2024年11月18日月曜日

第15回そらまどアカデミア開催しました。「台湾華語」を話す島、台湾


第15回そらまどアカデミア開催しました。

今回の講演は、なんだか申し込みが少なかったのです。「台湾に興味ある人少ないの?」と思っていたのですが、南日本新聞にお知らせを出したところ、新聞社の方から「タイトルが読めないんですけど…?」と言われてハタと気づきました。

今回のタイトルは「你好臺灣, 空尼機挖ジャパン」。「ジャパン」以外ほぼ読めない…⁉

「臺灣」をタイワンと読めない方も多かったようです。せめて「台湾」と書いておけばよかった。「空尼機挖」は、台湾の漢字の発音で「コンニチハ」を当て字にした言葉遊びでしたが、ちょっと凝りすぎましたね…!

というわけで申し込みは少なかったのですが、講師の張さんの知り合いが何人も来てくださって、その中には台湾人の方も2名いました。ありがたかったです!

講師の張 巧瑩(チョウ・コウエイ、愛称あきら)さんは、台湾の高雄市出身。南台科技大学で日本語を学び、指宿で就職。今年夏から南さつま市役所の国際交流員として働いています。この度、南さつま市では台湾の旗津区(キシン区)というところと姉妹都市協定を締結することとしており、その架け橋になっているのが張さんです。

台湾は九州とほぼ同じ面積で、九州の人口より約1000万人多い2300万人が住んでおり、しかも人口の多くが島の西部に集中しているため、とても人口密度が高いんだそうです。そんな中で、旗津区はたった1.46㎢の面積に2.8万人の人が住んでいます。ちなみに南さつま市の面積は283㎢、人口は3.1万人。人口密度は100倍以上の開きがあります!

そんな旗津区は、なんとすっごく細長い島なんです(本来は半島だが現在は分離されている)。こんなところに2.8万人も住んでるなんて面白いですね。人口島ではなく自然の地形のようですよ。

ちなみに旗津区と南さつま市が姉妹都市を目指しているのは、サンドアート(砂の祭典)のご縁があったからだそう(ただし、旗津区では現在サンドアートのイベントは行われていないとか)。

今後、旗津区と南さつま市にどんな交流が行われるのか、張さんの今後の活躍が楽しみです。

さて、張さんは、大学時代から14年間日本語を学び続けてきました。張さんの日本語力は「日本語能力試験(JLPT)」のN1級。これは同試験における最上級で、張さんはちょっと話した感じだと日本人と見分けがつかないくらいです。

そんな張さんでも日本語はとても難しいらしく、「適当にしゃべってます!」と笑っていました。

日本語の難しさとは、まず同じ漢字でも読み方がいくつもあること。例えば「今日は一月一日、日曜日。明日から日下部さんと五日間の旅行はよい日和だそうだ」という文の「日」の読み方はそれぞれ違います。「日曜日」なんて「にち」と「び」で一つの単語の中で2つの読み方をしています。

この文はちょっと特殊な読み方の「日」ばかりが意図的に入ってますが、「祝日(ジツ)」「日(ニッ)蝕」なんかは普通の読み方ですけど、こういうのもいちいち覚えないといけないのは外国人にとっては大変です。「日本」には「二ホン」と「ニッポン」という二つの読みがあっても、「ニポン」とは言えないとか(笑)。まあ、漢字の読みは日本人でも難しいですけどね。

次に謙譲語や尊敬語の使い分け、助詞の使い方、一人称の異常な多様さ(俺、僕、私、わし…)、こうしたことにしょっちゅう困惑しているとのことでした。その上、鹿児島では鹿児島弁があるので、方言がきつい人の話は「半分くらいしかわからない」とのこと。張さん、安心してください。鹿児島生まれ、鹿児島育ちの私でもそうです!!(笑)

一方、台湾の言葉もなかなか複雑です。というか、すごく複雑です!

そもそも、台湾は多民族国家です。国家らしいものがなかった原住民の時代、中国の沿岸部(泉州、福州)などから華僑の人たちが入植してきました。そして大航海時代にはオランダ人が台湾にゼーランディア城を築いて植民地化します。これを打倒したのが明の遺臣だった鄭成功(人形浄瑠璃『国性爺合戦』の主人公ですよね)。その後清朝が台湾を支配し、中国人の入植にともなって原住民は台湾西部の山岳地帯へと追いやられていきました。その後いろいろあって明治時代に日本が台湾を植民地化します。この「台湾出兵」で大将を務めたのが鹿児島出身の樺山資紀(かばやま・すけのり)で、樺山は初代の台湾総督となりました。戦後、台湾は日本の支配を離れますが、中国共産党との戦いに敗れた中華民国が台湾に逃れ、現在の台湾の政権となりました。

このような歴史があるため、台湾は様々な民族と文化が複合した国となりました。では、他民族国家である台湾の言葉はどうなっているか。

台湾では、「台語(台湾語)」=古い時代に台湾に入植した人々により話されていた言葉をベースとして日本語などが取り入れられた現地語、「客家語」=客家(ハッカ:漢民族の一派)の言葉、「原住民語」といった言葉が話されています。つまり台湾は多言語国家でもあるのです。そして、その共通語となっているのが「台湾華語」です。

この多民族国家の共通語「台湾華語」は、どのように形成されたものなのでしょうか。

まず、「華語」というものがありました。これは中国はもちろん、シンガポールやマレーシアなど東南アジア各地に広がっていった華僑の人たちが使っていた中国語です。かつて東アジア海域の共通語(リンガ・フランカ)であったのが「華語」です。

そして、台湾が独立した時に、多言語国家の「国語」として設定したのがこの「華語」でした。台湾政府は国語辞典を制作して「国語」を定め、ある時期には方言禁止運動を行って、学校で方言をしゃべったら罰金を払うというような政策を行っていたこともあります。鹿児島でも60年ほど前、方言撲滅のために「方言札(私は方言をつかいました、という首から下げる札)」を使っていた時期がありますが同じですね。

このようにして「国語」の普及に取り組んだ結果もあり、今では台湾全土の人が台湾華語を使うことができるようになっています。では、台湾華語は中国語とは違うのか。

ここでいう中国語は、中華人民共和国政府が「普通話」として定めている言葉ですが、台湾華語と中国語は問題なく意思疎通できるものの、やっぱり違うもの。その違いについて張さんは「イギリス英語とアメリカ英語みたいなもの」とおっしゃっていました。

そもそも「普通話」は、中国政府が人為的に設定した部分も大きく、例えば漢字を「簡体字」という簡易化したものに変えてしまいました。

一方で台湾華語は、頑なに画数の多い漢字を守り続けています(だから臺灣が読めなかった!(笑))。そうかと思えば、積極的に外来語を取り入れているという側面もあるそうです。特に日本統治時代の名残として日本語由来の単語も入っており、たくさんの例が示されていましたが、中でも面白かったのが「巴庫味阿(バクミア)」。何かと思ったら「バックミラー」だそうです。これは中国では通じないですね、きっと。

……というのが台湾華語ですが、面白いのが「台湾華語」というようになったのはせいぜい15~20年前からに過ぎない、ということです。じゃあ、なんで最近になって自分たちの言葉を「台湾華語」と呼ぶようになったのか、というと、それには対外的な意図がありました。つまり、自分たちの言葉を「中国語」ではなく、「台湾華語」として世界に認識してもらいたい、という願いが込められているのだそうです。

このような話をきいていると、私は「言語は、極めて政治的なものである」ということ改めて感じずにはいられませんでした。

ドーデの『最後の授業』(フランスのアルザス地方がドイツに占領されたことでフランス語が禁止される話)に象徴されるように、支配者が被支配者の言葉を奪ってしまうことはよくあります。方言禁止運動もその一つですね。

それは、少数民族や地方の人たちを単にいじめているのではなく、言語の統一が国家のアイデンティティの確立につながるという重要な側面があるからです。しかし台湾でも、現在では方言禁止運動が反省され、全ての言語は等しく価値があるという、多様性を認める方針へとなっています。そんな時代に「台湾華語」という呼称が改めて設定され、対外的に推進されているのは、「中国語」に対抗しようという意図があるようです。

「中国語と台湾華語」を「イギリス英語とアメリカ英語」のような対等な関係に擬(なぞら)えることも、台湾の言葉の国際的な重要性を大きく引き上げようとする意志の現れなんでしょうね。

ところで話が変わるようですが、香港では、中国への返還後、民主的なものが弾圧される状況になっているのはご承知の通りです。そこで香港では、広東語を大事にすることによって精神的独立を保とうとする運動があると聞きます。言語は権力に対抗する武器にもなるということです。

民族・国家・文化の根幹には言語があります。言葉は、共同体を他と区別する最大の標識です。しかもこれは、肌や髪の色と違って、自分たちの意思で変えていくことが可能です。台湾のみなさんは、自分たちがなりたい国になるために、あるいは「台湾」を世界に認識してもらうために、「台湾華語」を大事にしているのかなと感じました。

台湾には、なんと子供向けの「発音矯正塾」があるそうです。これは昔の方言禁止運動の名残かもしれませんが、同時に言葉を大事にする姿勢の現れなのかもしれません。

ところで最後に面白い話を一つ。先述の通り、張さんは台湾の高雄(たかお)市のご出身ですが、なんで「高雄」は訓読みなんだろうと疑問に思っていました。日本語で読むときは、台湾でも中国でも、地名は音読みなのが普通ですよね? と思って張さんに聞いたところ、張さんはご存じなかったのですが、参加された台湾人の方が教えてくれました。

それによると、高雄のもともとの地名は「打狗(ダァカオ)」だったそうです。それが、日本統治時代に、この字面がよくないということで日本人が「高雄」に変えました。だから「タカオ」の方が元の地名の発音に近く、「コウユウ」では全然異なってしまいます。そんなわけで、高雄は、日本語では訓読みにするのが正解なのです! 台湾は日本統治時代を否定するでもなく、フラットに捉えて活かしているのがたくましいというか、大人だなと思います。

なお、台湾華語の位置づけについての話は、講演でよくわからなかったため、上記のメモでは講演後に教えてもらったことも加えて書きました。また、言語に政治的な意味合いを見るのはあくまでも私の個人的な見解で、講演では「台湾にある間違った日本語の面白い看板」など楽しい話が中心でした。こういう楽しい話はぜひ実際の講演で聞いていただければと思います(うちの子が大笑いしていました)。

そらまどは辺鄙なところにありますが、台湾よりは近いのでぜひお気軽にお越しください。

2024年11月9日土曜日

「ないじゃ、なっちょらん!」

今年の「南薩の田舎暮らし」では、ずいぶん柑橘類が少なさそうです。

というのは、ポンカンとタンカンはまず、春の段階で花があまり咲きませんでした。

ポンカンについては、昨年が豊作だったのでその影響があったのと、あと以前も記事に書いたことがありますが、ナガタマムシという虫の害をかなり受けていて弱っているためもあります。

が、地域全体としてもポンカンは不作のようです。夏くらいに、ポンカン農家の方に「今年はどうですか?」と聞いたら、「ないじゃ、なっちょらん!」(なんにも、なってない!)と言ってました。まさにうちもそんな感じ。「ないじゃ、なっちょらん!」

そんなわけで、今年のポンカンの販売は、あったとしてもごく少量なのでご承知おきください。

タンカンの不作ついては、昨年が豊作だったためもありますが、正直よくわかりません。というのは昨年豊作じゃない樹についてもあまり実がなっていないからです。春先の天候によるもののような気がします。さらに、今年は強い台風がきたので、外観が悪いものがとても多いです。というかきれいなものはほとんどないといってもいい有様。

そのほかの柑橘は、それなりの収穫を見込んで……いたのですが!

10月後半になって、果実がボトボトと落ちる被害が見られるようになりました。特にブラッドオレンジがひどい。樹によっては半分くらい落ちてしまいました。これはきっと、カメムシ被害です(写真参照)。

今年は全国でカメムシが大量発生しているという話です。鹿児島県では、例年に比べて劇的に多いという情報はなかったのですが、他の農家からも「カメムシ被害でミカンの実が落ちている」という話を聞いているので、やっぱり多いのかも。

そんなわけで、今のところ、ちゃんと収穫できそうなのは、ブンタンと河内晩柑の2種類だけです。

この2種類については、樹の生長もあるので、昨年より多く販売できると思います。ただ、それもこれからカメムシ被害がなければ……の話。ようやく寒くなってきたので、これ以上の被害がないことを祈ります。

2024年11月5日火曜日

文芸誌『窻』を創刊しました。

南薩の田舎暮らしが運営する「books & cafe そらまど」では、このたび文芸誌『窻(まど)』を創刊しました。

【参考】文芸誌『窻』|books &  cafe そらまど
https://sites.google.com/view/soramado/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E6%96%87%E8%8A%B8%E8%AA%8C%E7%AA%BB

今後、一年に2回ずつ発行していく予定です。

内容は、テーマを指定して書いてもらったエッセイ(「テーマエッセイ」と呼んでいます)と、創作(詩や短編小説)、記録(ノンフィクション)、論考その他です。といっても、創刊号は知り合いに声を掛けて書いてもらったものばかりなので、24ページしかありません。今後、充実させていきたいと思っています。

どうして『窻』という名前にしたのか(「窻」は「窓」の旧字体です)、ということについては、『窻』創刊号に掲載の「「窻」には心がある」で説明してますのでよかったらお読みください。

販売については、そらまどの店頭販売以外に、今のところ天文館の「古本屋ブックスパーチ」と、月イチで開催している「石蔵ブックカフェ」で手に入ります。

【参考】石蔵ブックカフェ
https://so1ch1ro.wixsite.com/ishigura-bookcafe

それから、インターネットでも販売しておりますので遠方の方はこちらからお買い求めください。

【参考】『窻(まど)』創刊号|books & cafe そらまどWEBショップ(STORES)
https://books-soramado.stores.jp/items/67247cd7c3d7cd0af49372a4

どうして文芸誌なんかつくることにしたのか、ということは、『窻』創刊号の「創刊の言葉」にちょっと書いたのですが、そこに書かなかったことをここで説明したいと思います。

「books & cafe そらまど」は、もともと「田舎の文化の拠点を目指します」ということでつくった店です。「そんなもんいるの?」とか言わないで下さいね。私たちが、こういうところがあったらいいなと思ってつくったので。

ともかく、そういう風に言ってオープンした以上、「文化の拠点って何だろう?」ということを考えてきました(まさに泥縄です!)。

本当は、文化の発信をしていくことができればいいんですが(例えばギャラリーとか)、そういうスペースもないし、「そらまどアカデミア」という講演会は定期的にやっていますが、これも定員が僅かです。本の販売は「文化の拠点」っぽいですが、うちは本屋としては本の数は少ないですし仕入れも積極的にしていません。

そこで、地味ではありますが、「ものを書く」ことを基盤にしたらどうかと思いました。「ものを書く」なら、お店に来ない人とも繋がれるからです。 

それにつくってみて思いましたが、「うちの文芸誌に寄稿してくれませんか?」と声を掛けることは、「お店に来て下さいね」とは全然違います。「お店に来て下さいね」だと、あくまでも店主と客の関係、極端に言えばお金の関係ですが、「寄稿してくれませんか?」になると、お金の関係じゃないのです。これはちょっと文化的です。

『窻』をきっかけに、「そらまど」がちょっとでも「文化の拠点」に近づけたらいいなと思っています。

ところで、『窻』の発行費用はどうするんですか? と聞いてきた人がいました。こういうのは、協賛金や広告を集めるて発行するのが普通かもしれませんね。でも『窻』は、さしあたり収支は考えずに広告なし・協賛金なしでやっていきたいと思います。つまり赤字事業です。でも全部売れたら元が取れるはずですので、よかったら買って下さい…!

2024年10月22日火曜日

大浦まつりが無事開催されました!

10月20日(日)、大浦まつりが開催されました。

前日は雨で、当日も午前中はパラパラと雨が降っていましたが、なんとか持ちこたえ、午後には天気も安定しました。

雨が降らなくてよかったです。

今回の大浦まつりは、なんだか人が少ないなあ…? という感じでした。例年より2週間早い開催だったので、たくさんのイベントが重なっていたせいかもしれません。

坊津では「ほぜどん」という有名なお祭り(民俗行事)が行われていましたし、笠沙(野間池)では18:00から夕日コンサートがありました。鹿児島市では「鹿児島ジャズフェスティバル」もあったようです。そんなわけで、昨年に比べると人出はまばらな感じでした。

でも、今回はステージ前に観覧のテントが用意されていたのですが、そのテントの中は割と満員だったんですよね。やっぱりテントがあるとそこから動かないかも…などと思いました。ステージをご覧になる方にはいいんですけどね。

ちなみにステージも、数年前と比べると寂しくなったと感じました。有志で出演する方が少なくなったためだと思います。地元でバンド演奏している人とかですね。私自身、ステージに上がるタイプじゃないので「もっと出演した方がいいよ!」とは言えませんが、せっかくの機会なので活用してもらいたいと思っています。

ところでステージのメインイベント(?)は、エラブチ剛さんという方の歌でした。長渕剛のそっくりさん…というよりコピーバンドみたいな感じの方です。てっきりネタ的なやつかと思っていましたが、聴いていると「長渕より歌うまいんじゃないか」と思いました(笑)。長渕のあのクセのある歌い方をちょっとマイルドにした感じで、私にとってはむしろ聴きやすい。ただ、MCの迫力は本家には遠く及ばなかった…って当たり前か。

南薩の田舎暮らしでは、いつものドリンクの他、昨年とても好評だったマフィンを準備しました。マフィンは全部売り切れましたし、ドリンクも人出の割には売れました。もう少し暑かったらドリンクの売れ行きがいいんですけどねー。気候がよすぎた(苦笑)。義理で買って下さっている方も多かったような気がします。ありがとうございます。 

そういえば、ドリンクをつくる時間が間延びするので、「どちらから来ましたか?」とか「うち、大浦にお店があるんですよ」などとお客様に話しかけたのですが、「知ってますよ!」「インスタフォローしてます!」などと言って下さる方がけっこういて嬉しかったです。そしてこれは、「ちょうどドリンクの店があったから飲みたくて買った」のではなく、「知ってる店だからドリンクを買った」ということなんだなあとつくづく思いました。知ってもらうってホントに大切です。

私たちが毎年大浦まつりに出店しているのも、多くの方に知ってもらえる機会だと思っているからです。最近は積極的には出店していませんが、ちょっとは外に出て行きたいですね。

来ていただいた皆さん、そして実行委員会の皆さん、ありがとうございました。

2024年10月16日水曜日

第15回そらまどアカデミア「你好臺灣, 空尼機挖ジャパン」を開催します!

11月17日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回のテーマは、「中国語と日本語の間」。語ってくれるのは、台湾人の張巧瑩(チョウ・コウエイ、愛称あきら)さん。

張さんは、南さつま市の国際交流員。張さんは日本語ペラペラで、ちょっと日本人と区別がつかないくらいです。 

先日、打ち合わせのために「books & cafe そらまど」に来ていただいたのですが、いろんな話が飛び出して、つい長話をしてしまい、営業時間をだいぶオーバーして引き留めてしまいました。

そんな中で、私から「張さんが、いちばん熱く語れることをテーマにしてもらいたい」とお願いしたところ、決まったのが「言語」でした。張さんは大学時代から言葉(日本語)の勉強を一番熱心に続けてきたそうです。

張さんは、国際交流員として、冬から中国語の講座も始めるそうです。そして打ち合わせの際に特に強調していたのは、「カタカナ発音じゃ絶対通じない!」ということでした。それどころかピンイン(中国語の発音をアルファベットで表すもの)もよくないそうです。台湾の独特な発音記号は、一見ハードルが高く見えますが、これを覚えた方が絶対にいいんだと強調していました。

こういう、純粋に語学的な問題だけでなく、台湾の言葉(台湾華語)には興味深い点がいろいろあります。それは、まず台湾華語がどうやって形成されてきたかということであり、それはすなわち台湾がいかにして形成されてきたか、ということと繋がっています。そこには、当然日本の植民地だった時代も関わってきます。ちなみに明治6年の台湾出兵は、薩摩の人たちが深く関わって実施されたもので、鹿児島県民としては他人事ではありません。

さらに溯れば、台湾には少数民族もいましたし、客家(ハッカ)もいました。台湾って、他民族の地域だったわけです。そんな中で、中国語の漢字を最も正統に保存して形成されたのが台湾華語です。中国(大陸)では、合理化政策によって「簡体字」という簡略化した漢字を使っていますが、今でも台湾は「繁体字」という、スッゴク画数が多い漢字を使っています。例えば「台湾」は「臺灣」です。今画数を数えたら、この2字で39画もありました(笑)

こんな興味深い台湾の言葉について、日本語ペラペラの張さんが語ってくださいます。どうぞお樂しみに !

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第15回 そらまどアカデミア

ni hảo tái wàn  kōng ní ji wā
你好臺灣, 空尼機挖ジャパン

講 師:張 巧瑩(あきら)

最近よく耳にする「台湾」とは、沖縄県与那国島から108キロしか離れていない島。その島の人たちが使う言葉は、たくさんの外来文化の影響を受けて融合してきた、世界一難しい「中国語」。それと世界二番目に難しい日本語について、軽く首を突っ込んでみる。

日 時:11月17日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:1000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
日本語勉強 14 年目、現在コツコツと鹿児島弁を学習中。日 本と台湾の架け橋になればいいなと思って南さつま市国際交流員に着任。最近は中国語発音の教え方に悩まされてる日々を送っている。

2024年10月10日木曜日

第14回そらまどアカデミア開催しました。「死と再生」の十五夜綱引き


第14回そらまどアカデミア開催しました。

今回の講師は、「南さつま半島文化——鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館」というWebサイトを主宰している在野の民俗学者、井上賢一さんです。

井上さんは、薩摩半島の祭りを根気強くフィールドワークしてきました。開口一番「みなさんも各地のお祭りに行った際に、カメラで写真を撮っている人をみかけると思いますが、そんな人の中にも民俗学のフィールドワーカーがいます。見分けるポイントがあるんですがなんだか分かりますか?」と問いかけました。

答えは、「フィールドワーカーは巻き尺を持っています」とのこと! 使われた道具が何センチなのか、ちゃんと記録するためだそうです。鹿児島民具学会に所属し、道具から民俗を研究してきた井上さんらしい導入だと思いました。ちなみに井上さんは近年、太鼓踊りの桴(ばち)について調査を続けているそうですよ。

ですが、今回のテーマは十五夜綱引きです。

実は、十五夜に行う綱引きの民俗行事は、鹿児島県と宮崎県の一部、つまり旧薩摩藩領しかありません。これには、多くの方が「全国でやってるんだと思ってた…!」と驚いていました。

では、旧薩摩藩領の十五夜綱引きはだいたい共通しているのか……というと、かなりの多様性があります。

井上さんは、各地の十五夜行事をビデオで記録しており、当日はそのビデオを見ながらその多様性について説明してくださいました。最初の事例は、南さつま加世田の鉄山の綱引きです。

ここでは、綱の芯にカヅラを使い、広場で綱を綯っていきます。綱ができたらとぐろ状においておき、中心部分にはススキなどを飾って一種の祭壇のようになります。月が上がったら、綱引きします。綱引きは多くの地域で子供の行事ですが、この集落には子供が一人もいないため、大人だけで綱引きを行います。

井上さんが「子供がいないのにどうして綱引きを続けているんですか?」と聞いたところ、「別に。今まで通りやってるだけです」との答えがあったそうです。これにはちょっと感動してしまいました。地域づくりや地域活性化といった目的を掲げるのも悪くはありませんが、このように気負わず変わらず続けて行くことができるって、それだけで素晴らしいと思いませんか?

……というように、ビデオを使っていろいろな事例を紹介してくださったのですが、ここではそれができませんので、概略だけ触れます。

十五夜綱引きは、綱を作るところから始めます。

(1)材料集めです。綱の芯になるカヅラ(葛)やカヤを山から採ってきたり、集落の家を回ってワラを集めたりします。どのような材料を使うか、どうやって集めるかもいろいろあります。

(2)綱作りです。綱を綯(な)うことを、綱練りと言います。(綯うは鹿児島弁では「練る」です。)井上さんの分類では、これには①庭広げ式(広いところで平面的に作業する)、②道伸べ式(道に伸ばして直線的に作業する)、③櫓掛け式(櫓に綱をかけて立体的に作業する)があります。例えば鉄山の綱練りは①になります。

(3)綱引きです。つなを綱引きするところまで運び、お月様が出たら綱引きをします。

(4)綱引きの跡始末です。綱引きが終わったら、相撲を取るところもあります。綱は、海や川へ流したり、緑肥として使うためにばらして配ったりします。

井上さんは、それぞれの祭りについてこうした構造化をして分類をしています。民俗学では、多くの事例を比べて共通部分や違う部分を抽出し、民俗文化を分析します。

井上さんがいろいろ見せてくれたビデオの中で興味深かったのは、坊津町の泊のものでした。泊では「②道伸べ式」で縄を練るのですが、国道226号線に多くの人が集まって、かなり威勢の良いかけ声のもと、派手に縄を練っていました。そして夜には十五夜踊りという踊りがあり、なんとそこに子供が乱入して踊りを乱す「踊り壊し」というイベントが挟まれます。その後綱引きをして、最後に綱は川に投げ入れて終わります。なぜわざわざ踊りを子供が邪魔するのか、不思議です。どんな意味があるんでしょうか!?

さて、今回のテーマは「もう一つの十五夜綱引き」ですが、何が「もう一つの」かというと、こうした多様な十五夜綱引きの習俗には、「綱を引かない」というものがあります。綱を引かないで何をするのかというと、「綱を曳きずって集落を回る」。例えば万世の小松原や唐仁原にはこうした「綱曳きずり」があります。

綱引きしないで、曳きずるだけとは妙ですよね〜。

井上さんは小松原の「綱曳きずり」の様子をビデオで見せてくれましたが、20メートルくらいの綱を、子供たちが「子供が喜ぶ綱を引く、えーさっさ、えっさっさ」と謳いながらがズルズル引っ張っていました。これが小松原の「綱引き」なんだそう!

ちなみに十五夜綱引きには地域ごとに違う「十五夜歌」があり、「子供のおかげで綱を引く」とか「子供喜び綱を引く」とかいろいろあるそうです(もちろんそれ以外の歌詞も多様)。歌も十五夜綱引きの多様性を構成する要素です。

ところで2019年、薩摩川内の大綱引き調査委員会は、鹿児島県の十五夜綱引きについて全集落にアンケートを送付して調査するという、大規模な綱引き調査を行いました。井上さんも、この調査に参加したそうですが、この調査によって、かつてあったものも含む綱曳きずり習俗の分布が明らかになりました。(十五夜歌の多様性もこの調査でわかった。)

それによれば、万世の他に金峰町高橋、坊津、山川、喜入、谷山などに綱曳きずりがあり、川辺が例外ですが、基本的に綱曳きずりは海沿いに分布していました。でも、これは何を意味するのか、まだ分からないそうです。

しかしそもそも、なぜ十五夜に綱引きをするのか?

井上さんによれば、綱は蛇や竜を象徴しているのではないかと考えられるそうです。そういえば、十五夜綱はとぐろ状に巻くことが多いです。蛇が脱皮する様子に昔の人は「死と再生」のモチーフを見て、それを満ち欠けを繰り返す月の「死と再生」と重ね合わせ、十五夜綱引きが成立したのではないか。

十五夜+綱が「死と再生」を表すとすれば、巨大な竜蛇=綱を協力して作り、それを集落内を曳きずるのは清めの意味があり、また十五夜綱引きには不老不死や健康祈願などの呪術的意味が込められていたと考えられます。また十五夜には季節の節目という意味があり、畑作物の収穫の感謝や豊作祈願も込められていたに違いありません。

つまり十五夜綱引きは、「月と竜蛇とにあやかって、綱を通じ、参加者の健康を願い、集落を清め、次作の豊作を願う、「再生」と「除災」の民俗」だと言えるのです。

ここまでが講演の本体でしたが、ちょっと時間を延長して質疑応答が行われましたので一部を紹介します。

「十五夜といえば子供の行事だと思っていたが、実際どうなのか?」

これに対し井上さんは、再生と除災の民俗という観点からは、元来は子供はあまり関係ないのではないか、との考えでした。「先ほど紹介した鉄山の十五夜綱引きでも、子供がいなくなっても続けているので、子供がいないとできないとか子供のためにやる行事ではない」

では多くの十五夜行事でなぜ子供がかなり深く関わっているのかというと、「それは大人から学ぶ役割が与えられているから」ではないかといいます。考えてみると、大人だけでやる行事より、子供には子供なりの役割が与えられて参加する行事の方が、ずっと存続しやすそうですよね。もしかしたら、「子供が参加する十五夜綱引き」が自然と残ってきたのかもしれません。「子供を参加させるのは伝える工夫」だというのが井上さんの考えです。

「かつては大浦にも綱曳きずりがあり、それはとても珍しかったそうだが? カタツムリみたいな綱を引いていたとか。」

これは、井上さんは詳細不明としていました。十五夜綱引きは、当たり前ですがどこも同じ日(旧暦8月15日)に行うので、基本的に隣の集落が何をやっているかを見ることはありません。これは民俗学のフィールドワークでもネックになっていて、同日に行われる各地の十五夜綱引きを一つひとつ調査していくのには何年もかかります。何十年も調査をしてきた井上さんも、まだまだ見た事がない十五夜綱引きがあるとのことでした。

ちなみに、先ほど触れた「2019年の薩摩川内の大綱引き調査」では、綱練りはなくなっても、綱引き自体は行っている集落はまだたくさんありました。ところがコロナ禍によって行事が一度断絶し、それから復活しなかった地域がたくさんあるそうです。もちろんコロナのせいばかりではなく、集落の人口減少がその背景にあります。井上さんが祭を取材しようとすると、「去年来ればよかったのに」と何度も言われたんだとか。

「十五夜綱引きが旧島津藩領のみにみられる民俗ということは、藩権力からの奨励または規制などがあったのか」 

これは当然の疑問ですが、「そういう史料は見当たらない」そうです。藩権力は、農民が行う習俗に無関心だったようで、十五夜綱引きの記録自体がほとんどないとのことでした。なぜ旧薩摩藩領のみに十五夜綱引きが見られるのか、現時点では全くの謎。

最後に私からちょっと意地悪な質問をしてみました。「十五夜綱引きは、綱練りなどにかなりの労力を使う行事で、今の社会でやる意味は薄いが、それでも綱引きをやることに意味はあるのか?」

これに対する井上さんの答えは、「綱練りや綱引きというより、先輩から伝わってきたものを継承することそのものに意味がある。鉄山の人が「今まで通りやってるだけです」と言っていたように、文化の継承ってそういうものだと思う」というものでした。これは大変深い洞察だと感じました。私たちの社会は、一見無駄に見えるような無形のものがたくさんあって形成されていますが、そうしたものを引き継いでいくことが、社会の維持そのものなんだと思いました。

井上さんは、民俗行事を見てみたい、調べてみたい、という純粋な気持ちで長年調査を続けてきたんだそうです。「自分の役割は立派な論文を書くとかじゃなくて、とにかく記録すること。とりあえず全部調べてみたい、というのがこれまで続けてきた原動力」と話していました。

ただ、私としては井上さんの膨大な調査を、一度書籍の形でまとめてもらいたいと思っています。「南さつま半島文化——鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館」やビデオのアーカイブも、大量すぎてその森に分け入るのは普通の人には難しいです。井上さん、ぜひお願いします!

※当日の要旨については、井上さんのブログにも掲載されていますのでご覧ください。
【参考】鹿児島の民具と風土: もう一つの十五夜綱引き ― 十五夜行事から見える再生と除災の民俗 ―
https://kagoshima-mingu.blogspot.com/2024/10/blog-post.html

2024年9月5日木曜日

第14回そらまどアカデミア「もう一つの十五夜綱引き」を開催します!

加世田唐仁原の十五夜綱曳きずり(1992年、撮影井上)

10月6日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回のテーマは民俗学です。

民俗学って、あまり知られていない学問かもしれません。なんとなーくこんな感じ、というのはあっても、具体的にどんな研究をしているのかというとイメージがないのではないでしょうか。

そんな民俗学に、ライフワークとして取り組んできたのが井上賢一さん。

井上さんは、「南さつま半島文化——鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館」というWebサイトを主宰しています。

「南さつま半島文化」は、「インターネット博物館」と銘打っているのですが、「博物館」というだけあって、とんでもなく情報量が多いんです。

ここには、 「南さつま歴史街道」「鹿児島祭りの森」「鹿児島の祭りと民俗」など歴史や民俗についてのコンテンツがあり、なんと子ども用の学習ページ「こども博物館」まであります。

このうち、例えば「鹿児島祭りの森」には、地域のお祭りについて大量の項目があり、それぞれの解説、祭の構造、ビデオ(YouTube動画)などなどが豊富にアーカイブされています。

一例として、「南薩の田舎暮らし/そらまど」のある大浦町の「疱瘡踊り」はこんな感じです。

【参考】大浦町の疱瘡踊り
https://hantoubunka.site.kagoshima.jp/pic/0204hoso.html

趣味で作ったレベルじゃない、っていうのがすぐ分かると思います。…すごいですよね! 

井上さんは、こうした調査をライフワークとして続けてきました。といっても仕事ではありません。あくまでも趣味ではあるのですが、結果としてできあがった「南さつま半島文化」は、趣味のレベルを超えて、公共的な価値があるものとなっています。このサイトの情報をどう次世代に残して行くか、これが現在の課題といっても過言ではありません…!

ところで、最近、奈良県の民俗文化博物館が収蔵品の整理のために休館するというニュースがあり、ちょっとだけ民俗学について注目が集まりました。今こそ井上さんに民俗学や民具について語ってもらいたい。そう思って講演を打診しました。

講演タイトルは「もう一つの十五夜綱引き」。

鹿児島って十五夜の綱引きが盛んですよね。川内大綱引きは有名ですが、その裾野にある地域の小さな綱引き祭りもたくさんあります。私は鹿児島育ちなのでよくわかっていませんでしたが、外に出てみると、他の地域では十五夜綱引きはこんなに盛んではないことに気付きました。

しかし鹿児島には、なんと綱を引かない「綱曳きずり」という祭りもあるんです。綱引きしないのに、なんのために綱をひきずるのか!? この「もう一つの十五夜綱引き」を入り口に、井上賢一さんに民俗学の世界についてご案内いただきます。ぜひご注目ください。

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第14回 そらまどアカデミア

もう一つの十五夜綱引き

講 師:井上賢一

南九州各地で盛んに行なわれる旧暦八月十五夜の「十五夜綱引き」。しかし鹿児島には、綱引合戦を行なわない「綱曳きずり」という習俗がみられる。なぜ十五夜に綱を引くのか、あるいは曳きずるのか、薩摩半島での記録映像を紐解きながら、考えてみたい。

日 時:10月6日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
高知大学卒業後、鹿児島大学で下野敏見に師事。ノンプロ研究家として鹿児島民具学会での活動をはじめ、民俗調査への参加や、各地の民俗芸能・年中行事を訪ねて歩く。研究成果をWebサイト「南さつま半島文化」で公開。