第21回そらまどアカデミア開催しました。
今回登壇していただいたのは、そらまどアカデミア登場3回目の川田達也さんです。川田さんは、鹿児島県内の古寺跡をめぐってきた人ですが、最近はそれに飽き足らず、「県内の全墓地に行ってみたい」という墓地に憑りつかれた方。今回は「石造物の世界から廃仏毀釈を見直してみよう」という講演でした。
鹿児島では、幕末と明治の初めに激しい廃仏毀釈が行われました。幕末(慶応2~3年)の頃は財政的な事情から行われたのですが、明治初年(慶応4~明治2年)では思想的な理由、つまり「もう仏教なんかいらない」というものになりました。
廃仏毀釈が徹底化することになった契機が、明治2年3月、藩主島津忠義の正室・暐子(てるこ)さんが神式(神道式)で葬儀されたことです。それまで葬式と言えば仏教以外になく、葬式があるからこそ寺院を全廃することはできなかったのですが、葬儀を神式にしたことで仏教寺院の存在意義はなくなったことにされました。
これを受け、それまでの廃仏毀釈では標的になっていなかった大寺院も12月に全廃の通知がされます。そうして、鹿児島ではすべての寺院がなくなり、また僧侶は全員還俗(げんぞく=俗人に戻ること)させられるという徹底的な廃仏が行われました。それは、なかば暴動的なものだったのです……と言われてきましたが、本当に暴動のような感情的なものだったのか? と川田さんは問題提起します。
まず、藩から出された指令を読んでみると、ちゃんと廃仏の手順が決められて、還俗後の僧侶の処遇にも気を使われていることがわかります。仏教が憎いから破壊した、という感じではない……?
注目すべきなのは庚申講関係の石造物です。庚申講とは、60日に一度訪れる庚申の日に宗教的儀式を行い、また夜を明かして飲み食いをするグループです。これを3年=18回続けるとそれを記念して庚申塔という石造物を建立することが多かったのですが、これには庚申地蔵という地蔵の形態のものがあります。驚くべきことに、この庚申地蔵は明らかに仏教的なのにほとんど破壊されていません。
鹿児島の廃仏毀釈では、路傍の仏像の首まで刎ねるほど徹底的かつ暴力的なものだった、というのが通説ですが、どうして庚申地蔵は破壊の対象にならなかったのか。また、鹿児島市本城にある花尾神社には「庚申仁王像」があり、また東市来の稲荷神社には県内随一の素晴らしい仁王像が残っていますが、これも庚申講が造立したと思われます(隣にある「庚申唐猫」には要注目!)。ほかにも庚申講関係のもので残存しているものは極めて多い。
とすると、民間信仰は、仏教的であっても破壊の対象にしなくてもよい、というお触れがあったのではないか? と考えられます。実際、馬頭観音、六地蔵塔など民間信仰的なものは破壊されていないものが多い。また、これまで川田さんもあまり注目していなかったと言っていましたが、石灯籠もそれを解明するヒントを提供しそうだということです。
吹上の大汝遅(おおなむち)神社には、明治2年に講によって奉納された石灯籠があり、これは廃仏毀釈の最中にも講が活動を続けていた証です。さらに興味深いのは、廃寺後の旧境内に「奉寄進 兵器四番小隊中」と刻んだ石灯籠が奉納された東市来の事例。自分たちで寺をなくしておいて、石灯籠を奉納するとはこれいかに。これは「廃仏に対する微妙な気持ち」を表明したものではないかと川田さんは言います。
これまで、「鹿児島の民衆は藩庁のいうことに唯々諾々と従った」とされてきましたが、反抗がなかったわけではないようです。
また、住持墓にも注目すべきものがあります。宮崎県高原町(旧薩摩藩領)の狭野権現社(の別当寺神徳院の墓地)、南九州市川辺町の善積寺跡、宮之城の大道寺跡には廃仏毀釈の最中に亡くなった住持墓があります。ちょうどこの時期に3人も亡くなっているのは偶然でないのかも。彼らは廃仏毀釈に抗議して自害したのでは、というのが川田さんの見立てです。
さらに、鹿児島の廃仏毀釈は島津家の意向で行われた、と言われていますが、実は島津家も一枚岩ではなかったと考えられます。
キーマンは藩主島津忠義です。忠義は、文久の頃(=幕末)、それまで財政的な事情から禁止されていた妙円寺参りを復活させ、自分も参詣します。さらに明治後の廃仏毀釈の最中である9月14日に軍務局の隊員を引き連れて自ら妙円寺参りを行います。妙円寺が廃寺になるのはその3か月後です。忠義は廃仏毀釈に反対で、存続を図るためにあえて妙円寺参りをしたのではないか、と思われるのです。しかし当時「国父」と呼ばれた父・久光の権力が絶大で、久光の意向には従わざるを得ませんでした。「廃仏令」(明治2年に徹底的な廃仏を指示した命令)は、久光の名前で出されており、藩主と連名になっている公式の命令と毛色が違いますが、これは忠義ができる消極的な抵抗の一つだったのかもしれません。
それから、川田さんは「これを見つけて頭が真っ白になった」と言っていたのが、大明が丘の墓地にあるお墓。「辻盛之助源朝臣清武神霊」と刻まれた神式の墓塔が明治2年8月8日に建立されているのです。この墓塔が建立される2週間前(7月19日)に「藩庁が葬儀師を置いて福昌寺および源舜庵に出張させた」という記録があるので、「神式ではこんな墓塔をつくりなさい」というような指示をしていたのかもしれませんが、それにしても仏教色を排除した完成された形の神式墓塔が8月8日に建立されているのは早すぎる! この墓塔の近くにある明治2年の「福姫命」なる墓もそう。
そもそも藩庁は「こんな墓塔を作りなさい」というデザインをどこから仕入れたのか。川田さんは、この指令の前にお墓のスタイルを決めていた勢力がいたようだと推測しています。そもそも鹿児島神宮周辺では早くも安政年間には戒名を使わない神式の墓塔が建立されていました。でもそういうのがないはずの吉野に、なぜこのスタイルの墓塔が建立されたのか、謎です。
このように石造物をつぶさに見ていくと、これまで「鹿児島の廃仏毀釈はこうだった」と思われていたこととは少し違う様子が見て取れます。感情的に「仏教的なものは全部ダメ」としたのではなく、庚申地蔵はOKとするなど冷静な線引きがうかがえ、破壊的というよりは順を追って廃仏毀釈を進めたという感じがします。とはいえ、仏教的ではない田の神(しかも神像タイプ)を破壊するなど、よくわからずに「とりあえず石造物を壊せばよい」というような雑な理解で廃仏毀釈を手掛けた人もいたことは間違いない。しかし「感情的に進めて、藩内の寺院を全廃するようなことができたとは思えない。廃仏毀釈が何年も持続したこと自体、冷静に遂行した証では?」と川田さんは見ています。また、それなりの反対があったからこそ冷静に進めた部分もあったのかもしれません。
そして廃仏毀釈が完遂できた要因として、これまで見過ごされてきましたが、「講などの民間信仰を容認した」ことがあるのではないか。鹿児島の民衆にとって一番大事だったのは、「仏教でも神道でもなく、講だったのでは。だから廃仏毀釈が比較的スムーズに進んだのかも」とのことでした。
「これまで江戸時代の古い墓塔を中心に見てきて、あまり明治時代の石造物に注意していなかったが、明治時代の石造物をもっと見てみると、もっといろいろわかるかもしれない」と川田さんは言います。川田さんにより鹿児島の廃仏毀釈の実相が解明される日も近いですよ!






