2025年9月18日木曜日

第19回そらまどアカデミア開催しました。「国体」から満州へ


第19回そらまどアカデミア開催しました。

今回は、そらまどアカデミア登場2回目の小川景一さんの話です。前回は、明治維新の精神的支柱となった儒学の話をしていただきました。その回では、最後に店主がしゃしゃり出てきて小川さんの図像を解説、結果的に対談みたいになりました。この小川さんとの対談が面白かったので、一方的に新米を送って2回目の登壇をお願いして、しぶる小川さんに今回また来ていただきました(笑)。今回は講演ではなく、小川さんと店主による対談でした。

【参考】前回の話です
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2024/08/13.html

小川さんは、「思想の流れを図像で表す」という変わった趣味(!)をお持ちです。前回と同じく、小川さん作の図像に基づいて東アジア(日中)の思想の流れについて語りました。メインビジュアルはこちら(クリックして拡大します)。


孔子に発した儒教が、朱子学となって日本に渡り、徳川光圀によって水戸学という歴史哲学となって「国体」という観念を生み出し、それが大陸に逆流して満州国が建国される、という思想の渦を表したものです。

孔子の教えは、あくまでも政策担当者に向けたもので、そこから発展した儒教も社会の上層に向けた教えの性格が濃厚でした。漢の時代には「性三品説」という、「人間にはもともと上中下の三種類の人がいる(→上級の人間以外には教化は無意味)」という一種の血統主義が現れてもいました。ところが隋からは官吏登用試験の科挙が始まります。これは世界の歴史においても特異なほど平等主義的なやり方でした。こうして社会に広まった儒教から生まれたのが朱子学です。

南宋の朱熹(朱子)は、儒教を万物の理論へと再編集します。元来の儒教では世界の始まりや宇宙の成り立ちといったことへの関心が薄く、そうしたことに強い関心を持ったのは老荘思想の方だったのですが、朱熹は老荘思想や仏教など儒教以外の思想を総合して、個別的事物から天まで連なる統一理論「朱子学」を考案しました。

この朱子学を身に着けて、江戸時代に日本にやって来たのが朱舜水(しゅ・しゅんすい)です。朱舜水は、明朝の臣だったのですが、その再興を目指してなのか、日本海を8回も往復していました。それに目を付けて招聘したのが水戸藩の徳川光圀です。徳川光圀は「歴史マニア」で、日本の正史(正式な歴史書)を自ら作ろうと思い立ち、「大日本史」というプロジェクトを立ち上げるのですが、そこで問題になったのが王朝の正統性です。

朱舜水にとって、王朝の正統性は非常に重要でした。というのは、彼が仕えていた明朝は滅んでしまったのですが、続いて建国された清は満州族による異民族王朝で、彼はそれを正統な王朝だとは絶対に認めたくなかったのです。

中国では、から世界の統治を付託された一人の人を「天子」と呼び、歴史は天子の継承によって形作られます。一方、日本では鎌倉・室町・江戸など将軍政権は移り変わっていますが、ずっと天皇が存在し続けてきました。そこで「大日本史」プロジェクトでは天皇を「天子」のようなものとして位置づけたのですが、問題になったのが南北朝時代。この時代、天皇家が2つに分裂して天皇が同時に2人いたからです。これはマズい。天が統治を付託するのは必ず一人でなくてはならないので、どちらかが正統で、もう片方はニセモノということになります。「大日本史」は、元来は政治的なものではなかったのですが、中国の正史の枠組みに沿って歴史書を編纂しようとしているうちに政治哲学の問題に踏み込んでいきました。そうしてできた歴史哲学的儒学が「水戸学」です。この水戸学が明治維新を動かす思想的支柱の一つとなります。

ちなみに、江戸時代の儒学の中心は水戸学ではなく、幕府が作った昌平黌(しょうへいこう)という学校でした。徳川家康は林羅山(はやし・らざん)という儒者を政策顧問にしていたのですが、林羅山から連なる儒学が展開したのが昌平黌でした。ちなみに林羅山の先生が藤原惺窩(せいか)という人で、この人は明にわたって儒学を学ぼうとし、渡航のために鹿児島までやってきています。ところが鹿児島では戦国時代末にすでに儒学が高いレベルで研究されており、儒書が読まれていました。そこで「わざわざ明まで渡らなくてもここで学べば十分だ」と思ったのか、ともかく明には渡航せずに山川の正龍寺というところで儒学を学んで中央に戻っていった人です。鹿児島では貿易が盛んでたくさん中国人がいたことが、儒学の興隆につながったと思われます。

話を戻して、徳川光圀は水戸学とは違う流れの学問の発端にもなっています。それが「国学」。光圀は日本の古典が読めないのを遺憾とし、契沖という僧侶に『万葉集』の読解を依頼します。『万葉集』は万葉仮名という特殊な仮名(というより漢字)で書かれているため、読めない部分が多数あったのです。契沖はこれを見事解読し『万葉代匠記』という著作にまとめました。これが発端となり、日本の古典を読解していくという取り組みから「国学」という学問が生まれたのでした。

国学を大成したのが、本居宣長です。宣長は『古事記』に取り組みました。これは漢文と日本語が混ざったような言語で書かれていますが、宣長はこれを「古代人になりきって読む」という方法論で読解します。「漢字や儒学などの中国由来の知識を捨て去って、古代人の心(大和心)になれきれば読めるのだ!」というのが宣長の考えでした。ちなみに、古代中国の甲骨文を同じような方法論で解読したのが現代の漢字学者・白川静です。白川の漢字説は、日本では批判も多いですが現代中国で大変人気があるそうです。

ちなみに宣長は、儒学的な規範を「漢意(からごころ)」として人為的で余計なものと切り捨て、日本人はそうした規範がなくても自然に治まると考えていました。

宣長に私淑したのが平田篤胤です。宣長はあくまで学問的でしたが、篤胤は出版人・編集者・著述家という性格が強いです。霊魂の行方やあの世に大変関心があった篤胤は、宣長が恬淡としていた宗教観を発展させ、神話の世界やあの世の世界、異界を実体的に著述しました。そんな中で、「日本はすべての国の元の国」という日本ナンバーワン説を喧伝します。これが幕末の揺れ動く国情にがっちりマッチして幕末の志士に大変な影響を与えました。

一方、水戸学の方では幕末になると会沢正志斎という人が『新論』という本をまとめます。これは水戸学の主張をまとめた本ですが、ここで「国体」という概念が謳われました。正統性を考究した水戸学において、日本の正統な在り方という抽象的なものが「国体」という言葉によって具体化されたのです。これも幕末の国情にがっちりマッチして、『新論』は新たな国の在り方の模索に大きな影響を与えました。ただし、幕末の水戸藩では、考え方の違いで諸生党と天狗党という派閥に分かれ、天狗党の乱という内戦が起こって当時の知識階級が互いに殺し合いをしたため、明治後にはほとんど人材が残りませんでした。

明治維新が起こると、儒学者と国学者は政府に取り入れられ、儒学・国学のハイブリッド思想によって明治政府が運営されます。儒学は宗教性に欠けており、国学は教義性に欠けているため、両方がうまく取り入れられたのではないかと思います。こうして、本来は全く別々の体系として展開してきた儒学と国学が政策的に融合されて生まれたのが国家神道でした。ただし儒学と国学で一致していた点がありました。それが天皇の扱いです。双方に(将軍ではなく)「万世一系」の天皇を日本の正統な統治者とする観念があり、それが国家神道の核になります。

ちなみに、儒学と国学をつないだ「古神道」が興る影のキーマンとなったのが、薩摩藩の本田親徳(ちかあつ)ではないのか、というのが小川さんの考えです。本田親徳は南さつま市加世田武田の生まれで、会沢正志斎に3年ほど弟子になっています。どうやら彼は霊感が強くて、不思議な力を見せて人を引き付けていったようです。

国家神道には、儒学の道徳と国学の宗教性がありましたが、国家の行動理念のようなものは希薄でした。儒学は個人倫理が中心で、国学は「天皇の支配に身をゆだねる」というような、庶民の心得が中心だったからです。そんな国家神道がひねり出した行動理念の一つが「八紘一宇」。これの表面的な意味は「世界中の人々が家族のように仲良く暮らす」ということでしたが、実際には「日本(天皇)が世界を征服する」という理念として扱われました。

というわけで、時代がちょっと飛びますが、日本は大陸へ進出し、満州国が建国されます。それ以前の満州は、日清日露戦争を経て日本の租借地になっていました。ここで満州事変を起こして満州国という国家を建国した中心人物が、陸軍の石原莞爾です。実は、彼は国柱会という宗教結社の一員でした。国柱会というのは、田中智学という日蓮宗の僧侶が作った日蓮主義の団体で、宮沢賢治が加入していたことでも知られます。当時のエリートに大きな影響を及ぼした団体です。

1932年の第1回満州国建国会議では、「南無妙法蓮華経」のどでかい垂れ幕が掲げられています。満州国の思想的バックボーンとなったのが国柱会であり、日蓮主義だったのです。国家神道と日蓮主義が結合したのは一見奇妙ですが、国家神道に不足していた行動的な思想を日蓮主義が打ち出していたことが関係しているように思われます。なお、テロリストの側にも日蓮主義は浸潤しており、井上日召(日蓮宗の僧侶)が中心となった血盟団は政府要人を暗殺します(血盟団事件)。仏教的思想から暗殺に行ってしまうというのが今から考えると奇異ですよね。

ちなみに、権藤成卿(ごんどう・せいきょう)という人は、満州国で古代日本のリバイバルのような国家を作るという「鳳(おおとり)の国」構想を抱いていたそうです。最近、このことについて詳しく書かれた本『日本型コミューン主義の擁護と顕彰―権藤成卿の人と思想』(内田 樹 著)が出版されたということで小川さんは「ようやくこのあたりの事情がわかった」と言っていました。ともかく、満州国というのは単なる植民地だったのではなく、日蓮主義にしろ「鳳の国」にしろ、理想の国を建設する試みでありました(ただし現地の人にとってありがたいものではなかったのは言うまでもありません)。

その理想は、「王道楽土」「五族協和」といった一見快い言葉で飾られており、またその建設に邁進した人は本当に理想郷の建設を考えていたのですが、理想とはかけ離れた結果となりました。そしてそれを支えた思想は、儒学・国学・日蓮主義・陽明学など、本来まじりあう性質でなかった思想が「国体」というコンセプトの下に共存して生まれたものであったようです。いろんな思想を包摂してしまう「国体」というコンセプトこそ、近世日本が生み出した最大の発明品だったのかもしれません。

小川さんは、満州国の終焉まで話をしたかったとのことですが、このあたりで予定の2時間を超過したため、ここまでの話となりました。時間が足りなくなったのは、途中、私(店主)がけっこう話を巻き戻したり、補足を詰め込んでいたりしたためです。申し訳ありませんでした。なお、小川さんの話にもいろんな脇道がありましたが、上記のメモではほぼ割愛しております。

小川さんは、「人前で話をするのはこれが最後」とおっしゃっていましたが、そういわずに(笑)またお話ししていただきたいと思っています。なにより、こんなディープな話を縦横に展開できるのは小川さん以外にはちょっと思いつきません。さらなる登壇を期待したいと思います!

2025年8月30日土曜日

久しぶりの秋かぼちゃ

久しぶりに秋かぼちゃを植え付けました。

「秋かぼちゃ」とは、8月後半に種をまいて、12月初旬までに収穫するかぼちゃの作柄で、南さつまの特産品「加世田のかぼちゃ」として出荷されるものです。

私は2020年まで秋かぼちゃを作ってきましたが、2021~2024年の4年間は作りませんでした。その理由は(1)books & cafe そらまどを開店させたため忙しくなった。(2)この時期にかぼちゃにかかりきりになると柑橘類の管理がおろそかになる。(3)かぼちゃの台風対策を一人でするのが非効率的(私は農作業を基本的に一人でしていますので)。(4)なにより台風に翻弄される(=ギャンブル性が高い)のが性に合わない、の4点です。

しかし、昨年の柑橘類の成績が悪かったのに続いて、今年に入ってから大きな出費が続き、どうにかしてお金を稼がないといけないので、台風に翻弄されるのが性に合っていないことは自覚しつつも作付けすることにしたんです。

ところが案の定、8月21日、今年初の台風が急に来ました。鹿児島の方はわかると思いますが、こんなに急に来た台風は珍しい……というか初めてです。そして特に南さつま市は大雨が激しかった。加世田内山田では大規模な浸水が発生しました。翌日県道20号を走ったら、今まで見たことがないほどカーキャリア(車を積むトラック)が走ってました。浸水でダメになった車をどんどん運んでいると思うと切なかったです。水害で加世田にこんな大きな被害が出たのは昭和58年の加世田川氾濫以来かもしれません。

一方、私の方は倉庫がほんのちょっと水浸しになったくらいで大きな被害はなく、かぼちゃに関しても幸いなことに植え付け前でしたので大きな影響はありませんでした(植え付けるのが4日ほど遅れたくらい)。しかし、連日続くこの猛暑と異常気象。今後は穏やかな天候に恵まれる、というのはありそうもないですねー。

とはいえ、今後台風が来ないことをひたすら祈るしかありません。こればっかりはどうしようもないですからね。ギャンブルは苦手ですが、この秋は賭けるしかありません!

2025年8月29日金曜日

第19回そらまどアカデミア「海*東アジア&日本」を開催します!


9月14日(日)、そらまどアカデミア開催します。

いつものそらまどアカデミアは講演ですが、今回は対談です! しかも、店主が小川景一さんと対談します。どうしてこんな変わったイベントをするのかというと、話は1年前にさかのぼります。昨年8月、小川景一さんには「海を渡ってきた儒学とその周辺…そして明治維新までの物語」と題してご講演いただきました。

【参考】第13回そらまどアカデミア開催しました。朱舜水から水戸学、そして明治維新へ
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2024/08/13.html

上のブログ記事にも書いていますが、この講演では後半店主がしゃしゃり出てきて、対談形式になったのですが、それがけっこう好評でした。

この講演はとても盛り上がったと思うのですが、小川さん曰く「儒学なんて、そんなに入れ込んでないから」。じゃあ小川さんが入れ込んでいる老荘思想について語ってもらおうと依頼したところ、「老荘思想は語ったらもう老荘じゃない。それよりは前回の続きで対談しよう」ということになりました。

具体的には、明治維新の思想的バックボーンとなったのが儒学やその周辺の中国思想であり、日中交流の中で育まれてきたさまざまな思想が長い歴史を経て革命の論理になっていった、ということを小川さんまとめた図像を前に語ります。つまり前回の話を改めて最初からやり直すということになります。それに追加して、実は満州国がそういう一連の思想を具体化した実験場であったというような部分にまで踏み込む予定です。

ただし! 先日小川さんと打ち合わせしたのですが、「とてもじゃないけど、この話をしていたら2時間では終わりそうもない」と思いました。でも、もう2時間で終わらなくてもいいので、喋れたところまででやりたいと思います。小川さんと存分に語り合いたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

★前回の講演を聞いていなくても、聞いていても楽しめる内容のはずです。 

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第19回 そらまどアカデミア

海*東アジア&日本

対 談:窪 壮一朗×小川 景一

海を渡ってきた儒学とその周辺、そして明治維新。
維新の残響、中華・朝鮮半島。そして満州。

日 時:9月14日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
小川景一:絵師・唐通事。武蔵野ミュージアム選書スタッフ。中国桂林にてデザイン教師、鹿児島大学非常勤を経て、現在庭師修行中。

2025年8月8日金曜日

新米の販売を開始しました!

2025年産の新米の販売を開始しました。

今年は、天候に恵まれました。田植え時期に寒波にあたることもなく、生育初期には水も豊富にあり、後半は天気が良くて日照時間が長かった。特に生育初期(5月)に水が豊富だったのは珍しいことで、おかげで田んぼの雑草がほとんど生えませんでした。

うちでは、お米を無農薬で作っていますので、草対策が重要です。無農薬栽培を開始したのは2014年ですが、一昨年くらいまでは半月以上を草取りに費やしていました。全部手で草取りしていますので…! ところが、何年も徹底して草取りをしていたら、草の種や球根などが田んぼの土からなくなり、草が生えにくくなりました。というわけで、今年は水に恵まれたこともあり、ほとんど草取りなしできれいな田んぼをつくることができました。

一方、無農薬・無化学肥料で作るようになってから初めて、稲が倒伏しました。これはすごく不思議でした。というのは、普通、倒伏というのは肥料のやりすぎによっておこるのですが、今年は肥料を入れていないんです。

といっても全く無肥料というのではなく、冬にレンゲを栽培しており、レンゲが緑肥となっていますのでそれなりには窒素分が入っています。しかし、このあたりではヘアリーベッチ(レンゲと似たような緑肥で、レンゲより窒素供給量が多い)を緑肥にしている人も多いですが、化学肥料も半分程度入れるのが普通です。レンゲ緑肥のみというのは、かなり肥料が少ない方です。

にもかかわらずなぜ稲が倒伏したのか? 別に強い風が吹いたわけでもないのに。

いろいろ考えたんですが、「レンゲ緑肥を何年も栽培した結果、地力がたいへん向上していた。そんな中で、天候に恵まれたため稲の生育がよく、たくさんの実がなって倒伏した」のではないかと思います。うちでは、無化学肥料と言っていますが、有機質肥料もできるだけ入れないようにして、地力向上重視で管理してきました。正確なところは不明ですが、今年の天候がその管理にばっちりハマったのかもしれません。倒伏自体はよくないことですが(←コンバインでの稲刈りがしづらく、種籾が水につかると商品価値をなくす)、倒伏するくらいたくさん実ったのはいいことです。

ともかく、今年は豊作で、品質もよさそうです(私はまだ新米を食べていませんが見た目で判断して品質もよいと思われます)。

そして、昨年よりも値段を上げさせていただきましたが、常連さんからはいつも以上にご注文をいただき、すでに1トンほどが売れました。いくらかは注文数が減るかと思っていたのに、例年通りご注文をいただき本当にありがとうございます。

在庫は残り500㎏ほどです。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

↓ご購入はこちらから
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のお米
https://nansatz.stores.jp/items/68877c338fe718028485a336

※現在は予約期間中ですが、お盆明け後くらいに順次発送(日時指定可)を開始します。

2025年7月6日日曜日

値付けを間違えて激安でかぼちゃを販売しています。


今年のかぼちゃの収穫が終わりました。

今年のかぼちゃは、苗づくりの時に結構失敗してしまったのですが、失敗した分は畑に直播きしてリカバリ(?)しました。無事収穫できてよかったです!

【参考】「10年に一度の寒波」は、来る時期が悪かった 
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2025/03/10.html

インターネットでも販売しました。これまでのオンライン・ショップのサイトの契約を終了して、新たにSTORESというサイトの仕組みで販売することにしたのですが、STORESでの最初の商品がかぼちゃでした。

【参考】【重要】「南薩の田舎暮らし」のオンライン・ショップが引越しします。 
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2025/03/blog-post.html

昨年までは2kg玉1個を800円で販売していたのを、個数ではなく重さを単位にして、ちょっと安くして、1箱(3kg以上)を1000円で販売しました。割とたくさんの方からのご注文をいただきました。

ところが、これは完全に値付けの失敗でした!

というのは、3kg入りなので、2kg玉+1kg玉、1.5kg玉+1.5kg玉などの組み合わせを考えていまたのですが、実際にはそんな都合よくちょうどいい重さのかぼちゃがあるわけがなく、2kg玉+2kg玉で4kg近くなったりし、結局、280円/kg程度の単価になりました。

これは農協に出すよりは高いのですが、物産館で売るよりもずっと安いのです…。ちょうど3kgにしても333円/kgなのでかなりお得なのに、実際にはさらにこれよりも安くなったというわけです。100gで28円ってスーパーより安いですもん! これは考えが足りなかったですねー…。 

ところで、今年は「グラッセ」という品種のかぼちゃを試験的に作ってみました。

私もいろんなかぼちゃを食べていますが、これは抜群に美味い! 栗かぼちゃ系ですが粉っぽくなくきめが細かく、甘くて味わいが深いです。 来年から、こちらのかぼちゃをインターネットで販売したいと思います。ただし、値段は今年のように激安ではないと思いますのでご承知おき下さい。

ちなみに、今年のかぼちゃは予約販売でしたが、まだ在庫があるので、もうちょっと注文を受け付けられます。どうぞよろしくお願いいたします。(※予約販売となっていますが、順次配送します。値段を上げたいところですが、在庫はあとちょっとなのでヤケクソでそのまま販売します)

↓ご注文はこちらから
【家庭用】南薩かぼちゃ3kg以上|南薩の田舎暮らし
https://nansatz.stores.jp/items/6836a3d652c94a90e2747013
 

2025年6月17日火曜日

第18回そらまどアカデミア開催しました。「芸術には一致したものがある」

第18回そらまどアカデミア開催しました。

今回お話しいただいたのは、吹上町野首(のくび)の画家・佳月 優(かづき・ゆう)さんです。

佳月さんと知り合ったのは10年以上前ですが、芸術に真摯に向き合うその姿勢に感銘を受け、「いつかどこかでお話してほしい」と思い続けてきました。今回ようやく、そらまどアカデミアの場を使ってその思いを実現することができました。

佳月さんは、ご自身の人生を絡めつつ「人は、いったいどのような絵を美しいと感じるのだろうか?」ということについて語ってくれました。

佳月さんは、愛媛県今治市生まれ。お父様は造船の仕事をしていたそうです。小学生から剣道を始め、高校までは剣道漬けの生活を送ります。工業系の高校を卒業後、家族で鹿児島に引き上げてきて、電気工事の仕事に就きました。

ところが、絵に関する仕事がしたいという思いが次第に強くなっていきます。高校までは剣道ばっかりだったのに、絵に関する仕事がしたいとなっていったのが面白いです。生まれながらのものなんでしょうか…⁉ そして就職話を断って大谷画材に勤めます。大谷画材は、2024年に惜しまれつつ閉店した鹿児島の古い画材屋さんです。

佳月さんは、ここで「ルフラン(絵具)の、メーカーしか見られない資料を見ることができたり、画材の勉強ができた」そうです。そして大谷画材の2階でやっていたデッサン教室に通います。お父様が油絵を描いていたことから油絵を独学で始め、100号の作品を書いたところ県美展に入選。この作品、すでに高い完成度に達していました。そして次の年の県美展でも入選します。

ところが次の年は落選。スランプになります。そんな時にお母様が「ちゃんとした仕事に就きなさい」といって、今度は京セラの工場に勤めることになります。ここはとってもハードな仕事で、残業が月120時間あったとか。帰ってきて玄関で倒れこんじゃうような暮らしでしたが、その中でも100号の作品を描いて南日美展(南日本美術展)で入選したりもしていました。

が! 無理がたたって、佳月さんはくも膜下出血で倒れてしまいます。

くも膜下出血は、当時は助かる可能性が低かったそうですが一命をとりとめ、その中で思ったのが「絵が描きたい」ということ。そして1年後に京セラを辞め、鹿児島市内で絵画教室をオープンさせます。思い切った人生の選択ですよね。

当然、実績のない若者がやっている絵画教室では生徒さんは集まらなかったそうですが、ここが学生や画材屋時代の仲間のたまり場となります。この仲間でグループ展をしたり、お金を出し合って飲んだり食べたりしたりという、楽しい場所になります。「私は大学は行ってないですが、まるで大学時代みたいな感じでした」。

そんな仲間の一人に「ナガタ君」がいました。「彼は雑学王で、とにかく毎日美術のことを調べていたんです。そして彼と美術の巨匠たちの絵を分析していろいろ議論しました。ある時は私が不在だったんですが、わざわざ絵の分析を丁寧に書き残していったこともあります」

ナガタ君がゴーギャンの《ポン=タヴァンの水車小屋》について書き残したスケッチブック

当時の佳月さんの絵は、私から見ると十分魅力的ですが「上手に描いているつもりでも、上手に描くだけでは展覧会には入選しない」のだそうです。ナガタ君と佳月さんは、巨匠の絵の分析をする中で、画面に描かれるものが、じつに巧妙に配置されているということに気づいていきます。

そしてその配置の秘訣が、「黄金比」や「黄金分割(黄金比による分割)」でした。黄金比とは、1:1.618...のことで、最も調和がとれて美しい比率されています。ピラミッドやパルテノン神殿にも黄金比が使われていますが、この比は工学的に安定した形でもあります。

また、フィボナッチ数列という、1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, …という数列がありますが、これは隣り合う数の比が黄金比に近づいていくという数列で、この数列を矩形の分割に使うことで巻貝の断面のような螺旋が現れます(黄金螺旋)。絵画作品にはこの螺旋も多用されているそうです。

そして、1:√2、1:√3、1:√5のような比率も重要で、これらと1:1(つまり正方形)と1:1.618...(黄金矩形)の5つの矩形が絵画作品の中にはちりばめられているんだそうです。佳月さんは、画集に掲載されている絵に5つの矩形を表すたくさんの補助線を引き、一見何気なく描かれた雲や木々や山、服のシワのようなものが、その補助線の上にぴったり載ってくることを確かめていきました。

そんな中でも、黄金分割や螺旋が巧妙に多用されているのが、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」だそうです。「ホントに黄金分割に基づいて画面構成をしていたのか? と思うかもしれないが、スーラは意図的にしていたらしい」。

ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』

佳月さんはナガタ君とこういう研究を1年半くらい行い、その研究に基づいて黄金分割を画面構成に使った絵を描きます。面白いことに、その絵を描く前に「(断面が黄金螺旋になっているという)オウムガイの怪獣が2匹飛んでる夢を見た」そうです。

そして、その絵が白日展(白日会展)で賞をもらいます! 佳月さんによれば、この展覧会は「どうして私なんかが賞をもらえたんだろうと思うくらい、すごい作品ばかり」。さらに佳月さんは、日展でも特選を2回も受賞します。どこの派閥にも属していないのに特選を取ったことは驚異的です。

「私にとって色彩は難しい。だから黄金分割にこだわった構成を一生懸命やった」。それが評価されて、美術界でも佳月さんのスタイルとして認知され、日展の審査員、そして会員まで務めることになりました(日展の会員というのは、日展に無審査で作品が展示される特別の立場)。

「日展の審査はすごかった。17人の審査員が、たった何秒か作品を見て入選か落選かを挙手で判断するんですが、それが17人全員一致している。みんな手を挙げるか、みんな手を挙げないか。これにはビックリした」ということです。つまり、絵の良しあしは、個人の好き嫌いとか感性の以前に、万人一致した部分があるということです。「ただ、上の賞になってくると、そりゃ人間社会だからいろいろあるので、一致というわけにはいかないですが…(笑)」

しかし佳月さんは、会員になった次の年に会員を辞めて展覧会から遠ざかります。日展の会員というのは芸術の世界での大きな権威なので、事務局からは「会員になってすぐやめる人は、これまで一人もいないですけどホントにいいんですか?」と言われたそうです。ですが、日展と白日展のために継続的に作品をつくっていると、どうしても同じような絵ばかりになり、そもそも「これを表現したい」という内的な衝動が枯渇してしまったのでした。

そうして、佳月さんは「いろんなストレスから解放されて、今は近所の風景などを描いています」とのこと。この10年くらいは、「死ぬまでに完成すればいいかな」と3枚組の5mくらいの巨大な絵を描いているということでした。スケールがでかい!

ただ、制作の方法論が変わったわけではなく、黄金分割を使った画面構成が基本になっています。でもそれはもはや計算というより、体に染みついたものになっているように思いました。そもそも黄金比(や√2や√3を使った比率)は自然界にもたくさん存在しています。有名なのはヒマワリの種の配列(正確にはフィボナッチ数列)ですが、葉っぱの縦横比や大きさの比などもそういう比率が見られます。それはもちろん、人が見て美しく感じるようになっているのではなく、逆に人が自然の美しい形に囲まれて生きてきたからこそ、そういう比率を美しく感じるようになったのでしょう。

広告デザインや企業のロゴにも黄金比は多用されています。特に「くまモン」は巧妙に計算されたデザインだそうです。みんなに受け入れられるものには理由がある、ということですね。

講演後には、会場から「画面構成より、作家が作品に込めた想いを受け取って感動するんだと思っていたが…?」という質問がありました。佳月さんは「作家の表現したいという気持ちが作品の核にあることは大前提」としつつも、「描きたいものを感性のままに描いても、それが見る人には伝わらないかもしれない。それを伝えるために、黄金分割などが必要になってくる」ということでした。

それに、「美術評論なんかを見ても、私の作品に対して私の考えとは全く違うことが書いてある(笑)。それも毎回。評論のプロでも、作家とは感じ方が違う」として、作家の想いを受け取るというより、「作品を見てそれぞれ違う感じ方をする、ということでいいのだと思う」と述べていました。

ところで、黄金分割の研究を共にやっていた「ナガタ君」はどうなったのか? というのが気になりますよね!?

「ナガタ君は、絵を見る目が確かでアドバイスなんかもすごく的確なんですけど、絵では成功しなかったです。それで小説家になって今南日本新聞でエッセイを書いています。皆さんご存知だと思いますが永田祥二さん。西日本の文学賞もたくさんとったすごい小説家なんですよ」とのこと。「ナガタ君」が南日本新聞の2面に毎日載ってる「鹿児島つれづれ小咄(こばなし)」の永田さんだったとはびっくりしました!

「いい絵とは何か? どういうものを人は美しいと感じるのか? 」

というと、「いろんな好みがある」とか「人それぞれ好きな絵は違う」と思っていましたが、「日展の審査員17人全員一致していたように、いい絵とは何か、素晴らしい芸術には一致したものがある。見る人が見たら、いい絵かそうじゃないか一瞬でわかってしまう。ある意味恐ろしい世界」なのだということです。その「一致したもの」の一つが黄金分割なんですね。なお、色彩にも同じような調和する比率があるそうです。

私は鋭敏な感性を持っていないので、「一致したもの」を感じる目はないです。それでも、美術の巨匠の作品と、ジョイフルに飾ってある作品は全然違うことはわかります(私はジョイフルに油絵が飾ってあるのが好きです)。でも具体的に何がどう違うのかは説明はできません。特に花の絵なんてほとんど似たようなものなのに。その違いは、もしかしたら黄金分割にあるのかもしれません。

2025年5月18日日曜日

南さつま市にゆかりある人に広く読んでいただきたい本=『南さつまを歩く』を刊行しました

このたび、私=南薩の田舎暮らし代表(窪 壮一朗)が執筆した本が刊行されました。

『南さつまを歩く——福元拓郎さんのふるさと語り(加世田編)』(南さつま市観光協会)です。

この本は、南さつまの「名物ガイド」である福元拓郎さんのお話をまとめたものです。なので、私が執筆といっても、内容は福元さんによるもの。福元さんは、ふるさとの歴史や変転にずっと関心を持ち続けてきた方です。

福元さんは、「武将の〇〇が××の戦いで…」というような大文字の「歴史」だけでなく、例えば井川(井戸として使われた小川)がどうであったかとか、小学生がどうやって遠くの学校に通ったかといったような、人々の生活の場の歴史にも詳しいのです。

その上、福元さんの語りはとっても軽妙! 単に知識を伝えるだけでなく、面白おかしく、飽きさせずにしゃべるというのはなかなかできることではありません。時々織り交ぜられるギャグもいい味だしてます。

そんなわけで、南さつま市の観光と言えば福元拓郎さん! という状態が続いてきました。

福元さんは「加世田いにしへガイド」というガイドの団体も組織し、ガイドの育成にも取り組んできました。ですが、だんだん福元さんも高齢になってきたため、「福元さんのガイド知識を後世に伝えるために協力してほしい」という依頼がガイド団体の母体(NPO法人南からの潮流)から、南さつま市観光協会に相談がきたのが2017年ごろです。

その頃、私といえば南さつま市の一大イベント「吹上浜 砂の祭典」に協力していて、聞き書きのインタビュー記事をいくつか書いていました(ボランティアです)。2017年の「砂の祭典」がちょうど30回記念大会だったことで作った記事でした。

【参考】おかげさまで30回記念 - 【公式】吹上浜 砂の祭典 in 南さつま
https://www.sand-minamisatsuma.jp/30th/
※上のサイトの中の「「砂の祭典」にかける想い」という記事群が私が書いたものです。

一方、私は南さつま市観光経協会の広報部会では名前だけの(=時々部会に出るだけの)部員だったんですが、「砂の祭典」のインタビュー記事を書いていた関係上、「窪さん、協力してよ」とお願いされたんだったと思います。NPO法人南からの潮流は、当時「砂の祭典」でかなり大きな存在感があって、「砂の祭典」の会議などで関係者と同席する機会が多く、顔見知りになっていたからでしょう。

ただ、向こうからのお願いが具体的にどんなものだったのかは、どうにも思い出せません……。内容はともかく、私は安請け合いしたような形だったと思います。

ところが、実際に福元さんの話をまとめようとすると、さっきの「砂の祭典」のようなちょこっとしたインタビュー記事のようなものでは全く不十分だということがわかりました。何しろ、とんでもなく話題が豊富で、要点だけまとめればいいというようなものではなかったんです。

そこで腰を据えて聞き書きをすることを決意し、結局、約2年かけて27回のインタビューを行いました。1回あたり3〜4時間はかけたので、聞き書きのためのインタビューだけで100時間くらいかかっています。文字起こしとその確認・修正の時間も同じくらいかかっているので、原稿の元になる聞き書き原稿を完成させるのに200時間くらいかかった計算になります。

さらにその後、実際に南さつま市の各地を巡って写真撮影をしました。夏場は草ボウボウになって写真が撮れない場所が多かったので、1ヶ月に1回を基本として冬を中心に2年間かけて回りました。 そんなわけで、インタビューと写真撮影だけで4年間もかかったのですが、さらにそれを原稿として整理する作業がありました。これは鹿児島の出版社「燦燦舎」にご協力いただきました。

そうしてやっと完成したのが今回の本です。しかもこれで終わりではなく、「金峰・大浦・笠沙・坊津編」という、旧4町の分もこれから編集して刊行します。2017年に引き受けたときは、まさかこんな長丁場のプロジェクトになるとは思ってもみませんでした。

結果として出来上がった本は、当初の目的の「ガイドの知識」を伝えるだけのものではなくて、「南さつまを知る」ための本になったと思います。実際、これは観光ガイドのようなものではなくて、南さつま市にはどんな歴史・名所・旧跡があるのか、どんな場所だったのか、 各地域の特徴はどんなものなのか、どんな産業がどうやって発展し衰退していったのか、人々はここでどう生活していたのか、といったことを縦横無尽に語っている本なのです。

特に、自治体が作る郷土誌のようなものとは全く違うのは、「あそこには昔こんな店があって…」「ここの道路が改修されたのは…」というような、生活者視点の現代史が語られていることです。こういうことは、意識的に遺していかないと忘れ去られていくことなので、この本でその一端が残せたことは価値があるのではないかと思っています。

というわけで、観光ガイドとか関係なく、南さつま市にゆかりある人に広く読んでいただきたい本です。なお一般の書店には流通していないので、
きやったもんせ南さつま (加世田)
books & cafe そらまど (大浦)
books & cafe そらまど のオンラインショップ
でお買い求めください。どうぞよろしくお願いします。