2026年1月22日木曜日

第21回そらまどアカデミア開催しました。石造物から廃仏毀釈の実相に迫る!


第21回そらまどアカデミア開催しました。

今回登壇していただいたのは、そらまどアカデミア登場3回目の川田達也さんです。川田さんは、鹿児島県内の古寺跡をめぐってきた人ですが、最近はそれに飽き足らず、「県内の全墓地に行ってみたい」という墓地に憑りつかれた方。今回は「石造物の世界から廃仏毀釈を見直してみよう」という講演でした。

鹿児島では、幕末と明治の初めに激しい廃仏毀釈が行われました。幕末(慶応2~3年)の頃は財政的な事情から行われたのですが、明治初年(慶応4~明治2年)では思想的な理由、つまり「もう仏教なんかいらない」というものになりました。

廃仏毀釈が徹底化することになった契機が、明治2年3月、藩主島津忠義の正室・暐子(てるこ)さんが神式(神道式)で葬儀されたことです。それまで葬式と言えば仏教以外になく、葬式があるからこそ寺院を全廃することはできなかったのですが、葬儀を神式にしたことで仏教寺院の存在意義はなくなったことにされました。

これを受け、それまでの廃仏毀釈では標的になっていなかった大寺院も12月に全廃の通知がされます。そうして、鹿児島ではすべての寺院がなくなり、また僧侶は全員還俗(げんぞく=俗人に戻ること)させられるという徹底的な廃仏が行われました。それは、なかば暴動的なものだったのです……と言われてきましたが、本当に暴動のような感情的なものだったのか? と川田さんは問題提起します。

まず、藩から出された指令を読んでみると、ちゃんと廃仏の手順が決められて、還俗後の僧侶の処遇にも気を使われていることがわかります。仏教が憎いから破壊した、という感じではない……?

注目すべきなのは庚申講関係の石造物です。庚申講とは、60日に一度訪れる庚申の日に宗教的儀式を行い、また夜を明かして飲み食いをするグループです。これを3年=18回続けるとそれを記念して庚申塔という石造物を建立することが多かったのですが、これには庚申地蔵という地蔵の形態のものがあります。驚くべきことに、この庚申地蔵は明らかに仏教的なのにほとんど破壊されていません

鹿児島の廃仏毀釈では、路傍の仏像の首まで刎ねるほど徹底的かつ暴力的なものだった、というのが通説ですが、どうして庚申地蔵は破壊の対象にならなかったのか。また、鹿児島市本城にある花尾神社には「庚申仁王像」があり、また東市来の稲荷神社には県内随一の素晴らしい仁王像が残っていますが、これも庚申講が造立したと思われます(隣にある「庚申唐猫」には要注目!)。ほかにも庚申講関係のもので残存しているものは極めて多い。

とすると、民間信仰は、仏教的であっても破壊の対象にしなくてもよい、というお触れがあったのではないか? と考えられます。実際、馬頭観音、六地蔵塔など民間信仰的なものは破壊されていないものが多い。また、これまで川田さんもあまり注目していなかったと言っていましたが、石灯籠もそれを解明するヒントを提供しそうだということです。

吹上の大汝遅(おおなむち)神社には、明治2年に講によって奉納された石灯籠があり、これは廃仏毀釈の最中にも講が活動を続けていた証です。さらに興味深いのは、廃寺後の旧境内に「奉寄進 兵器四番小隊中」と刻んだ石灯籠が奉納された東市来の事例。自分たちで寺をなくしておいて、石灯籠を奉納するとはこれいかに。これは「廃仏に対する微妙な気持ち」を表明したものではないかと川田さんは言います。

これまで、「鹿児島の民衆は藩庁のいうことに唯々諾々と従った」とされてきましたが、反抗がなかったわけではないようです。

また、住持墓にも注目すべきものがあります。宮崎県高原町(旧薩摩藩領)の狭野権現社(の別当寺神徳院の墓地)、南九州市川辺町の善積寺跡、宮之城の大道寺跡には廃仏毀釈の最中に亡くなった住持墓があります。ちょうどこの時期に3人も亡くなっているのは偶然でないのかも。彼らは廃仏毀釈に抗議して自害したのでは、というのが川田さんの見立てです。

さらに、鹿児島の廃仏毀釈は島津家の意向で行われた、と言われていますが、実は島津家も一枚岩ではなかったと考えられます。

キーマンは藩主島津忠義です。忠義は、文久の頃(=幕末)、それまで財政的な事情から禁止されていた妙円寺参りを復活させ、自分も参詣します。さらに明治後の廃仏毀釈の最中である9月14日に軍務局の隊員を引き連れて自ら妙円寺参りを行います。妙円寺が廃寺になるのはその3か月後です。忠義は廃仏毀釈に反対で、存続を図るためにあえて妙円寺参りをしたのではないか、と思われるのです。しかし当時「国父」と呼ばれた父・久光の権力が絶大で、久光の意向には従わざるを得ませんでした。「廃仏令」(明治2年に徹底的な廃仏を指示した命令)は、久光の名前で出されており、藩主と連名になっている公式の命令と毛色が違いますが、これは忠義ができる消極的な抵抗の一つだったのかもしれません。

それから、川田さんは「これを見つけて頭が真っ白になった」と言っていたのが、大明が丘の墓地にあるお墓。「辻盛之助源朝臣清武神霊」と刻まれた神式の墓塔が明治2年8月8日に建立されているのです。この墓塔が建立される2週間前(7月19日)に「藩庁が葬儀師を置いて福昌寺および源舜庵に出張させた」という記録があるので、「神式ではこんな墓塔をつくりなさい」というような指示をしていたのかもしれませんが、それにしても仏教色を排除した完成された形の神式墓塔が8月8日に建立されているのは早すぎる! この墓塔の近くにある明治2年の「福姫命」なる墓もそう。

そもそも藩庁は「こんな墓塔を作りなさい」というデザインをどこから仕入れたのか。川田さんは、この指令の前にお墓のスタイルを決めていた勢力がいたようだと推測しています。そもそも鹿児島神宮周辺では早くも安政年間には戒名を使わない神式の墓塔が建立されていました。でもそういうのがないはずの吉野に、なぜこのスタイルの墓塔が建立されたのか、謎です。

このように石造物をつぶさに見ていくと、これまで「鹿児島の廃仏毀釈はこうだった」と思われていたこととは少し違う様子が見て取れます。感情的に「仏教的なものは全部ダメ」としたのではなく、庚申地蔵はOKとするなど冷静な線引きがうかがえ、破壊的というよりは順を追って廃仏毀釈を進めたという感じがします。とはいえ、仏教的ではない田の神(しかも神像タイプ)を破壊するなど、よくわからずに「とりあえず石造物を壊せばよい」というような雑な理解で廃仏毀釈を手掛けた人もいたことは間違いない。しかし「感情的に進めて、藩内の寺院を全廃するようなことができたとは思えない。廃仏毀釈が何年も持続したこと自体、冷静に遂行した証では?」と川田さんは見ています。また、それなりの反対があったからこそ冷静に進めた部分もあったのかもしれません。

そして廃仏毀釈が完遂できた要因として、これまで見過ごされてきましたが、「講などの民間信仰を容認した」ことがあるのではないか。鹿児島の民衆にとって一番大事だったのは、「仏教でも神道でもなく、講だったのでは。だから廃仏毀釈が比較的スムーズに進んだのかも」とのことでした。

「これまで江戸時代の古い墓塔を中心に見てきて、あまり明治時代の石造物に注意していなかったが、明治時代の石造物をもっと見てみると、もっといろいろわかるかもしれない」と川田さんは言います。川田さんにより鹿児島の廃仏毀釈の実相が解明される日も近いですよ!

2026年1月19日月曜日

失われた「一番の財産」。無農薬・無化学肥料のポンカン販売中です。

「無農薬・無化学肥料のポンカン」の販売を開始いたしました。

早速配送しておりますが、「すっごく美味しかった」「甘みと酸味がほどよく、たいへんおいしかったです。ご近所さんにも、少しお裾分けしました」というコメントをいただきました。ありがとうございます。

これまで、販売サイトの商品説明ページにこういったコメントを掲載していたのですが、今季、販売サイトを引っ越しした際、商品説明ページのバックアップを取るのを失念しており、これまでのコメントが全てが消えてしまいました。生産者・販売者にとって一番の財産なのに大変な失態です。

これまでコメントを下さったみなさんにも申し訳ないですし、そのせいか、販売実績が例年に比べなんだか振るいません…。

そんなわけで、手元に残っている範囲でこれまでお客様からいただいたコメントをここに掲載いたします。

早速みんなで食べてみて大満足でした、甘味と酸味のバランスがグッドです。
ツヤツヤのオレンジ色が食欲をそそりますね、2箱買って正解でした。
別配送で頼んだお友達からも、とても甘くて美味しいと喜んで貰えましたよ。
送った私も嬉しかったです。(東京都 Tさん)

香り高く、爽やかな味のポンカンでした!
家族にも好評で、けっこうハイスピードで消費しております。
また近々注文させていただきたいと思います。(鹿児島県 Mさん)

ふっくらとしたみずみずしさがやっぱり美味しいです。まるで寒中の太陽のようで幸せな気持ちになります。香りだけでも幸せ感満載なので皮も湯船に入れて楽しんでいます。(神奈川県 Nさん)

早速いただきましたが、サクサクとジューシーでおいしくてあっという間になくなりそうです(^。^)(三重県 Fさん)

今年は粒が揃い、みずみずしく美味しかったですよ。
年季が入り、今までで最高のポンカンじゃないでしょうか。(山口県 Yさん) 

福岡のスーパーで買うものより、実が大ぶりで、皮をむいた時に立ち上る芳香がすごかったです。
味が濃くて酸味も程良く、最高においしいです!これはもうスーパーのは買えません。(福岡県 Nさん) 

私も母も、食べ続けてしまってます。甘さと酸味は控えめ、あとは表現しずらいのですが、美味くてモリモリ食べてしまう、と言った感じです(東京都 Iさん)

皆さんが感じられてるように、香りも良くて、今年もすごく美味しいです。あっという間になくなりそうなのでリピートです(*^_^*)
元気な果物に元気をたくさんもらっています。(大阪府 Tさん)

今年もおいしいです❗甘いです。香りも、とてもいい香りで指先の残り香もほっこりします。大事にいただきます。(熊本県 Aさん)  

早速いただいたところ、大変甘く美味しかったです。2歳の娘もひと玉まるごと喜んで食べていました。(宮崎県、Gさん)

あまりの美味しさに孫達は「美味しい・香りが良い」の連呼でしたよ。
爺の田舎のポンカンを大絶賛され、鼻高々の爺でした。(山口県、Yさん)

美味しそうな色!
神棚にお供えしています。
皮も使えるのうれしいです。(千葉県、Sさん)

先日送っていただいたポンカン、大きくてすごく美味しい最高のポンカンでした!!最高です!!こんなに美味しいポンカンを食べることができて幸せです!!(東京都、Hさん)

美味しい。本当に、美味しい。他に言葉が出ないです。(埼玉県、Nさん) 

甘味と酸味と、我が家の大好きな味でした、五キロが直ぐに無くなってしまいそうです、もっと沢山頼めば良かったと後悔です。(/o\)(東京都 Tさん)

ポンカンは実に美味しい
丁度、娘の嫁入り先から、熊本のデコポンが送ってきていたのですが、
食べ比べて、より味が濃厚、適度の酸味があり、ポンカンの勝ち!
我が家の全員一致の感想です。(長崎県 Sさん)

知人も「本当に美味しいものをありがとう!小学生の娘が"これはスーパーで買ってきたものと全然違う!スーパーで買ってくるのは、変な甘さがあるけど、これは無い!"と言って喜んでる!確かに、身体にすっと入っていく優しい甘さがある!」と大絶賛してました。(滋賀県 Tさん)

とても美味しくて、ご近所さんにもお裾分けをしたら「このポンカンは食べやすいね!」と、とても喜ばれました。ありがとうございます。
あまりにも美味しかったので、追加でもう一箱よろしくお願いいたします。(兵庫県 Yさん) 
昨日、美味しいポンカンが届きました。
今年は形も色も味も最高じゃないですか。
ポンカンを食べながら新しい年を迎えられます。(山口県 Yさん)

ベタですが太陽の恵みそのものの味がします。ウマイです!!早速個数制限を掛けました(笑)。皮ももったいないので試しにピールにしてみました。香りが良いです。大量生産してパンに入れて焼いたりしようと思います。そのほか漬物の香り付けにしたり、何より丸ごと安心して使えるというのが嬉しいです。
ありがとうございます。(神奈川県 Nさん)

ひとつひとつがずっしり重くて、ツヤツヤの美人さんで、自然な甘さと酸味がスーっと体に溶け込んでいくような美味しさですね。
無農薬というのも、とっても嬉しいです。皮は干してお風呂に入れようかと思っています。(兵庫県 Yさん) 
ポンカン、びっくりするくらい美味しくてすごく瑞々しくイキイキしていて感激しました。収穫のあるうちに、リピートしたいです。(東京都 Mさん)

早速一つ頂きましたところ、あっさり上品な甘味で非常に美味しいポンカンでした。
またポンカン自体が綺麗すぎないところが野性味かつ力強さを感じます。(すいません、誉めてるつもりです)(東京都 Mさん) 

少し置いてた方が良いのかな?と思いつつ我慢出来ずに「様子を見ないと!」と言い訳をして、つい手を出して食べちゃいました。とても美味しく、毎日いただいております。ありがとうございました。(福岡県 Iさん)

とてもピカピカのポンカンが箱いっぱい!
すぐに頂いてみました。
美味しいです!みずみずしくって甘~い♪
木で完熟してる本物はこんなに美味しいんですね。(神奈川県 Nさん)

先日頂いたポンカンがあまりに美味しかったので、来年なんて言わないで今年送ろう!と思って注文しました。実家に美味しいポンカンを食べてもらうのが楽しみです。(神奈川県 Nさん)

実際に届いたポンカンを食べてみて、「ああ、なつかしい味だな」と思いました。
甘さだけなら最近はもっと甘い品種もあるけれど、窪様のポンカンは酸味と甘みのバランスが絶妙で、後味がすごくさわやかですね。個人的に大好きな味です。(千葉県 Tさん)

やさしいとしか、言葉が浮かばないのですが、口の中で、どんなにさがしても、違和感のある味がどこにもなく、いつまでも味わっていたい味なのです。(鹿児島県 Mさん)

窪さんちのポンカン(去年の不知火も)は、甘味の中に適度な酸味があり、すばらしいバランスですね。とてもおいしいです。
昨今の甘いだけの果物にはうんざりしているので、夫婦で「これだよ、この酸味!」と言いながら食べています。
ずっしりとした立派な果実に、農家の方の苦労と、自然のありがたみを感じます。(東京都 Fさん)

甘ったるくなく、爽やかで美味しくて、
2個ずつ食べてしまいました。
10歳の息子が、1箱は自分の分宣言してました。(滋賀県 Hさん)

先日頂いたものは、もう食べてしまいました。
あっと言う間、、。
お味が濃くて、こりゃ中毒になりますにゃ~(宮城県 Sさん)

改めて読んでみて、有り難さで涙が出てきそうになりました。実はここに復原できたのは5分の1くらいなのです。これまでいただいたたくさんのコメントを消してしまって本当に悲しいですが、またこういうコメントをいただけるように取り組んでいきたいと思います。

というわけで、ポンカン販売中ですのでぜひよろしくお願いいたします。

【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のポンカン  ※STORESのサイト
4.5kg  3,500円(税込)
9.0kg  6,600円(税込)

2026年1月10日土曜日

2025年の無農薬・無化学肥料の柑橘の販売スケジュールです。


みなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 

早速ですが、「南薩の田舎暮らし」の2025年の無農薬・無化学肥料の柑橘類販売をお知らせします! (価格はすべて税込みです)

■ポンカン

「南薩の田舎暮らし」の看板商品です。看板商品なのに、昨年はたいへんな不作でほとんどご注文を承ることができませんでした。ありがたいことに今年はそれなりの収穫を見込んでいます。ただし、昨夏、管理が十分にできなかったために品質のバラツキが大きいです。また、品質のバラツキが大きい状況なのに申し訳ありませんが、今季値上げをさせていただくことにしました。資材価格が全て値上げされているためです。なお、これが当農園の柑橘類全体の基準価格です。1月9日より販売を開始しました
https://nansatz.stores.jp/items/6960efd96e4495d68b119006

4.5kg 3,500円
9kg  6,600円

■スイートスプリング

昨年は不作でほとんど販売していませんが、今年もあまり多くありません。1月中旬ころに販売します。これも少しだけ値上げしますが、内容量を5㎏に増やしましたので実質価格は変わりません。まだ栽培方法が確立しておりませんのでお試し価格で安いです。

5kg 2,100円

■タンカン

タンカンもそれなりの収量を見込んでいます。ただし、今季は虫害を若干うけてしまい、外観がよくないものが多いです。実の付き方にはバラツキが多いですが全体的には豊作傾向です。2月の第2週頃に販売開始の予定です。値上げについてはポンカンと同額です。

4.5kg 3,500円
9kg  6,600円

■しらぬい

これも昨年は不作でほとんど販売がありませんでした。今年はそれなりの収穫を見込んでいます(ただ、栽培している本数がもともと僅かのため、販売量は少ないです)。これも販売時期はタンカンとほぼ同じで2月第2週頃です。こちらもぽんかんの価格を基準にした値上げになります。

4.0kg 3,100円

■ブンタン

昨年は大きな獣害を受けて収穫が少なかったのですが、今年は今のところ獣害は受けていないものの着果が悪く量は少ないです。販売時期は2月中旬頃になると思います(これはかさばるので倉庫の空き状況次第です)。こちらは元々安かったですが、値上げ率はぽんかんと同様(約20%)です。

7kg 3,200円

■その他

ブラッドオレンジ(モロ、タロッコ)も2月初旬~中旬頃に販売する予定ですが、値段は未定です。また河内晩柑は今季から本格的な収穫の予定でしたが、ほとんど実が付いていない状況でインターネットで販売するかどうか未定です。来年またよろしくお願いします。

なお、ポンカンは2月中旬まで、その他は3月中旬頃までの販売を予定しています。

【重要】複数の商品を同時に購入する場合

昨年8月まで使用していた「南薩の田舎暮らし」のWEBサイトでは、注文量が20㎏ごとに配送料金を設定していたのですが、現サイトではそれができないので、1注文につき送料がかかります。よって、例えばポンカンとタンカンを一緒に購入したい場合、それぞれ購入するのではなく、「ポンカンとタンカンのセット商品」を購入してください。ご面倒ですがよろしくお願いします。

ところで、旧WEBサイトのバックアップを迂闊にも忘れていたため、昨年までの商品説明・写真が全部消えてしまいました(!)。そのため、今年の販売はもたもたするかもしれません。だいぶ説明が変わってしまうかもしれませんが栽培方法等は全く同じですのでご了承下さい。

ちなみに、「無農薬・無化学肥料」の栽培方法についてはこちらのページに書いていますので気になる方はお読みください。

【2026年1月15日追記】
旧価格と新価格の両方を書いていたのですが、わかりにくかったため旧価格を削除しました。

2025年12月11日木曜日

第21回そらまどアカデミア「石造物の世界から廃仏毀釈をみてみた 〜当事者たちの心の片影〜」を開催します!

2026年1月18日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回登壇してくれるのは、そらまど店主の畏友・川田達也さんです。川田さんのそらまどアカデミアへの登壇はこれで3回目です。川田さんの話題の引き出しは幅広く、毎回新しい発見があります。 

今回のテーマは、ズバリ「廃仏毀釈」。よく知られている通り(?)、鹿児島では明治維新の頃に激しい廃仏毀釈が行われました。全ての寺院が破却され、全ての僧侶が還俗(僧侶をやめて俗人に戻ること)させられました。全国を見ても、これだけ徹底的な廃仏毀釈が行われたのは例外です。この過程について、まだ分からない部分もありますが、行政的な部分についてはだいぶ分かってきています。店主もかつてこのテーマで本を書きました(『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(法藏館))。

一方、廃仏毀釈の当事者、つまり寺院を破却した人とか、その事態に直面した一般人が、どういう動きを見せたのかはあまりわかっていません。これまで、「民衆は藩権力に従うほかなかった」とか「一部の篤信の人が命をかけて仏像を守った」と言われてきましたが、こうした言説は多分に「伝説」を含みます。

そこで、古寺跡巡り・墓地巡りの第一人者である川田さんは、幕末明治の頃の石造物を丹念に観察し、廃仏毀釈の当事者たちの心情を推測します。この講演では、これまでと違った廃仏毀釈の世界が見えることでしょう。ぜひご参加下さい。 

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第21回 そらまどアカデミア

石造物の世界から廃仏毀釈をみてみた 
〜当事者たちの心の片影〜

講 師:川田達也

明治維新の裏で起こった廃仏毀釈。その当事者たちの声は、不自然なほどわずかしか残されていない。それを伝えるものの一つに石造物がある。今回は石造物からきこえる声に耳を傾け、文献だけでは見えてこない、当事者たちの心の片影を探り、廃仏毀釈について改めて考える。

日 時:2026年1月18日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
1988 年鹿児島市生まれ。京都府立大学文学部卒。古寺跡写真家。週に一回ラジオの人。大学在学中、鹿児島の廃仏毀釈を知り、卒業後に帰郷。以来鹿児島の古寺跡を撮り続けている。著書に『鹿児島古寺巡礼』(南方新社)。

 

2025年12月3日水曜日

第20回そらまどアカデミア開催しました。「最後か、最後から2番目か」の鹿児島弁

第20回そらまどアカデミア開催しました。

今回ご登壇いただいたのは、鹿児島大学で言語について研究している坂井美日(みか)先生です。つい先日、坂井先生の研究室で「方言絵本」(下の写真)を作成したとの新聞記事が掲載されましたが、坂井先生はさまざまなアプローチで方言の教育研究に取り組んでおられ、私はいつか話を聞きたいなと思っていました。面識はなかったのですが、こうしてご講演いただけたことがありがたいです。実は、知人からの紹介もなく全く面識のない方にご講演いただくのは初めての経験でした。

坂井先生は「方言を研究しているというと、感覚的なものだと思われがちですが、実際は科学的なんです」と切り出しました。

そのケーススタディとして挙げたのが鹿児島弁の形容詞についての考察です。

鹿児島弁話者のみなさんは、「浅い」「深い」「暑い」を何と言いますか? 「浅い」は「浅か」または「浅せ(あせ)」、「深い」は「深か」または「深け(ふけ)」、「暑い」は「ぬっか」または「ぬき」と2種類の言い方がありますよね? 

標準語の形容詞は「イ」で終わるのでイ形容詞と呼ぶことにすると、「浅か」などは「カ」で終わるのでカ形容詞と呼べます。カ形容詞は九州では広く使われていますよね。では「浅せ」の方は? 

これは、あさい/asai/の二重母音の/ai/が融合して/e/となったものと考えられます。ぬくい/nukui/の場合も/ui/→/i/です。こういう音の変化は言語によく起こります。つまりこれらはイ形容詞から変化した融合系と考えられます。表にまとめると以下の通り。

カ形容詞 イ形容詞(標準語) イ形容詞融合形
あさか 浅い あせ /asai/→/ase/
ふかか 深い ふけ /fukai/→/fuke/
ぬっか 暑い(温い) ぬき /nukui/ → /nuki/

でも、なんで鹿児島弁には2種類の形容詞の言い方があるのでしょうか? イ形容詞融合形は標準語から変化したとみなせるので、標準語教育以降なのかも? という仮説を立ててみます。それを確かめるために古い文献を確認してみましょう。

鹿児島で標準語教育が行われたのは明治30年代からで、この頃の標準語を学ぶためのテキストに鹿児島弁が対訳(!)として掲載されているのが参考になります。まずは明治37年初版の『鹿児島語と普通語』を確認してみると、「ヨカ間(ま)がエチョイモス(よい部屋が空いています)」とか「モット ヤシ本はネカ?(もっと安い本はないか?)」とあるので、すでに混交状態が確認できます。

明治32年の『鹿児嶋言葉わらひの種』という本もあります。これは島津久光の娘が長野(真田家)に嫁ぐときに持って行った本だそうです。ここにも「キュ ハ ヌキネエー ココン イガワ ワ チメテカ?(今日は暑いね ここの井戸の水はつめたいか)」「スクワヲ、 チメタカ ミヂ ツケチ モチケ(スイカをつめたい水につけてもってこい)」 とあります。「チメテカ」の「カ」は疑問詞なので、「チメテ」と「チメタカ」で混交状態があります。

ではさらにさかのぼってみましょう。江戸時代中期の「ゴンザ資料」ではどうなっているでしょうか。鹿児島の人は知っていると思いますが、ゴンザは少年の頃に漂流してロシア人に助けられ、ロシア政府の命で露日辞書(実際は鹿児島弁ーロシア語辞書)を作った人です。ちなみに講演では、ゴンザ辞書にあるキリル語表記の鹿児島弁を、キリル文字とアルファベットの対応表から読み解くという面白い作業をみなさんにもやっていただきました。

そこでは、「タニハ フカカ(谷は深い)」「カワ アセカ、マタ フケカ(川は浅いか、または深いか)」と、やはりカ形容詞とイ形容詞(融合形)の混交状態が確認されるのです! というわけで、混交状態は江戸時代まで遡ることは確実です。というわけで先ほどの仮説は否定されました。

ちなみに古典語の形容詞には、ク活用・シク活用と呼ばれる「本活用」(長き/新しき)と、カリ活用・シカリ活用と呼ばれる「補助活用」(長かる/新しかる)があります。本活用がイ音便化して「長い/新しい」となり、補助活用が変化して「長か/新しか」=カ形容詞となったようです。

ということは、鹿児島弁は本活用の方も平行的に変化してイ形容詞融合形が生まれたんでしょうか? 鹿児島で江戸時代までにどういう経緯で両形容詞が混交したのが不明なため、現段階ではなんともいえません。

このように、方言の研究といっても「〇〇は鹿児島弁では何というでしょうか?」的なものでなく、データの監察・仮説の立案・その検証という、科学的な手続きで行われるものなのです。

次は、「データに基づいて法則を見つける」という事例で、アクセントに注目します。アクセントとは「単語を識別するための発音の際立たせ」のことで、音の強弱とか高低で表され、鹿児島弁の場合は高低です。実は、鹿児島弁のアクセントには「単語の最後か、最後から2番目か」という2種類しかないんだそうです。アクセントの位置を太字で示すと以下の通り。    

オト
甘酒 アマ
朝顔 アサガ

(鹿児島弁話者にしかわかりませんが)確かにそうですよね! このように「最後か、最後から2番目か」のアクセントを「二型アクセント」というのだとか。しかも鹿児島弁の場合はちょっと変わった事情もあります。日本語は基本的に「モーラ(拍)」を基準としているのに(=モーラ言語)、鹿児島弁は「シラブル(音節)」が基準となっています(=シラビーム言語)。

モーラとは、「お・ば・あ・さ・ん」のように俳句の拍を数える単語の分解方法です。一方シラブルは「o/ba:/saN」のように、母音を核とした聞こえの塊のことです。「おばあさん」は5モーラ/3音節ということになります。次の単語のアクセントを見てみると、鹿児島弁のアクセントがシラブル単位であることがわかります。

語彙 鹿児島の高低 シラブル
看板 カンバン kan.ban
東海道 トウカイドウ to:.kai.do:
祥子 ショウ sho:.ko
ケダ ke.da.mo.no
モン ke.da.mon

カタカナで書くと「最後か、最後から2番目か」の法則が崩れているように見えるのに、シラブルで見るとしっかり合ってます。特に「獣」の二種類の読み方が、シラブルで考えるとどちらも「最後から2番目」で変化していないことがわかりますね! シラビーム言語であることは、日本語方言では珍しい特徴です。

さらに面白いのが、鹿児島弁では単語のアクセントが移動すること。次の表を見てください。鹿児島弁では複合語を形成するとき、前の単語のアクセント法則を引き継ぐことがわかります。これマスターするのって難しくないですか? 私は何も考えずに鹿児島弁をしゃべってますがこんな処理を頭の中でしていたとは…!

語彙 鹿児島の高低 アクセントの位置
最後
最後から2番目
山桜 ヤマザク →最後
最後から2番目
薬  スイ最後
傷薬 キッスイ
→最後から2番目

さらに鹿児島弁の場合は、複合語の単位ではなく、文節単位でアクセントが移動します。

語彙鹿児島の高低アクセントの位置
最後
山がヤマ→最後
山桜がヤマザクラ→最後
最後から2番目
傷薬 キッスイ最後から2番目
傷薬がキッグスイ
→最後から2番目

なんというややこしい仕組みなんでしょう。文節まで考えてアクセントをつけないといけないとは。「単語を識別するための発音の際立たせ」が単語を飛び越えて助詞に移動するとは奇妙奇天烈ですね。鹿児島弁は習得が難しいと言いますが、当然だと思いました。

というわけで、これまでの事例を通じて、「(1)鹿児島弁の単語はシラブル(音節)を基準に形成されており、(2)そのアクセントは”最後か最後から2番目か”という2種類しかなく、(3)しかも複合語や文節を形成するときは最初の単語の法則に従ってアクセントが移動する」という法則があることが確認されました。

なお、こういった法則は、日本語の方言の中で珍しいばかりではなく、世界の言語の中でも割と変わっているそうです。では、どうして鹿児島弁はこんなに特殊なんでしょうか? 質問してみたら、それについて坂井先生は「それはわかりません」と断言し、「いろいろと考えられはするんですが…中央との距離が遠いですし…」と言いかけて「ここからは軽々しく言わないことにします」としていました。こういう態度が「科学」かも!?

普段何も考えずに使っている鹿児島弁ですが、科学的に解剖してみると独特な仕組みがあることがわかり、しかもその独特な仕組みを自分自身が苦もなく使いこなしていることに不思議な気がしました。言語も不思議ですが、人間の脳も不思議です。

なお、冒頭に紹介した絵本はまだ一般販売はされておらず、資金が集まったら刊行する予定とのことでした。クラウドファンディング等が行われた場合は、みなさん坂井研究室にご協力をよろしくお願いします!

2025年10月29日水曜日

第20回そらまどアカデミア「鹿児島の方言を科学する」を開催します!


11月30日、そらまどアカデミア開催します。

今回登壇してくださるのは、鹿児島大学で言語の研究をしている坂井美日(みか)先生です(犬さんはアシスタントだそうです)。

【参考】坂井研究室@鹿児島大学
https://www.sakai-kagoshimauniv.com/

坂井先生については、「鹿児島弁研究の人」として鹿児島ではしばしばメディアで取り上げられるので、みなさんも目にしたことがあるのではないでしょうか。「方言AI」(鹿児島弁でやりとりができる対話型AI)の開発なんかもしているそうです。ちなみにこの方言AIの名前は「カルカン」とのこと。 

しかしながら、坂井先生は方言だけでなくて、現代の普通の日本語から古典日本語まで対象として研究しています。博士論文は古典日本語の文法についてだということでした。

「古典日本語の研究と、方言の研究って、どう繋がるんですか?」と聞いてみたら、「言語の変化という意味では同じなので(大意)」という答えが返ってきました。

考えてみると、言葉は歴史的に変遷していますが、地域的にも変遷します。歴史的変遷と地域的変遷が組み合わさって現代日本の言語地図を形成しているわけですよね。

方言の研究は、方言話者(←つまり年寄り)との医療現場での意思疎通を容易にするといった実用的な側面もありますが、言語のしくみや変遷について理解を深めるという側面もありそうです。

ところで、大量の言語が消滅していっているという話があります。世界には、何千という言語が存在しています(いました)が、その90%は2050年までに消え去ってしまうとか…。さらに方言まで含めたら、その消失はずっと大きいですよね。

鹿児島弁はそれなりに話者のいる方言ですが、それでも昔ながらの言葉をしゃべれるのは70代以上だと思います。ということは、あと30年したらホンモノの鹿児島弁をしゃべれる人はほとんどいなくなくなっちゃいますね。世界にある何千という言語が「なくなってもいいじゃん」とはならないのと同様、鹿児島弁も人類文化の多様性の一つなので、失われるのは残念なことです。

そして、鹿児島弁とはどんな言語なのか、解明されないうちになくなったらもっと残念です。鹿児島弁を科学的に研究している坂井先生の話を聞いてみませんか。

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第20回 そらまどアカデミア

鹿児島の方言を科学する

講 師:坂井美日

方言を研究するとはどういう営みか。本講座では、文献やフィールドのデータをもとに、音声や文法や語彙の分析を通して方言を科学的に明らかにする作業を体験する。身近なことばに潜むしくみを探り、ことばの重層性、多様性、普遍性などを考える。

日 時:11月30日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
鹿児島大学共通教育センター准教授。専門は日本語学。

※今回より、講演時間が30分延びて2時間になっていますが、これは従前時間オーバーが常態化していたためです。  

2025年9月18日木曜日

第19回そらまどアカデミア開催しました。「国体」から満州へ


第19回そらまどアカデミア開催しました。

今回は、そらまどアカデミア登場2回目の小川景一さんの話です。前回は、明治維新の精神的支柱となった儒学の話をしていただきました。その回では、最後に店主がしゃしゃり出てきて小川さんの図像を解説、結果的に対談みたいになりました。この小川さんとの対談が面白かったので、一方的に新米を送って2回目の登壇をお願いして、しぶる小川さんに今回また来ていただきました(笑)。今回は講演ではなく、小川さんと店主による対談でした。

【参考】前回の話です
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2024/08/13.html

小川さんは、「思想の流れを図像で表す」という変わった趣味(!)をお持ちです。前回と同じく、小川さん作の図像に基づいて東アジア(日中)の思想の流れについて語りました。メインビジュアルはこちら(クリックして拡大します)。


孔子に発した儒教が、朱子学となって日本に渡り、徳川光圀によって水戸学という歴史哲学となって「国体」という観念を生み出し、それが大陸に逆流して満州国が建国される、という思想の渦を表したものです。

孔子の教えは、あくまでも政策担当者に向けたもので、そこから発展した儒教も社会の上層に向けた教えの性格が濃厚でした。漢の時代には「性三品説」という、「人間にはもともと上中下の三種類の人がいる(→上級の人間以外には教化は無意味)」という一種の血統主義が現れてもいました。ところが隋からは官吏登用試験の科挙が始まります。これは世界の歴史においても特異なほど平等主義的なやり方でした。こうして社会に広まった儒教から生まれたのが朱子学です。

南宋の朱熹(朱子)は、儒教を万物の理論へと再編集します。元来の儒教では世界の始まりや宇宙の成り立ちといったことへの関心が薄く、そうしたことに強い関心を持ったのは老荘思想の方だったのですが、朱熹は老荘思想や仏教など儒教以外の思想を総合して、個別的事物から天まで連なる統一理論「朱子学」を考案しました。

この朱子学を身に着けて、江戸時代に日本にやって来たのが朱舜水(しゅ・しゅんすい)です。朱舜水は、明朝の臣だったのですが、その再興を目指してなのか、日本海を8回も往復していました。それに目を付けて招聘したのが水戸藩の徳川光圀です。徳川光圀は「歴史マニア」で、日本の正史(正式な歴史書)を自ら作ろうと思い立ち、「大日本史」というプロジェクトを立ち上げるのですが、そこで問題になったのが王朝の正統性です。

朱舜水にとって、王朝の正統性は非常に重要でした。というのは、彼が仕えていた明朝は滅んでしまったのですが、続いて建国された清は満州族による異民族王朝で、彼はそれを正統な王朝だとは絶対に認めたくなかったのです。

中国では、から世界の統治を付託された一人の人を「天子」と呼び、歴史は天子の継承によって形作られます。一方、日本では鎌倉・室町・江戸など将軍政権は移り変わっていますが、ずっと天皇が存在し続けてきました。そこで「大日本史」プロジェクトでは天皇を「天子」のようなものとして位置づけたのですが、問題になったのが南北朝時代。この時代、天皇家が2つに分裂して天皇が同時に2人いたからです。これはマズい。天が統治を付託するのは必ず一人でなくてはならないので、どちらかが正統で、もう片方はニセモノということになります。「大日本史」は、元来は政治的なものではなかったのですが、中国の正史の枠組みに沿って歴史書を編纂しようとしているうちに政治哲学の問題に踏み込んでいきました。そうしてできた歴史哲学的儒学が「水戸学」です。この水戸学が明治維新を動かす思想的支柱の一つとなります。

ちなみに、江戸時代の儒学の中心は水戸学ではなく、幕府が作った昌平黌(しょうへいこう)という学校でした。徳川家康は林羅山(はやし・らざん)という儒者を政策顧問にしていたのですが、林羅山から連なる儒学が展開したのが昌平黌でした。ちなみに林羅山の先生が藤原惺窩(せいか)という人で、この人は明にわたって儒学を学ぼうとし、渡航のために鹿児島までやってきています。ところが鹿児島では戦国時代末にすでに儒学が高いレベルで研究されており、儒書が読まれていました。そこで「わざわざ明まで渡らなくてもここで学べば十分だ」と思ったのか、ともかく明には渡航せずに山川の正龍寺というところで儒学を学んで中央に戻っていった人です。鹿児島では貿易が盛んでたくさん中国人がいたことが、儒学の興隆につながったと思われます。

話を戻して、徳川光圀は水戸学とは違う流れの学問の発端にもなっています。それが「国学」。光圀は日本の古典が読めないのを遺憾とし、契沖という僧侶に『万葉集』の読解を依頼します。『万葉集』は万葉仮名という特殊な仮名(というより漢字)で書かれているため、読めない部分が多数あったのです。契沖はこれを見事解読し『万葉代匠記』という著作にまとめました。これが発端となり、日本の古典を読解していくという取り組みから「国学」という学問が生まれたのでした。

国学を大成したのが、本居宣長です。宣長は『古事記』に取り組みました。これは漢文と日本語が混ざったような言語で書かれていますが、宣長はこれを「古代人になりきって読む」という方法論で読解します。「漢字や儒学などの中国由来の知識を捨て去って、古代人の心(大和心)になれきれば読めるのだ!」というのが宣長の考えでした。ちなみに、古代中国の甲骨文を同じような方法論で解読したのが現代の漢字学者・白川静です。白川の漢字説は、日本では批判も多いですが現代中国で大変人気があるそうです。

ちなみに宣長は、儒学的な規範を「漢意(からごころ)」として人為的で余計なものと切り捨て、日本人はそうした規範がなくても自然に治まると考えていました。

宣長に私淑したのが平田篤胤です。宣長はあくまで学問的でしたが、篤胤は出版人・編集者・著述家という性格が強いです。霊魂の行方やあの世に大変関心があった篤胤は、宣長が恬淡としていた宗教観を発展させ、神話の世界やあの世の世界、異界を実体的に著述しました。そんな中で、「日本はすべての国の元の国」という日本ナンバーワン説を喧伝します。これが幕末の揺れ動く国情にがっちりマッチして幕末の志士に大変な影響を与えました。

一方、水戸学の方では幕末になると会沢正志斎という人が『新論』という本をまとめます。これは水戸学の主張をまとめた本ですが、ここで「国体」という概念が謳われました。正統性を考究した水戸学において、日本の正統な在り方という抽象的なものが「国体」という言葉によって具体化されたのです。これも幕末の国情にがっちりマッチして、『新論』は新たな国の在り方の模索に大きな影響を与えました。ただし、幕末の水戸藩では、考え方の違いで諸生党と天狗党という派閥に分かれ、天狗党の乱という内戦が起こって当時の知識階級が互いに殺し合いをしたため、明治後にはほとんど人材が残りませんでした。

明治維新が起こると、儒学者と国学者は政府に取り入れられ、儒学・国学のハイブリッド思想によって明治政府が運営されます。儒学は宗教性に欠けており、国学は教義性に欠けているため、両方がうまく取り入れられたのではないかと思います。こうして、本来は全く別々の体系として展開してきた儒学と国学が政策的に融合されて生まれたのが国家神道でした。ただし儒学と国学で一致していた点がありました。それが天皇の扱いです。双方に(将軍ではなく)「万世一系」の天皇を日本の正統な統治者とする観念があり、それが国家神道の核になります。

ちなみに、儒学と国学をつないだ「古神道」が興る影のキーマンとなったのが、薩摩藩の本田親徳(ちかあつ)ではないのか、というのが小川さんの考えです。本田親徳は南さつま市加世田武田の生まれで、会沢正志斎に3年ほど弟子になっています。どうやら彼は霊感が強くて、不思議な力を見せて人を引き付けていったようです。

国家神道には、儒学の道徳と国学の宗教性がありましたが、国家の行動理念のようなものは希薄でした。儒学は個人倫理が中心で、国学は「天皇の支配に身をゆだねる」というような、庶民の心得が中心だったからです。そんな国家神道がひねり出した行動理念の一つが「八紘一宇」。これの表面的な意味は「世界中の人々が家族のように仲良く暮らす」ということでしたが、実際には「日本(天皇)が世界を征服する」という理念として扱われました。

というわけで、時代がちょっと飛びますが、日本は大陸へ進出し、満州国が建国されます。それ以前の満州は、日清日露戦争を経て日本の租借地になっていました。ここで満州事変を起こして満州国という国家を建国した中心人物が、陸軍の石原莞爾です。実は、彼は国柱会という宗教結社の一員でした。国柱会というのは、田中智学という日蓮宗の僧侶が作った日蓮主義の団体で、宮沢賢治が加入していたことでも知られます。当時のエリートに大きな影響を及ぼした団体です。

1932年の第1回満州国建国会議では、「南無妙法蓮華経」のどでかい垂れ幕が掲げられています。満州国の思想的バックボーンとなったのが国柱会であり、日蓮主義だったのです。国家神道と日蓮主義が結合したのは一見奇妙ですが、国家神道に不足していた行動的な思想を日蓮主義が打ち出していたことが関係しているように思われます。なお、テロリストの側にも日蓮主義は浸潤しており、井上日召(日蓮宗の僧侶)が中心となった血盟団は政府要人を暗殺します(血盟団事件)。仏教的思想から暗殺に行ってしまうというのが今から考えると奇異ですよね。

ちなみに、権藤成卿(ごんどう・せいきょう)という人は、満州国で古代日本のリバイバルのような国家を作るという「鳳(おおとり)の国」構想を抱いていたそうです。最近、このことについて詳しく書かれた本『日本型コミューン主義の擁護と顕彰―権藤成卿の人と思想』(内田 樹 著)が出版されたということで小川さんは「ようやくこのあたりの事情がわかった」と言っていました。ともかく、満州国というのは単なる植民地だったのではなく、日蓮主義にしろ「鳳の国」にしろ、理想の国を建設する試みでありました(ただし現地の人にとってありがたいものではなかったのは言うまでもありません)。

その理想は、「王道楽土」「五族協和」といった一見快い言葉で飾られており、またその建設に邁進した人は本当に理想郷の建設を考えていたのですが、理想とはかけ離れた結果となりました。そしてそれを支えた思想は、儒学・国学・日蓮主義・陽明学など、本来まじりあう性質でなかった思想が「国体」というコンセプトの下に共存して生まれたものであったようです。いろんな思想を包摂してしまう「国体」というコンセプトこそ、近世日本が生み出した最大の発明品だったのかもしれません。

小川さんは、満州国の終焉まで話をしたかったとのことですが、このあたりで予定の2時間を超過したため、ここまでの話となりました。時間が足りなくなったのは、途中、私(店主)がけっこう話を巻き戻したり、補足を詰め込んでいたりしたためです。申し訳ありませんでした。なお、小川さんの話にもいろんな脇道がありましたが、上記のメモではほぼ割愛しております。

小川さんは、「人前で話をするのはこれが最後」とおっしゃっていましたが、そういわずに(笑)またお話ししていただきたいと思っています。なにより、こんなディープな話を縦横に展開できるのは小川さん以外にはちょっと思いつきません。さらなる登壇を期待したいと思います!