第19回そらまどアカデミア開催しました。
今回は、そらまどアカデミア登場2回目の小川景一さんの話です。前回は、明治維新の精神的支柱となった儒学の話をしていただきました。その回では、最後に店主がしゃしゃり出てきて小川さんの図像を解説、結果的に対談みたいになりました。この小川さんとの対談が面白かったので、一方的に新米を送って2回目の登壇をお願いして、しぶる小川さんに今回また来ていただきました(笑)。
【参考】前回の話です
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2024/08/13.html
小川さんは、「思想の流れを図像で表す」という変わった趣味(!)をお持ちです。前回と同じく、小川さん作の図像に基づいて東アジア(日中)の思想の流れについて語りました。メインビジュアルはこちら(クリックして拡大します)。
孔子に発した儒教が、朱子学となって日本に渡り、徳川光圀によって水戸学という歴史哲学となって「国体」という観念を生み出し、それが大陸に逆流して満州国が建国される、という思想の渦を表したものです。
孔子の教えは、あくまでも政策担当者に向けたもので、そこから発展した儒教も社会の上層に向けた教えの性格が濃厚でした。漢の時代には「性三品説」という、「人間にはもともと上中下の三種類の人がいる(→上級の人間以外には教化は無意味)」という一種の血統主義が現れてもいました。ところが隋からは官吏登用試験の科挙が始まります。これは世界の歴史においても特異なほど平等主義的なやり方でした。こうして社会に広まった儒教から生まれたのが朱子学です。
南宋の朱熹(朱子)は、儒教を万物の理論へと再編集します。元来の儒教では世界の始まりや宇宙の成り立ちといったことへの関心が薄く、そうしたことに強い関心を持ったのは老荘思想の方だったのですが、朱熹は老荘思想や仏教など儒教以外の思想を総合して、個別的事物から天まで連なる統一理論「朱子学」を考案しました。
この朱子学を身に着けて、江戸時代に日本にやって来たのが朱舜水(しゅ・しゅんすい)です。朱舜水は、明朝の臣だったのですが、その再興を目指してなのか、日本海を8回も往復していました。それに目を付けて招聘したのが水戸藩の徳川光圀です。徳川光圀は「歴史マニア」で、日本の正史(正式な歴史書)を自ら作ろうと思い立ち、「大日本史」というプロジェクトを立ち上げるのですが、そこで問題になったのが王朝の正統性です。
朱舜水にとって、王朝の正統性は非常に重要でした。というのは、彼が仕えていた明朝は滅んでしまったのですが、続いて建国された清は満州族による異民族王朝で、彼はそれを正統な王朝だとは絶対に認めたくなかったのです。
中国では、天から世界の統治を付託された一人の人を「天子」と呼び、歴史は天子の継承によって形作られます。一方、日本では鎌倉・室町・江戸など将軍政権は移り変わっていますが、ずっと天皇が存在し続けてきました。そこで「大日本史」プロジェクトでは天皇を「天子」のようなものとして位置づけたのですが、問題になったのが南北朝時代。この時代、天皇家が2つに分裂して天皇が同時に2人いたからです。これはマズい。天が統治を付託するのは必ず一人でなくてはならないので、どちらかが正統で、もう片方はニセモノということになります。「大日本史」は、元来は政治的なものではなかったのですが、中国の正史の枠組みに沿って歴史書を編纂しようとしているうちに政治哲学の問題に踏み込んでいきました。そうしてできた歴史哲学的儒学が「水戸学」です。この水戸学が明治維新を動かす思想的支柱の一つとなります。
ちなみに、江戸時代の儒学の中心は水戸学ではなく、幕府が作った昌平黌(しょうへいこう)という学校でした。徳川家康は林羅山(はやし・らざん)という儒者を政策顧問にしていたのですが、林羅山から連なる儒学が展開したのが昌平黌でした。ちなみに林羅山の先生が藤原惺窩(せいか)という人で、この人は明にわたって儒学を学ぼうとし、渡航のために鹿児島までやってきています。ところが鹿児島では戦国時代末にすでに儒学が高いレベルで研究されており、儒書が読まれていました。そこで「わざわざ明まで渡らなくてもここで学べば十分だ」と思ったのか、ともかく明には渡航せずに山川の正龍寺というところで儒学を学んで中央に戻っていった人です。鹿児島では貿易が盛んでたくさん中国人がいたことが、儒学の興隆につながったと思われます。
話を戻して、徳川光圀は水戸学とは違う流れの学問の発端にもなっています。それが「国学」。光圀は日本の古典が読めないのを遺憾とし、契沖という僧侶に『万葉集』の読解を依頼します。『万葉集』は万葉仮名という特殊な仮名(というより漢字)で書かれているため、読めない部分が多数あったのです。契沖はこれを見事解読し『万葉代匠記』という著作にまとめました。これが発端となり、日本の古典を読解していくという取り組みから「国学」という学問が生まれたのでした。
国学を大成したのが、本居宣長です。宣長は『古事記』に取り組みました。これは漢文と日本語が混ざったような言語で書かれていますが、宣長はこれを「古代人になりきって読む」という方法論で読解します。「漢字や儒学などの中国由来の知識を捨て去って、古代人の心(大和心)になれきれば読めるのだ!」というのが宣長の考えでした。ちなみに、古代中国の甲骨文を同じような方法論で解読したのが現代の漢字学者・白川静です。白川の漢字説は、日本では批判も多いですが現代中国で大変人気があるそうです。
ちなみに宣長は、儒学的な規範を「漢意(からごころ)」として人為的で余計なものと切り捨て、日本人はそうした規範がなくても自然に治まると考えていました。
宣長に私淑したのが平田篤胤です。宣長はあくまで学問的でしたが、篤胤は出版人・編集者・著述家という性格が強いです。霊魂の行方やあの世に大変関心があった篤胤は、宣長が恬淡としていた宗教観を発展させ、神話の世界やあの世の世界、異界を実体的に著述しました。そんな中で、「日本はすべての国の元の国」という日本ナンバーワン説を喧伝します。これが幕末の揺れ動く国情にがっちりマッチして幕末の志士に大変な影響を与えました。
一方、水戸学の方では幕末になると会沢正志斎という人が『新論』という本をまとめます。これは水戸学の主張をまとめた本ですが、ここで「国体」という概念が謳われました。正統性を考究した水戸学において、日本の正統な在り方という抽象的なものが「国体」という言葉によって具体化されたのです。これも幕末の国情にがっちりマッチして、『新論』は新たな国の在り方の模索に大きな影響を与えました。ただし、幕末の水戸藩では、考え方の違いで書生党と天狗党という派閥に分かれ、天狗党の乱という内戦が起こって当時の知識階級が互いに殺し合いをしたため、明治後にはほとんど人材が残りませんでした。
明治維新が起こると、儒学者と国学者は政府に取り入れられ、儒学・国学のハイブリッド思想によって明治政府が運営されます。儒学は宗教性に欠けており、国学は教義性に欠けているため、両方がうまく取り入れられたのではないかと思います。こうして、本来は全く別々の体系として展開してきた儒学と国学が政策的に融合されて生まれたのが国家神道でした。ただし儒学と国学で一致していた点がありました。それが天皇の扱いです。双方に(将軍ではなく)「万世一系」の天皇を日本の正統な統治者とする観念があり、それが国家神道の核になります。
ちなみに、儒学と国学をつないだ「古神道」が興る影のキーマンとなったのが、薩摩藩の本田親徳(ちかあつ)ではないのか、というのが小川さんの考えです。本田親徳は南さつま市加世田武田の生まれで、会沢正志斎に3年ほど弟子になっています。どうやら彼は霊感が強くて、不思議な力を見せて人を引き付けていったようです。
国家神道には、儒学の道徳と国学の宗教性がありましたが、国家の行動理念のようなものは希薄でした。儒学は個人倫理が中心で、国学は「天皇の支配に身をゆだねる」というような、庶民の心得が中心だったからです。そんな国家神道がひねり出した行動理念の一つが「八紘一宇」。これの表面的な意味は「世界中の人々が家族のように仲良く暮らす」ということでしたが、実際には「日本(天皇)が世界を征服する」という理念として扱われました。
というわけで、時代がちょっと飛びますが、日本は大陸へ進出し、満州国が建国されます。それ以前の満州は、日清日露戦争を経て日本の租借地になっていました。ここで満州事変を起こして満州国という国家を建国した中心人物が、陸軍の石原莞爾です。実は、彼は国柱会という宗教結社の一員でした。国柱会というのは、田中智学という日蓮宗の僧侶が作った日蓮主義の団体で、宮沢賢治が加入していたことでも知られます。当時のエリートに大きな影響を及ぼした団体です。
1932年の第1回満州国建国会議では、「南無妙法蓮華経」のどでかい垂れ幕が掲げられています。満州国の思想的バックボーンとなったのが国柱会であり、日蓮主義だったのです。国家神道と日蓮主義が結合したのは一見奇妙ですが、国家神道に不足していた行動的な思想を日蓮主義が打ち出していたことが関係しているように思われます。なお、テロリストの側にも日蓮主義は浸潤しており、井上日召(日蓮宗の僧侶)が中心となった血盟団は政府要人を暗殺します(血盟団事件)。仏教的思想から暗殺に行ってしまうというのが今から考えると奇異ですよね。
ちなみに、権藤成卿(ごんどう・せいきょう)という人は、満州国で古代日本のリバイバルのような国家を作るという「鳳(おおとり)の国」構想を抱いていたそうです。最近、このことについて詳しく書かれた本『日本型コミューン主義の擁護と顕彰―権藤成卿の人と思想』(内田 樹 著)が出版されたということで小川さんは「ようやくこのあたりの事情がわかった」と言っていました。ともかく、満州国というのは単なる植民地だったのではなく、日蓮主義にしろ「鳳の国」にしろ、理想の国を建設する試みでありました(ただし現地の人にとってありがたいものではなかったのは言うまでもありません)。
その理想は、「王道楽土」「五族協和」といった一見快い言葉で飾られており、またその建設に邁進した人は本当に理想郷の建設を考えていたのですが、理想とはかけ離れた結果となりました。そしてそれを支えた思想は、儒学・国学・日蓮主義・陽明学など、本来まじりあう性質でなかった思想が「国体」というコンセプトの下に共存して生まれたものであったようです。いろんな思想を包摂してしまう「国体」というコンセプトこそ、近世日本が生み出した最大の発明品だったのかもしれません。
小川さんは、満州国の終焉まで話をしたかったとのことですが、このあたりで予定の2時間を超過したため、ここまでの話となりました。時間が足りなくなったのは、途中、私(店主)がけっこう話を巻き戻したり、補足を詰め込んでいたりしたためです。申し訳ありませんでした。なお、小川さんの話にもいろんな脇道がありましたが、上記のメモではほぼ割愛しております。
小川さんは、「人前で話をするのはこれが最後」とおっしゃっていましたが、そういわずに(笑)またお話ししていただきたいと思っています。なにより、こんなディープな話を縦横に展開できるのは小川さん以外にはちょっと思いつきません。さらなる登壇を期待したいと思います!
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