基本法が改正されようとしていますが、それが農業の振興のみならず、農村の発展に役立つものになるように期待しています。


2024年4月20日土曜日

第11回そらまどアカデミア「九州の古墳における横穴式石室とその特徴」を開催します!

5月12日、第11回そらまどアカデミア開催します!

まずはこちらの写真をご覧ください。

これは、古墳の石室内部なんです。大小の石がレンガ状に積まれ、また正面には大きな石が配置されています。そして特徴的なのは、朱色の線によって同心円の模様が全体に描かれていること。

元々、古墳時代初期においては、古墳への埋葬は竪穴によって行われていました。ところが、北部九州において横穴式の石室が登場します。そして、石室内部に壁画などが描かれた「装飾古墳」も造られました。

なぜ横穴式が登場したのか、そしてその装飾にはどんな意味があるのか。さらには、なぜ畿内に先駆けて新しいタイプの古墳が北部九州に登場したのか。いろんな面から興味を引かれます。

そんな九州の横穴式石室について、このたび福岡在住のタニグチダイスケさんを招聘してご講演いただくことになりました。

タニグチさんは、古墳(特にその内部)を専門的に撮影されている写真家です。タニグチさんのFacebookには、各地の古墳内部の写真がたくさん掲載されているのですが、古墳がどうこうという考古学的な興味以前に、びっくりしたのはその美しさ。

古墳の石室って、こんなに美しかったんだ! というのを、初めて知りました。こんなにも石室を美しく写真に表現出来るのは、古墳の石室を愛しているタニグチさんの熱意のおかげなんでしょうね。

というわけで、今回の講演はマニアックなテーマですが、「古墳なんて興味ないや」と思っている方にも、きっと楽しめるものになっていると思います。そらまどとしては初めての県外講師の招聘になりますので、ぜひご注目ください。

***************

第11回 そらまどアカデミア

九州の古墳における横穴式石室とその特徴

講 師:タニグチ ダイスケ

全国に16万基分布するといわれる古墳。九州にも数多くの古墳が築かれたが、特質すべき要素として横穴式石室や横穴墓と言われる埋葬施設が挙げられる。畿内などに先駆けて最も早く導入した地域でもある。壁画が描かれた北部九州の装飾古墳などを含め写真から解説する。

日 時:5月12日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
1981 年神奈川県生まれ。別府大学文学部文化財学科で考古学を専攻。卒業後、カメラを携えバイクによる日本一周やアジアの史跡巡りをする。2014年に写真家として初の個展を開催。現在も継続的に活動している。

2024年3月17日日曜日

第10回そらまどアカデミア「大浦町の土地改良」を開催します!


久しぶりに「そらまどアカデミア」開催します!

第10回となる今回のテーマは、「大浦町の土地改良」です。

「土地改良」とは、いわゆる農地整備のこと。広くて真四角で平坦で、ちゃんと道路が通った(袋小路でない)農地をつくるのが土地改良事業。今回は、大浦町の近現代の土地改良について学んでみたいと思います。

実は、南薩の田舎暮らしがある大浦町って、土地改良がとっても積極的に行われた地域なんです。少なくとも鹿児島県の中に限れば、ここまで土地改良を頑張った地域は少ないような…?

そして、大浦町といえば大浦干拓。

干拓の規模では出水干拓の方が大きいですが、大浦干拓のすごいところは、その耕作率がほぼ100%である、ということです。

土地改良事業が、ちゃんとその後の農業に繋がっているわけですね。

実は、土地改良事業を行っても、その後に続かず、当初の計画のようには耕作されなかった地域もたくさんあります。大浦の場合はなぜそれがうまくいったのか、そのあたりも学べるかも知れません。

ちょっと地味なテーマではありますが、こういう誰もやらなそうなテーマを取り上げるのも「そらまどアカデミア」だと思っています。ぜひお越し下さい。

***************

第10回 そらまどアカデミア

大浦町の土地改良

講 師:山之口 大八

80年以上前の昭和17年より干拓事業が始まり、高度成長期の昭和40年代以降、先人達が多くの補助事業を導入して、大浦町の基盤整備を支えてきた土地改良事業。市町村合併してやがて 20年になるいま、農村大浦の基盤整備のあゆみを後世に伝えたい。

日 時:4月21日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:1000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
1960年曽於市生まれ、土木技師として測量設計会社に7年間勤務後、平成元年大浦町役場に入職、令和2年南さつま市役所定年退職。大浦町に31年間在住後、姶良市在住。現在、地質コンサルタント技術推進参事。

2024年2月19日月曜日

南薩の田舎暮らしのオンライン・ショップをリニューアルしました

タイトルの通りですが、南薩の田舎暮らしのオンライン・ショップを少しリニューアルしました。

https://nansatsu.shop-pro.jp/

きっかけは、中2の娘に「ショップの売れ行きをよくするためにはどうしたらいいと思う?」と聞いたことです。

娘は、「WEBサイトがダサいのがよくないと思う」と即答。2013年にサイトをオープンさせてから、基本的なところはほとんど変えていません。

なにしろ、うちは業者に頼まず、自分でHTML/CSSを書いてショップサイトを作っているので、サイトのデザインの手直しなどはつい面倒がってやらなかったのです。素人がやった10年前のデザインなのでダサいのも当然です。

しかしながら、南薩の田舎暮らしでは、柑橘類についてはほぼ全てインターネットで販売していいます。だからサイトの売上は死活問題。娘の一言を真摯に受け止めて、ショップのデザインをやりなおしました。

といっても、基本的な構造は維持したままで、フォント、余白などを今風に整えただけなんですけどね。微妙な違いなので、before/afterがわかるようにスクリーンショットを撮っておけばよかった(後悔)。どこが変わったかわからない方もいるかも。見た目の印象は結構変わったはずなんですが。

ただ一つはっきり変えたのは、配送料金と支払い方法がすぐにわかるよう、メインページの下部に表示するようにしたことです。ここは私も自分がネットで買い物をする時に気になるところですし。

ちなみに、このサイトは「カラーミー」というサービスを使って作っているのですが、カラーミーにあった元々のテンプレートはこんな感じです。

15年くらい前のネットショップってこんな感じでしたよね!?

このテンプレートをいじくって、南薩の田舎暮らしのオンライン・ショップを作っているんです。

ちなみに、最近は、「サイトのデザインを素人が手作りするのはよくない。みんなに見える一番大事なところなんだから、プロに制作を頼んだ方が良い」というのが、常識になっています。

そりゃそうだ。

ただ、うちはプロにお願いするだけの売上もありませんし、なんでも自分で手作りするのがいいところだと思っているので、しばらくの間は、こんな感じでいこうと思います。

というわけで、南薩の田舎暮らしのポンカンに続く中心商材であるタンカンを販売開始しましたので、ぜひリニューアルしたサイトをご利用ください。どうぞよろしくお願いします。

↓お買い求めはこちら
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のタンカン
4.5kg 2,900円/9kg 5,400円+送料