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2026年8月3日月曜日

第25回そらまどアカデミア「ブラックホールと鹿児島の天文学研究」を開催します


10月4日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回のテーマはブラックホールです。そらまどアカデミアはこれまで24回開催していますが、初めての理系的なテーマです。実は、店主は理系の大学を卒業しているため、ずっと理系的テーマをやりたかったのです!

みなさんはブラックホールというとどんなイメージを持っていますか? 私が子どもの頃、「ブラックホールは本当にあるのか?」みたいなことが言われていた記憶があります(その時点でずいぶん古びた図鑑でいわれていたことなので、実際には観測されていたと思うのですが)。

その後、ブラックホールは全てを飲み込む怖ろしい天体だとか、ブラックホールは恒星がその一生の最後に到達する死んだ状態だとかいうイメージが流布されました。試しに手元にある藤井旭『星の一生(科学のアルバム4)』(あかね書房、1980年)という子供向け科学絵本を見てみると、ブラックホールについて「しんだ星の光は、もう外へもでられず、宇宙から姿をけしてしまいます」と書いてありました。「死」、「宇宙から姿を消す」というネガティブなイメージが満載です。

ところが最近、こういうブラックホールのイメージが変わりつつあります。まず、宇宙には無数のブラックホールがあってありふれた存在であるらしいこと、そして銀河の形成にも大きく影響しているのではないかということ。さらには、全てを飲み込むはずのブラックホールから「ジェット」と言われる噴出があり、それも星の形成に作用しているのではないか、といったようなことが言われだしました。私たちの住む「天の川銀河」の中心にも超巨大なブラックホールがあるそうです。

そして実は、鹿児島大学には「天の川銀河研究センター」が設置され、ブラックホールや銀河系の形成について研究が行われているんです。というわけで、天の川銀河研究センター長の和田桂一先生にブラックホールと鹿児島の天文学研究について語っていただきます。ブラックホールのイメージが変わるかも⁉ ぜひ聞きに来てください。

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第25回 そらまどアカデミア

ブラックホールと鹿児島の天文学研究

講 師:和田桂一

「光すら脱出できない天体」といわれるブラックホール。本来は見えないはずなのに、なぜその存在が確かめられているのでしょうか。最新の観測と理論研究をわかりやすく紹介するとともに、鹿児島大学で天文学を研究する理由や、現在の研究の最前線についてもお話しします。

日 時:10月4日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
1965年、北海道生まれ。北海道大学大学院理学研究科物理学専攻修了。博士(理学)。北海道大学、国立天文台を経て、2009年より鹿児島大学教授。現在、理工学研究科附属天の川銀河研究センター長。 

2026年6月17日水曜日

第24回そらまどアカデミア「九州南部の南北朝内乱 ―南方国人の動向を中心に―」を開催します。

7月19日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回はなんと! 中世島津氏研究の第一人者、新名一仁先生にご講演いただきます。

新名先生は鹿児島で著名なので紹介の必要はないと思いますが、一般向けの本もたくさん出されています。例えば『「不屈の両殿」島津義久・義弘——関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(角川新書)は、戦国島津を語る上で外せない本です。また『島津四兄弟の九州統一戦』(志学社選書)は最近復刊されました。

鹿児島では長年「島津義弘(か四兄弟)を大河ドラマに」という声(運動)があるのですが、もしこのテーマで大河ドラマが作られるとすれば、新名先生の研究が第一に参照されることは間違いありません。

が、新名先生の研究はいわゆる「戦国島津」だけに収まりません。

むしろ、その前提となる室町期の南九州の研究を熱心にやってきたのが新名先生です。そして新名先生は、島津氏だけでなく「国人(こくじん)」と呼ばれる土着の勢力についても詳細に分析されてきました。そこで今回、特にゴタゴタしていてややこしく、敬遠する人が多い(!?)南北朝期の南九州についてご講演いただくことにしました。

南北朝期というと、天皇家が北朝と南朝に分かれ、幕府・武士もそれに応じて戦った…と理解されていると思いますが、これがなかなか複雑です。特に九州は南北朝の争いと国人の勢力争いが組み合わされて複雑な様相を呈します。

その台風の目の一つとなったのが懐良(かねよし)親王です。南朝の後醍醐天皇が皇子懐良親王を「征西将軍宮」として九州に派遣し、鹿児島に上陸するんですね。懐良親王は谷山に拠点を設けて勢力を糾合し、南朝の一大勢力が鹿児島に出来るのですが、同じ時期に幕府の内訌で九州に下ってきたのが足利直冬(ただふゆ)。彼は足利尊氏の非嫡出子で、幕府の権威をまといつつも幕府とは対立していました。そんなわけで南九州では幕府・南朝・直冬の三つ巴の戦いが繰り広げられます。しかも島津氏も国人も、寝返ってばかりで誰と誰が敵なのか味方なのかもよくわからない状態になっていきます。というか私もさっぱり分かっていません。

というわけで、新名先生にジックリと南北朝期の南九州についてご講演いただき、戦国島津氏が九州の覇者となっていくその前史を学んでみたいと思います。

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第24回 そらまどアカデミア

九州南部の南北朝内乱 ―南方国人の動向を中心に―

講 師:新名一仁

約60年にわたった南北朝の内乱は、九州南部にも大きな影響を与えました。特に薩摩半島の「南方国人」は、南朝方・征西将軍宮方として島津氏一族の支配に強く抵抗しました。この内乱の流れと南方国人の動向を解説します。

日 時:7月19日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
1971年宮崎市生まれ。鹿児島大学法文学部人文学科卒業、広島大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。博士(文学、東北大学大学院)。専門は九州南部政治史。宮崎市教育委員会文化財課市史編さん室専門員。 

2026年6月4日木曜日

ZINEフェス鹿児島でゲットしたZINEを紹介します!

5月31日に初開催された「ZINEフェス鹿児島」へ出店しました。

直営店「books & cafe そらまど」で製作している文芸誌『窻(まど)』の販売と広報が目的です。『窻』は、ちょうど第4号が出たばかり(正確には、6月1日が刊行日でしたので1日フライングでしたけど)。第4号は100ページを超え、たくさんのご寄稿をいただきましたが、それでも執筆者は直接の知り合いがメインなので、新しい出会いを求めての出店でした。

【参考】文芸誌『窻(まど)』
https://sites.google.com/view/soramado/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E6%96%87%E8%8A%B8%E8%AA%8C%E7%AA%BB
※第5号へ向け「見た目と中身」をテーマにしたエッセイを募集中です(〆切 2026年10月31日)

↓『窻』第4号はインターネットでも販売しています。
https://books-soramado.stores.jp/items/6a20ddd46e3db50045784403

いやー、それにしてもびっくりしましたね。会場の人の多さ!

出店者数にも驚きました。正直「鹿児島にZINEを作っている人がこんなにいるの!?」と半信半疑でした。県外から来られている方も3割程度いたと思いますが、メインは地元(宮崎南部含む)の方でした。

しかし開始時間前は、「出店者がこれだけいてもお客さんはガラガラだったりして…」と心配していました。入場料も300円取りますし。ところが、入り口には11時の開場直後からたくさんの人が列をなしました。私はその時間帯にちょうど受付をしていたのですが、開場後20分で100人以上の人が来たような気がします。鹿児島にもこんなにZINEに興味を持っている人がいるんですね。

というわけで、大盛り上がりだった初開催の「ZINEフェス鹿児島」。当日会場でゲットしたZINEの一部をご紹介します。なお作者の後のアカウント名の無印はInstagramです。

『手の中の殺人』(上下) 作者:唯野 @yuno.youknow_uno

今回手に取った中でダントツに面白く、そしてダントツに安かった作品(なんと上下合わせて200円!)。以前スマホにメモしていた推理小説(連続殺人)のアイデアをしばらくたってから発掘し、そのアイデアを作品にしていくという作者の苦闘が面白おかしく書かれています。下巻はその推理小説そのものがメインで、これも面白い。小説の主人公は女性ですが、「女言葉」を使っていないのもGood! メタフィクションながら、作者の個人的経験(怨念?)がフィクションに浸食していくバランスも面白い。ただし作者の方が「イベント直前の入稿になったので誤字が多いです!」と苦笑しながら言っていたように、誤字が多いのとクセのあるフォントを使っているのが惜しい。改訂版希望! 

『友人と二人で行った! ハンガリー ブダペスト旅行記 in 2017』 作者:唯野  @yuno.youknow_uno

上と同じ作者の作品。これも素晴らしい。変に面白くしようとしないで、ありのままを書いているような感じなのがいいです。しかし読者を意識していないのではなく、ちゃんと第三者にわかりやすいように書かれています。そもそもこの方は文章がうまい。商業的な本の場合、読者が価値を感じるもの(すごく面白い、ためになる等)にしなくてはならないという力みがあると思うのですが、この作品はいい意味で力が抜けていて、なのに力作!

『テレビ番組 ダホンの極楽ラーメン天国ができるまで』 作者:ダホン @dahon.honda @dahon_honda[X]

今回のZINEフェスでは、イラスト系ではなく文章の作品を買おうと思っていましたが、この作品はパワーに圧倒されてつい購入。ラーメン好きの作者による、「自分がテレビのプロデューサーだったらこういうラーメン番組を作るんだけど」という妄想マンガ。マンガのクオリティが高い上に、登場人物の設定が妙に作り込まれていていかにも妄想が暴走している感じ(笑)。実在のラーメンが登場している(らしい)のに、店名が明かされないのは焦らしでしょうか。私は「ラーメン鷹」しか分かりませんでした。全然ダホン(=駄本)じゃないです(※ダホンは「本田」のアナグラムでたぶん「駄本」の意味ではないです)。

『&Amami, &me vol.1』 作者:佐々木愛美

奄美へ移住した著者が、移住者・二拠点生活者のインタビューを中心に奄美ライフを紹介する雑誌(という体のZINE)。インタビューされている人のうち一人(海野めぐみさん)は、おそらく著者自身。この作品は商業誌に劣らないクオリティー。うーん、隙がない!

『〈改訂!〉僕の職場自慢を聞いてくれ!』 『僕の自慢の職場話を聞いてくれ!』 作者:宗谷五百枝 @aunuki_sooya[X]

仕事が出来て個性的なキャラばかり、その上和気藹々としているという、「こんな職場で働きたい」と思わせる作者の職場を描いた作品。特に中心となっているのは同僚の面白話で、「名前とか変えてるだけで全部実話!」とのこと。「もし会場にこの職場の方が来たら、私は跡形もなく退散します」と作者。ただし、個人の特定を避けるという以上に、名前だけでなくあらゆる部分がぼかされています(例えば仕事内容)。内輪ネタはディテールがちゃんと書かれるほど面白いので、炎上覚悟でもっとリアルに書いて欲しかった(笑)!  ただし、この作者自身は面白おかしい作品よりも、細かい人間観察や社会の機微の考察が向いている人かもしれないとも思いました。

『デッドストック 01』 作者:CHIAKI FUJITANI @fjtncak @fjtn_c[X]

商業出版でも活躍するフリーライター藤谷千明さんが、商業誌に使えなくてお蔵入りになっていたエッセイ3つをまとめた作品。この方は自分のことを書くのがうまい。ZINEは自分や周りの人が題材になることが多いですが、いわゆる「身バレ」の配慮や自己開示への不安からなのか個人的な情報がそぎ落とされて内容が抽象的になっているものがよくあります。でも結局面白いのはディテールの方。この作品は、(有り難くない)家族のこと、自衛隊で働いていたことなど、あまり人に教えたくないようなことを実にうまく書いています。だけど個人情報は書いていない。さすがプロ!

『63才母×39才娘 背中合わせでシャウトする』 作者:岡田薫子・畑中宇惟 @okadakaoko

母と娘によるエッセイ・往復書簡・映画レビューなどとまとめた作品(それぞれの作品が掲載されている)。 そもそも、どうして母娘でZINEを共作したのだろうと思いましたが、作中には製作の事情は書いてありませんでした。しかし母娘で共作しただけですごい。普通ないですよね。「シャウトする」とありますが、作中では別段シャウトしているわけではなく、人生のままならなさについて静かに語っています……と書いて見直したら、畑中さんがブルーノート東京について「ここはスノッブでいけすかねえ。(中略)トイレで高尚ぶるな!暗すぎておしっこの色が見えないだろ!」とシャウトしていました(笑)。

『働かれぬ昼のために』 作者:丘本千尋 @F3eRu @F3eRu[X]

新卒で初めて配置された部署が、高スキルを要する激務部署だった! その部署では新卒で何のスキルもない作者に仕事を教える余裕もなく、結果として作者は放置され、観葉植物に水をやる程度の仕事しかさせてもらえないという「社内ニート」になります。この暇すぎる仕事時間に考えたことが連ねられた作品。「私はもう自我が溢れちゃって溢れちゃって日々困っている」と作者自身がいうように、暇な時間、意識は常に自分そのものへ向かっています。なんだか痛々しくさえある。タイトルも内容も、ヒルティ『眠られぬ夜のために』のパロディだと思われます。 

『大凡1850年のハナシ』 作者:清水 實 @minoru_43[X]

鹿児島に「B.B.13 BAR」というめっちゃオシャレなバーがありますが、作者がそこで出会った1850年製の「マデイラワイン」という特殊なワイン(なんと半永久的に保存可能なんだとか!)に触発されて、1850年あたりの世界についてまとめた8ページの作品。正直いえば、もう少し情報豊富だったらよかったなあと思う部分もありますが(作者は調べたことをすごくギュッとまとめている)、こういう短い作品が作れるのもZINEの良さなのかもしれません。

『ビストロ・ガールフレンズ』 作者:鳩村澪 @hatopoppomio @hatomuramio[X]

聞き慣れないコース料理を題材に、女性二人の食事を描いた連作短編集。この作品は内容もうまいですが、装幀、というか表紙にびっくり。タイトルもなにもなし! 即売会で売るのだと思えば、これでいいのか! ちなみに、この装幀は、高級なレストラン(や結婚披露宴会場)で席上に置かれるメニュー表を模していると思われます。 ZINEは自由ですね。

なお、上で紹介した作品は、「books & cafe そらまど」の店頭で販売します(「転売禁止」と書かれた作品はありませんでした)。ぜひ手に取ってみてください。 

2026年5月20日水曜日

第22回そらまどアカデミア開催しました。「心の動き」を描いてきた少女マンガの世界

第22回そらまどアカデミア開催しました。

今回ご登壇いただいたのは、そらまどアカデミアは3回目の登場となる四元誠さんです。前回と前々回は戦前・戦中・戦後の絵本についての講演でしたが、今回のテーマは少女マンガ誌の「りぼん」です。SNSにアップされた四元さんの本棚の写真に、持っている人が少ない昔のりぼんコミックスがたくさん並んでいたので、「りぼん」をテーマに講演をお願いしたんです(でも後から聞いたら「マーガレット」の方がコレクションの中心だったとか(笑))。

四元さんが貴重な昔のりぼんコミックスを手に入れたのは、将来古本屋になるために古本屋でバイトしていた10代の時。ダブりの少女マンガが大量に廃棄されそうになっているのを見て「じゃあ僕が買います」といって手に入れたんだそう。もちろん当時は貴重なものではなかったのです。この時手に入れた70年代のマンガが四元さんのコレクションの核になります。それにしても、10代でもうコレクター気質が開花してますね。

少女マンガ誌「りぼん」は昨年2025年で創刊70周年でした。「りぼん」が生まれたのは1955年です。どんな状況で創刊されたのでしょうか。

戦後、ベビーブームが起こって1947~49年には年に250万人もの子供が生まれ、子供向けの商品の需要が高まります。そんな中で売れていた雑誌に「少女」(光文社)があります。これはマンガも掲載されてはいますがマンガ雑誌ではなく、挿絵つきの物語(絵物語)が中心です。ちなみに人気子役だった松島トモ子さんはこの「少女」の表紙を一人で10年間務めました。松島さんのパッチリした瞳が、後の少女マンガの目の表現に影響を与えているのではないか? というのが四元さんの考え。

53年にはテレビ放送が始まり、人々の気持ちがビジュアルなものに向かっていきました。一方、戦争中に休眠していた集英社は47年に復活し、51年に「少女ブック」という雑誌を創刊します。これもマンガ雑誌ではなく絵物語が中心で、対象は中学生くらいだったと思われます。そしてより低年齢を対象とした姉妹紙として創刊されたのが「りぼん」です(それにしても「少女ブック」から「りぼん」とはネーミングセンスが大きく飛躍しています)。

ただし創刊当時の「りぼん」もマンガ雑誌ではなく絵物語・写真物語がメインでした。マンガは、折りこみみたいな形式で雑誌本体と別に綴じ込まれていました。そんな創刊当初に連載されていたマンガに『ぼんこちゃん』があります。作者の上田トシ子さんは当時珍しい女流漫画家で、その波乱万丈の生涯は『フイチン再見』(村上もとか)で近年マンガ化されています。

60年代に入って、バレエマンガで大人気となったのが牧美也子さん。リカちゃん人形を監修したのもこの方で、あのビジュアルは牧美也子さんの絵柄! この方は松本零士さんの奥さんになります。なおバレエマンガを流行らせたのは「少女」でマンガを描いていた高橋真琴さん(男性)という方。この方は瞳にキラキラとした星を入れるという表現を完成させた人で、しかも3段ぶち抜きというコマ割りを開発したのもこの方だそうです。しかしマンガを描くのは5年くらいでやめてしまい、イラストレーターに転向しました。

マンガの本流はやはり少年マンガだったので、少年マンガ誌には作家がひしめいていて新人がなかなか描かせてもらえませんでした。逆に少女マンガでは人材が不足していました。なので、男性マンガ家が少女マンガで活躍していきます。そんなわけで「りぼん」から出て人気になったのが『ひみつのアッコちゃん』(赤塚不二夫)や『魔法使いサリー』(横山光輝)。石ノ森章太郎さんや松本零士さんも「りぼん」で描いていました。

この頃の「りぼん」は男性マンガ家、男性編集者が中心で作っており、マンガ自体も女の子が主人公なだけで少年マンガと同じようなものでした。その状態から、いろいろな工夫によって「少女マンガ」が形成されていきます。少年マンガが事件や勝負という出来事中心である一方で、少女マンガは会話が中心となります。そして会話中心だと画面に動きがないので、余白に花を散らすといった独特の空間表現が生まれていきます。

四元さんがこの時代の「突出して面白くて重要な作品」と評価するのが『ハニーハニーのすてきな冒険』水野英子)。作者の水野さんはかのトキワ荘にいた方。手塚治虫さんの手法を少女向けに応用して作られ、しかも少年マンガとは違う内容を持つ作品で、アニメ化もされました。

60年代には、ベビーブームが終わり、少年少女雑誌が立て続けに廃刊になっていきます。マンガの質を上げて読者を確保しなければ生き残っていけないという危機感から「りぼん」がやったのが「新人マンガ賞」。第1回で賞を取ったのが、一条ゆかりさん、もりたじゅんさん、弓月光さん(男性)の3人です(大賞不在)。このうち、一条ゆかりさんは少女マンガをリードする存在となり、弓月光さんは後に青年マンガ誌でちょっとエッチなマンガを描くのでも有名になります。

四元さんが注目するのはもりたじゅんさん。この人は一時期だけあった「りぼん」の姉妹誌「りぼんコミック」で前衛的な攻めた作品を発表しました(“りぼんマスコットコミックス”(=単行本)とは別でマンガ雑誌です)。『うみどり』では近親相姦をテーマにし、『キャー!先生』では原爆症らしき主人公を登場させてハッピーエンドとは言い切れないラストを描きます。『ごくろうさん』では、働く女性(女性警察官)がテーマになっています。この頃、「りぼん」は読者層を意図的に引き上げようとしている(というより「りぼん」から”卒業”させない)ことも、こういう作品が生み出された背景にあるそうです。「りぼん」が攻めた作品発表の場になっていたとは面白いですね。ちなみにもりたじゅんさんは本宮ひろ志(『サラリーマン金太郎』)と結婚し、本宮さんのマンガの女性キャラはほぼもりたさんが下書きしているそうです。

このような流れでついに70年代を迎えます。70年代では、ちょっと大人びたマンガ、難しいマンガが「りぼん」から生まれます。例えば古代エジプトのアクエンアテンの宗教改革を描いた歴史マンガ『ナイルの鷹』(のがみけい)。すごい凝ったテーマです。美大を出ていて画力がものすごかったのが大矢ちきさん。大矢ちきさんは本格的な絵のマンガを描きました。一条ゆかりさんはその画力にほれ込んで大矢さんをアシスタントに雇い、『デザイナー』で主要キャラを描かせています。

「ちひろのお城」(『蕗子の春』所収)(千明初美)は、今でいうASD(自閉症スペクトラム症)を思わせる子が取り上げられ、「今見ても参考になるくらい、ASDの子の特徴が全てまとめられていて、周りがどう接するべきなのかもちゃんと書かれている!」。山岸涼子さんの本格的バレエマンガ『アラベスク』も第1部は「りぼん」連載です。

もちろん、こういう尖った作品ばかりでなく、小学生向けの作品も連載されているのですが、大人的すぎるマンガを掲載することでやや読者が離れていった様子もあるそうです。こうしたことの反動なのか、70年代後半には「乙女ちっく」と言われることになるマンガが一世を風靡します。

「乙女ちっく」の世界観を確立したのが陸奥A子さん(四元さん最大の推し!)。特に『たそがれ時に見つけたの』は40万部を超えるヒット作となり、その登場から7~8年で爆発的に「りぼん」の世界が作られていきます。四元さんによれば陸奥A子さんは「絵がヘタ!」。それまでの本格的な少女マンガの人たちと比べて明らかに線がフニャフニャしていてバランスが悪い。このバランスが崩れた(デフォルメされた)絵が「乙女ちっく」の世界観の一助となったのかも。また田渕由美子さん(『フランス窓便り』)も「乙女ちっく」の代表的な作家。

「乙女ちっく」とは、四元さんなりの説明では、「ちょっと内気でちょっとドジ、好きな人の前では恥じらってなかなか物語が進展しない、なんの才能もないがここぞという時には度胸がある普通の女の子が普通の男の子に恋する、ほほえましい恋を描いたラブコメ」の世界観。なんだか当たり前の少女マンガの説明みたいですが、「少女マンガといえば恋愛、と思っている人が多いんですけど、恋愛が描かれるようになったのが70年代」とのこと。つまりこの「乙女ちっく」の少女マンガが一世を風靡したことで、少女マンガといえばこういうものというイメージが作られたということになります。

陸奥A子さんは「普通の女の子の普通の恋」という、ドラマチックでない題材を真正面から描きます。その手法を一言でいうと、心の動きを絵ではなく文章で表現するということです。四元さん曰く「陸奥さんは絵に自信がなかったので文章中心の表現を模索したんでしょう」。そして「セリフでもない、ト書きでもないポエムみたいなのが話の途中でガーっと挿入されます」。心の動きが中心になったことでモノローグも多用。対話劇に「心の動き」が重層的に挿入されていきます。

こうした手法は読者に強く受け入れられ、70年代後半の「りぼん」は男子大学生までが読むものになります。東大には「東大リボニストの会」が早稲田大学にも「早稲田おとめちっく倶楽部」があったくらいだそうです。

このあおりを食らったのが一条ゆかりさん。一条ゆかりさんの『5(ファイブ)愛のルール』(大人の世界を描いた作品)が打ち切りになります。仕事をする大人の女性を描いた作品ですが、もはやそういう作品は「りぼん」に合わないものになっていました。しかし一条ゆかりさんはめげずにドタバタコメディの『こいきな奴ら』をすぐに連載開始します。ちなみに一条ゆかりさんはこの打ち切りに憤懣やるかたない思いを抱えていたようです。

なお、ポエム的モノローグの挿入は、少女マンガ以外でも応用されて大きな影響を与え、現代のマンガにも引き継がれています。最近のマンガでも羽海野チカさんの『3月のライオン』はモノローグが多用され、フキダシの言葉の背景に心の言葉が、その奥に微妙な心の動きが…と重層的な表現が見られます。ちなみに、四元さんによれば「こういうところがよくわからんと男の子には敬遠される」とのこと。確かにそうかもしれません。

ところで少女マンガというと、必ず語られるのが「花の24年組」です。昭和24年周辺生まれの、萩尾望都さん・山岸涼子さん・竹宮惠子さんなど一群のマンガ家のことで、SFやファンタジー、同性愛などの少女マンガとしては前衛的なテーマを取り上げ、文学的な表現を追求して長く残る作品を残しました。でも四元さんは「そういう作品は、70年代のりぼんでもあった」と言います。「花の24年組の人たちは、「少女コミック」(小学館)という媒体に恵まれたことが大きい。「少女コミック」は「りぼん」に比べて部数がずっと少なく、売れなきゃいけないという雰囲気でなかったので編集者がマンガ家に「何を描いてもいい」と自由にやらせた。評論家は大衆的な作品よりマイナーな作品を評価しがちなので24年組の作品が持て囃されるようになったが、むしろ大衆向けという制約の中で攻めた内容を描いた70年代「りぼん」作品はもっと高く評価されてしかるべき」とのことです。

そして、「りぼん」といえば付録についても触れないわけにはいきません。

「りぼん」には創刊号から付録がついています。特に本格的なものが出てくるのが70年代の陸奥A子さんが付録を手掛けた頃からで、ノートや便箋など実用的なものを中心にオリジナル文具・雑貨が付録となりました。特筆すべきは、それらのグッズはキャラものではなかったということです(陸奥さんのマンガがあしらわれたのではなく、グッズのためのイラストを陸奥さんは描いていた!)。今でいう「ファンシー・グッズ」です。付録の「ランチボックス」なんかすごい。当時の女の子で「ランチボックス」なる概念を知っていた人がどれだけいたか。付録ではないですがアイビールックの巻頭特集なんかも組まれています。オシャレでかっこいい文化を「りぼん」が教えてくれていた時代でした。そんな付録も「乙女ちっく」の世界観の確立に寄与しました。

ちなみに同じ頃の「なかよし」の付録は『キャンディ♡キャンディ』のキャラものばっかりだそうですが、80年代に入ると「りぼん」の付録もキャラものになっていきます。好景気でモノがあふれてくるので、付録が消費文化を先導する意味がなくなってきます。

80年代の「りぼん」は、70年代後半に確立した「りぼん」の作風を前面に出していくことになります。70年代にあったような小難しい、大人向け・前衛的な作品は鳴りを潜め、メジャー路線へと舵を切ります。

結果、名作がどんどん生まれます。そんな80年代を代表するのが『ときめきトゥナイト』(池野恋)。82年の6月に連載が開始され、10月にはもうアニメが始まっていますので、最初からアニメ化ありきで企画が進んでいた模様。柊あおいさんの『星の瞳のシルエット』も絶大に人気があった作品。「250万乙女のバイブル」と呼ばれました。この頃、「りぼん」の部数は255万部を記録し絶頂期を迎えました。矢沢あいさん、さくらももこさんのデビューもこの頃です(意外なことに二人はお互いに意識しあっていたとか)。四元さんは80年代の「りぼん」は「名作が多すぎて紹介しきれない」と言っていました。

ちなみに80年代には、主人公だけでなく個性あふれる脇役が活躍するようになります。「個性を大事に」とか言われるようになったのも80年代。一条ゆかりさんの『有閑倶楽部』は、主要キャラ6人が全員主役みたいなマンガです。それにしても一条ゆかりさんは第一線の活躍をずっと続けていてすごい。また80年代には、「自分を信じる」とか「周りの人を大事に」「明日を夢見る」などポジティブなメッセージが少女マンガにはっきりと表れます。

90年代・2000年代についても四元さんは語っていましたが、講演のサブタイトルが「少女マンガでたどる昭和サブカルチャー」なのでここでは割愛します。ただ、2000年代以降のマンガは「70年代の焼き直しが多いが、それはそれで面白い」とのこと。特に『夢色パティシエール』(松本夏実)、『絶叫学級』(いしかわえみ)、『ひよ恋』(雪丸もえ)、『ハニーレモンソーダ』(村田真優)、『さよならミニスカート』(牧野あおい)がおすすめだそうです。

「りぼん」は女の子がマンガを読む入口として機能し、小中学生向けという制約の中でその表現を模索し続けてきました。少年マンガが究極的には「敵に勝つ」をテーマとしているのなら、少女マンガでは「本当の自分に気づく」がテーマかもしれないと、「今回講演のために70年分りぼんの少女マンガを読み直して思った」そうです。少女マンガでは心の内面をどう描くかが非常に重要なポイントでした。

ところで、一世を風靡した「乙女ちっく」は結局どうなったのでしょうか⁉ 「乙女ちっくは、今でもまとめた本が出るくらい人気があるが、実は80年代半ばには早くも限界を迎えた。女性も活躍できる時代になってくると、女性から見ても煮え切らない「乙女ちっく」の姿勢がまどろっこしいと感じられるようになったのだと思う。しかし最近になって、陸奥A子さんがマンガ家として最後の作品として描いたのが、「乙女ちっく」がそのまま成長していったような女性のマンガ。実はその女性はシングルマザーで、自立した大人の女性になっている。つまり乙女ちっくは成長して大人になった」とのこと。

私は「りぼん」って小学校高学年くらいのわずかな時期にしか読まれないというイメージを持っていました。中学生になると「マーガレット」「花とゆめ」なんかに移行していくものだと。そういう人も多かったと思いますが、読者をなるだけ長く引き止めたいという出版社側の思惑もあって、読者とマンガがともに成長していくという長期的な関係もありました。

『ときめきトゥナイト』はなんと現在でも続編が描かれており、主人公の蘭世(ランゼ)ちゃんにはもう孫もいるそうです(!)。『星の瞳のシルエット』も、本編から20年後の『星屑セレナーデ 星の瞳のシルエット another story』が近年連載されました。少年マンガにはこういうパターンはあまりない。主人公が結婚し子供がいるのは『ドラゴンボール』、『NARUTO』などごくわずか。

少年マンガの主人公はずっと変わらずやんちゃ坊主。でも少女マンガの主人公は、読者と一緒に成長していくものなのかもしれません。

四元さんは、いろんなもののコレクターなので、これからもご講演いただきたいと思っています。次回はどんなコレクションが登場するのかお楽しみに! 四元さん、ありがとうございました。

2026年5月17日日曜日

第23回そらまどアカデミア「「表現すること」〜絵画から小説、エッセーへ〜」を開催します。


6月14日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回ご登壇いただくのは、南日本新聞で「鹿児島つれづれ小咄(こばなし)」を毎日載している永田祥二さんです。

永田さんにご講演をお願いするきっかけとなったのが、昨年開催した第18回そらまどアカデミア「絵を描くこと」でした。この講演の中で、画家の佳月優さんが若い頃に巨匠たちの絵の分析をするエピソードがあったのですが、佳月さん以上に緻密な絵の分析をしていたのが友達の「ナガタ君」です。

【参考】第18回そらまどアカデミア開催しました。「芸術には一致したものがある」 
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2025/06/18.html 

二人は感性的・感覚的ではなく、理論的な考えで絵の分析を行っていました。この分析のおかげで佳月さんは白日展で入賞し、その後日展でも特選を2回とるなど画家として大成します。講演の非常に重要な部分をこの「ナガタ君」が担っていたので、会場の皆さんも「ナガタ君とは何者なんだろう?」と思いながら聞いていたと思います。

そして講演の最後に「実はこのナガタ君は、南日本新聞でつれづれ小咄を連載している永田祥二さんなんです」という種明かし(⁉)があって会場もどよめきました。そこで「では永田祥二さんにもそらまどアカデミアで話してもらいましょう」となったというわけです。

私は永田祥二さんについては「鹿児島つれづれ小咄」しか知らなかったのですが、実は真山剛のペンネームで『非正規介護職員ヨボヨボ日記』を上梓されているそうです。この本、今Amazonで見たらレビュー数が431もありました。すっごい売れてる本ですね。

このシリーズ(〇〇日記)、本屋さんでも見ますよね。20冊以上あったような気がします。よくこんな作者を探してくるなあと前々から思っていましたが、本当にどうやって永田祥二さんにたどり着いたのか、そのあたりの所もうかがってみたいと思います。

講演では、永田さんがずっと「表現すること」を続けてきた熱意や苦労について話が聞けるのではないかと思っています。書くことで生きていきたい人にも参考になるかもしれません。ぜひご参加ください。

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第23回 そらまどアカデミア

「表現すること」
〜絵画から小説、エッセーへ〜

講 師:永田 祥二

画家を志すも、夢は叶わず。それでも何かを表現したくて、道具も場所もいらない、文章を書くように。文学賞の選考委員に文章が絵画的だと言われてうれしかった。絵画と小説、表現、新聞に連載中のエッセーについて話したいと思います。

日 時:6月14日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
1960年鹿児島生まれ。南日本新聞に「鹿児島つれづれ小咄」連載中。南日本文学大賞受賞・九州芸術祭文学賞 鹿児島地区優秀賞 ほか

2026年3月25日水曜日

第22回そらまどアカデミア「『たそがれ色に“りぼん”を染めて…』〜少女まんがでたどる昭和サブカルチャー〜」を開催します!

5月17日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回登壇してくださるのは、琴鳴堂代表の四元 誠さんです。四元さんにそらまどアカデミアで御登壇いただくのは第3・7回に続き3回目になります。

過去2回は、絵本の歴史についてご講演いただきました。特に戦前・戦中の絵本については、絵本の暗部をえぐりだすかのようなすばらしい講演でした。

【参考】第3回そらまどアカデミア開催しました! 絵本が語る社会の変化。 
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2022/09/3.html

【参考】第7回そらまどアカデミア開催しました! 知られざる「絵本の戦争責任」
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2023/09/7.html

この講演の模様を見てもわかると思いますが、四元さんってすごいコレクターなんです。私の知るだけでも、絵本とCDは膨大なコレクションがありますし、なんだか他にもいろいろ集めてそうな雰囲気があります。そんな中でも異色のコレクションが少女マンガ

四元さんがどうして少女マンガを集めているのか、個人的に興味津々で、今回講演をお願いしてしまいました。

というのは、同じ少女マンガでも萩尾望都とか竹宮恵子などの「花の24年組」の少女マンガを集めている人は珍しくないのですが、四元さんのコレクションはそれとは一線を画し、当時フツーの女の子が読んでいたフツーの少女マンガを中心にしているように見受けられるのです。「花の24年組」のマンガは高い文学性や複雑なストーリー、重厚なテーマと実験的手法など今でも注目され、また研究もされているのですが、フツーの少女マンガは顧みられることもなく忘れられていっているような気がします。古書店でもかえって入手困難なような…!

というわけで、四元さんと一緒に昭和の「りぼん」の世界へ分け入ってみませんか?

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第22回 そらまどアカデミア

『たそがれ色に“りぼん”を染めて…』
〜少女まんがでたどる昭和サブカルチャー〜

講 師:四元 誠

集英社の少女まんが誌「りぼん」は、2025 年で創刊から70年を迎えました。生まれ育ったそれぞれの年代ごとに、思い出に残る作品があるのではないでしょうか?。今回はそんなりぼんに掲載された数々の名作やその作家、本紙での企画などを振り返りながら、昭和後半の若者文化の移り変わりをたどってみたいと思います。

日 時:5月17日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
作陶家/琴鳴堂 代表。1973年鹿児島県生まれ。博物館の展示造形物の制作やミュージアムグッズのデザイン。学習教材の開発と製作、文化財の啓発普及に関する体験学習の企画・立案を中心に活動中。 

2026年1月22日木曜日

第21回そらまどアカデミア開催しました。石造物から廃仏毀釈の実相に迫る!


第21回そらまどアカデミア開催しました。

今回登壇していただいたのは、そらまどアカデミア登場3回目の川田達也さんです。川田さんは、鹿児島県内の古寺跡をめぐってきた人ですが、最近はそれに飽き足らず、「県内の全墓地に行ってみたい」という墓地に憑りつかれた方。今回は「石造物の世界から廃仏毀釈を見直してみよう」という講演でした。

鹿児島では、幕末と明治の初めに激しい廃仏毀釈が行われました。幕末(慶応2~3年)の頃は財政的な事情から行われたのですが、明治初年(慶応4~明治2年)では思想的な理由、つまり「もう仏教なんかいらない」というものになりました。

廃仏毀釈が徹底化することになった契機が、明治2年3月、藩主島津忠義の正室・暐子(てるこ)さんが神式(神道式)で葬儀されたことです。それまで葬式と言えば仏教以外になく、葬式があるからこそ寺院を全廃することはできなかったのですが、葬儀を神式にしたことで仏教寺院の存在意義はなくなったことにされました。

これを受け、それまでの廃仏毀釈では標的になっていなかった大寺院も12月に全廃の通知がされます。そうして、鹿児島ではすべての寺院がなくなり、また僧侶は全員還俗(げんぞく=俗人に戻ること)させられるという徹底的な廃仏が行われました。それは、なかば暴動的なものだったのです……と言われてきましたが、本当に暴動のような感情的なものだったのか? と川田さんは問題提起します。

まず、藩から出された指令を読んでみると、ちゃんと廃仏の手順が決められて、還俗後の僧侶の処遇にも気を使われていることがわかります。仏教が憎いから破壊した、という感じではない……?

注目すべきなのは庚申講関係の石造物です。庚申講とは、60日に一度訪れる庚申の日に宗教的儀式を行い、また夜を明かして飲み食いをするグループです。これを3年=18回続けるとそれを記念して庚申塔という石造物を建立することが多かったのですが、これには庚申地蔵という地蔵の形態のものがあります。驚くべきことに、この庚申地蔵は明らかに仏教的なのにほとんど破壊されていません

鹿児島の廃仏毀釈では、路傍の仏像の首まで刎ねるほど徹底的かつ暴力的なものだった、というのが通説ですが、どうして庚申地蔵は破壊の対象にならなかったのか。また、鹿児島市本城にある花尾神社には「庚申仁王像」があり、また東市来の稲荷神社には県内随一の素晴らしい仁王像が残っていますが、これも庚申講が造立したと思われます(隣にある「庚申唐猫」には要注目!)。ほかにも庚申講関係のもので残存しているものは極めて多い。

とすると、民間信仰は、仏教的であっても破壊の対象にしなくてもよい、というお触れがあったのではないか? と考えられます。実際、馬頭観音、六地蔵塔など民間信仰的なものは破壊されていないものが多い。また、これまで川田さんもあまり注目していなかったと言っていましたが、石灯籠もそれを解明するヒントを提供しそうだということです。

吹上の大汝遅(おおなむち)神社には、明治2年に講によって奉納された石灯籠があり、これは廃仏毀釈の最中にも講が活動を続けていた証です。さらに興味深いのは、廃寺後の旧境内に「奉寄進 兵器四番小隊中」と刻んだ石灯籠が奉納された東市来の事例。自分たちで寺をなくしておいて、石灯籠を奉納するとはこれいかに。これは「廃仏に対する微妙な気持ち」を表明したものではないかと川田さんは言います。

これまで、「鹿児島の民衆は藩庁のいうことに唯々諾々と従った」とされてきましたが、反抗がなかったわけではないようです。

また、住持墓にも注目すべきものがあります。宮崎県高原町(旧薩摩藩領)の狭野権現社(の別当寺神徳院の墓地)、南九州市川辺町の善積寺跡、宮之城の大道寺跡には廃仏毀釈の最中に亡くなった住持墓があります。ちょうどこの時期に3人も亡くなっているのは偶然でないのかも。彼らは廃仏毀釈に抗議して自害したのでは、というのが川田さんの見立てです。

さらに、鹿児島の廃仏毀釈は島津家の意向で行われた、と言われていますが、実は島津家も一枚岩ではなかったと考えられます。

キーマンは藩主島津忠義です。忠義は、文久の頃(=幕末)、それまで財政的な事情から禁止されていた妙円寺参りを復活させ、自分も参詣します。さらに明治後の廃仏毀釈の最中である9月14日に軍務局の隊員を引き連れて自ら妙円寺参りを行います。妙円寺が廃寺になるのはその3か月後です。忠義は廃仏毀釈に反対で、存続を図るためにあえて妙円寺参りをしたのではないか、と思われるのです。しかし当時「国父」と呼ばれた父・久光の権力が絶大で、久光の意向には従わざるを得ませんでした。「廃仏令」(明治2年に徹底的な廃仏を指示した命令)は、久光の名前で出されており、藩主と連名になっている公式の命令と毛色が違いますが、これは忠義ができる消極的な抵抗の一つだったのかもしれません。

それから、川田さんは「これを見つけて頭が真っ白になった」と言っていたのが、大明が丘の墓地にあるお墓。「辻盛之助源朝臣清武神霊」と刻まれた神式の墓塔が明治2年8月8日に建立されているのです。この墓塔が建立される2週間前(7月19日)に「藩庁が葬儀師を置いて福昌寺および源舜庵に出張させた」という記録があるので、「神式ではこんな墓塔をつくりなさい」というような指示をしていたのかもしれませんが、それにしても仏教色を排除した完成された形の神式墓塔が8月8日に建立されているのは早すぎる! この墓塔の近くにある明治2年の「福姫命」なる墓もそう。

そもそも藩庁は「こんな墓塔を作りなさい」というデザインをどこから仕入れたのか。川田さんは、この指令の前にお墓のスタイルを決めていた勢力がいたようだと推測しています。そもそも鹿児島神宮周辺では早くも安政年間には戒名を使わない神式の墓塔が建立されていました。でもそういうのがないはずの吉野に、なぜこのスタイルの墓塔が建立されたのか、謎です。

このように石造物をつぶさに見ていくと、これまで「鹿児島の廃仏毀釈はこうだった」と思われていたこととは少し違う様子が見て取れます。感情的に「仏教的なものは全部ダメ」としたのではなく、庚申地蔵はOKとするなど冷静な線引きがうかがえ、破壊的というよりは順を追って廃仏毀釈を進めたという感じがします。とはいえ、仏教的ではない田の神(しかも神像タイプ)を破壊するなど、よくわからずに「とりあえず石造物を壊せばよい」というような雑な理解で廃仏毀釈を手掛けた人もいたことは間違いない。しかし「感情的に進めて、藩内の寺院を全廃するようなことができたとは思えない。廃仏毀釈が何年も持続したこと自体、冷静に遂行した証では?」と川田さんは見ています。また、それなりの反対があったからこそ冷静に進めた部分もあったのかもしれません。

そして廃仏毀釈が完遂できた要因として、これまで見過ごされてきましたが、「講などの民間信仰を容認した」ことがあるのではないか。鹿児島の民衆にとって一番大事だったのは、「仏教でも神道でもなく、講だったのでは。だから廃仏毀釈が比較的スムーズに進んだのかも」とのことでした。

「これまで江戸時代の古い墓塔を中心に見てきて、あまり明治時代の石造物に注意していなかったが、明治時代の石造物をもっと見てみると、もっといろいろわかるかもしれない」と川田さんは言います。川田さんにより鹿児島の廃仏毀釈の実相が解明される日も近いですよ!

2025年12月11日木曜日

第21回そらまどアカデミア「石造物の世界から廃仏毀釈をみてみた 〜当事者たちの心の片影〜」を開催します!

2026年1月18日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回登壇してくれるのは、そらまど店主の畏友・川田達也さんです。川田さんのそらまどアカデミアへの登壇はこれで3回目です。川田さんの話題の引き出しは幅広く、毎回新しい発見があります。 

今回のテーマは、ズバリ「廃仏毀釈」。よく知られている通り(?)、鹿児島では明治維新の頃に激しい廃仏毀釈が行われました。全ての寺院が破却され、全ての僧侶が還俗(僧侶をやめて俗人に戻ること)させられました。全国を見ても、これだけ徹底的な廃仏毀釈が行われたのは例外です。この過程について、まだ分からない部分もありますが、行政的な部分についてはだいぶ分かってきています。店主もかつてこのテーマで本を書きました(『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(法藏館))。

一方、廃仏毀釈の当事者、つまり寺院を破却した人とか、その事態に直面した一般人が、どういう動きを見せたのかはあまりわかっていません。これまで、「民衆は藩権力に従うほかなかった」とか「一部の篤信の人が命をかけて仏像を守った」と言われてきましたが、こうした言説は多分に「伝説」を含みます。

そこで、古寺跡巡り・墓地巡りの第一人者である川田さんは、幕末明治の頃の石造物を丹念に観察し、廃仏毀釈の当事者たちの心情を推測します。この講演では、これまでと違った廃仏毀釈の世界が見えることでしょう。ぜひご参加下さい。 

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第21回 そらまどアカデミア

石造物の世界から廃仏毀釈をみてみた 
〜当事者たちの心の片影〜

講 師:川田達也

明治維新の裏で起こった廃仏毀釈。その当事者たちの声は、不自然なほどわずかしか残されていない。それを伝えるものの一つに石造物がある。今回は石造物からきこえる声に耳を傾け、文献だけでは見えてこない、当事者たちの心の片影を探り、廃仏毀釈について改めて考える。

日 時:2026年1月18日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
1988 年鹿児島市生まれ。京都府立大学文学部卒。古寺跡写真家。週に一回ラジオの人。大学在学中、鹿児島の廃仏毀釈を知り、卒業後に帰郷。以来鹿児島の古寺跡を撮り続けている。著書に『鹿児島古寺巡礼』(南方新社)。

 

2025年12月3日水曜日

第20回そらまどアカデミア開催しました。「最後か、最後から2番目か」の鹿児島弁

第20回そらまどアカデミア開催しました。

今回ご登壇いただいたのは、鹿児島大学で言語について研究している坂井美日(みか)先生です。つい先日、坂井先生の研究室で「方言絵本」(下の写真)を作成したとの新聞記事が掲載されましたが、坂井先生はさまざまなアプローチで方言の教育研究に取り組んでおられ、私はいつか話を聞きたいなと思っていました。面識はなかったのですが、こうしてご講演いただけたことがありがたいです。実は、知人からの紹介もなく全く面識のない方にご講演いただくのは初めての経験でした。

坂井先生は「方言を研究しているというと、感覚的なものだと思われがちですが、実際は科学的なんです」と切り出しました。

そのケーススタディとして挙げたのが鹿児島弁の形容詞についての考察です。

鹿児島弁話者のみなさんは、「浅い」「深い」「暑い」を何と言いますか? 「浅い」は「浅か」または「浅せ(あせ)」、「深い」は「深か」または「深け(ふけ)」、「暑い」は「ぬっか」または「ぬき」と2種類の言い方がありますよね? 

標準語の形容詞は「イ」で終わるのでイ形容詞と呼ぶことにすると、「浅か」などは「カ」で終わるのでカ形容詞と呼べます。カ形容詞は九州では広く使われていますよね。では「浅せ」の方は? 

これは、あさい/asai/の二重母音の/ai/が融合して/e/となったものと考えられます。ぬくい/nukui/の場合も/ui/→/i/です。こういう音の変化は言語によく起こります。つまりこれらはイ形容詞から変化した融合系と考えられます。表にまとめると以下の通り。

カ形容詞 イ形容詞(標準語) イ形容詞融合形
あさか 浅い あせ /asai/→/ase/
ふかか 深い ふけ /fukai/→/fuke/
ぬっか 暑い(温い) ぬき /nukui/ → /nuki/

でも、なんで鹿児島弁には2種類の形容詞の言い方があるのでしょうか? イ形容詞融合形は標準語から変化したとみなせるので、標準語教育以降なのかも? という仮説を立ててみます。それを確かめるために古い文献を確認してみましょう。

鹿児島で標準語教育が行われたのは明治30年代からで、この頃の標準語を学ぶためのテキストに鹿児島弁が対訳(!)として掲載されているのが参考になります。まずは明治37年初版の『鹿児島語と普通語』を確認してみると、「ヨカ間(ま)がエチョイモス(よい部屋が空いています)」とか「モット ヤシ本はネカ?(もっと安い本はないか?)」とあるので、すでに混交状態が確認できます。

明治32年の『鹿児嶋言葉わらひの種』という本もあります。これは島津久光の娘が長野(真田家)に嫁ぐときに持って行った本だそうです。ここにも「キュ ハ ヌキネエー ココン イガワ ワ チメテカ?(今日は暑いね ここの井戸の水はつめたいか)」「スクワヲ、 チメタカ ミヂ ツケチ モチケ(スイカをつめたい水につけてもってこい)」 とあります。「チメテカ」の「カ」は疑問詞なので、「チメテ」と「チメタカ」で混交状態があります。

ではさらにさかのぼってみましょう。江戸時代中期の「ゴンザ資料」ではどうなっているでしょうか。鹿児島の人は知っていると思いますが、ゴンザは少年の頃に漂流してロシア人に助けられ、ロシア政府の命で露日辞書(実際は鹿児島弁ーロシア語辞書)を作った人です。ちなみに講演では、ゴンザ辞書にあるキリル語表記の鹿児島弁を、キリル文字とアルファベットの対応表から読み解くという面白い作業をみなさんにもやっていただきました。

そこでは、「タニハ フカカ(谷は深い)」「カワ アセカ、マタ フケカ(川は浅いか、または深いか)」と、やはりカ形容詞とイ形容詞(融合形)の混交状態が確認されるのです! というわけで、混交状態は江戸時代まで遡ることは確実です。というわけで先ほどの仮説は否定されました。

ちなみに古典語の形容詞には、ク活用・シク活用と呼ばれる「本活用」(長き/新しき)と、カリ活用・シカリ活用と呼ばれる「補助活用」(長かる/新しかる)があります。本活用がイ音便化して「長い/新しい」となり、補助活用が変化して「長か/新しか」=カ形容詞となったようです。

ということは、鹿児島弁は本活用の方も平行的に変化してイ形容詞融合形が生まれたんでしょうか? 鹿児島で江戸時代までにどういう経緯で両形容詞が混交したのが不明なため、現段階ではなんともいえません。

このように、方言の研究といっても「〇〇は鹿児島弁では何というでしょうか?」的なものでなく、データの監察・仮説の立案・その検証という、科学的な手続きで行われるものなのです。

次は、「データに基づいて法則を見つける」という事例で、アクセントに注目します。アクセントとは「単語を識別するための発音の際立たせ」のことで、音の強弱とか高低で表され、鹿児島弁の場合は高低です。実は、鹿児島弁のアクセントには「単語の最後か、最後から2番目か」という2種類しかないんだそうです。アクセントの位置を太字で示すと以下の通り。    

オト
甘酒 アマ
朝顔 アサガ

(鹿児島弁話者にしかわかりませんが)確かにそうですよね! このように「最後か、最後から2番目か」のアクセントを「二型アクセント」というのだとか。しかも鹿児島弁の場合はちょっと変わった事情もあります。日本語は基本的に「モーラ(拍)」を基準としているのに(=モーラ言語)、鹿児島弁は「シラブル(音節)」が基準となっています(=シラビーム言語)。

モーラとは、「お・ば・あ・さ・ん」のように俳句の拍を数える単語の分解方法です。一方シラブルは「o/ba:/saN」のように、母音を核とした聞こえの塊のことです。「おばあさん」は5モーラ/3音節ということになります。次の単語のアクセントを見てみると、鹿児島弁のアクセントがシラブル単位であることがわかります。

語彙 鹿児島の高低 シラブル
看板 カンバン kan.ban
東海道 トウカイドウ to:.kai.do:
祥子 ショウ sho:.ko
ケダ ke.da.mo.no
モン ke.da.mon

カタカナで書くと「最後か、最後から2番目か」の法則が崩れているように見えるのに、シラブルで見るとしっかり合ってます。特に「獣」の二種類の読み方が、シラブルで考えるとどちらも「最後から2番目」で変化していないことがわかりますね! シラビーム言語であることは、日本語方言では珍しい特徴です。

さらに面白いのが、鹿児島弁では単語のアクセントが移動すること。次の表を見てください。鹿児島弁では複合語を形成するとき、前の単語のアクセント法則を引き継ぐことがわかります。これマスターするのって難しくないですか? 私は何も考えずに鹿児島弁をしゃべってますがこんな処理を頭の中でしていたとは…!

語彙 鹿児島の高低 アクセントの位置
最後
最後から2番目
山桜 ヤマザク →最後
最後から2番目
薬  スイ最後
傷薬 キッスイ
→最後から2番目

さらに鹿児島弁の場合は、複合語の単位ではなく、文節単位でアクセントが移動します。

語彙鹿児島の高低アクセントの位置
最後
山がヤマ→最後
山桜がヤマザクラ→最後
最後から2番目
傷薬 キッスイ最後から2番目
傷薬がキッグスイ
→最後から2番目

なんというややこしい仕組みなんでしょう。文節まで考えてアクセントをつけないといけないとは。「単語を識別するための発音の際立たせ」が単語を飛び越えて助詞に移動するとは奇妙奇天烈ですね。鹿児島弁は習得が難しいと言いますが、当然だと思いました。

というわけで、これまでの事例を通じて、「(1)鹿児島弁の単語はシラブル(音節)を基準に形成されており、(2)そのアクセントは”最後か最後から2番目か”という2種類しかなく、(3)しかも複合語や文節を形成するときは最初の単語の法則に従ってアクセントが移動する」という法則があることが確認されました。

なお、こういった法則は、日本語の方言の中で珍しいばかりではなく、世界の言語の中でも割と変わっているそうです。では、どうして鹿児島弁はこんなに特殊なんでしょうか? 質問してみたら、それについて坂井先生は「それはわかりません」と断言し、「いろいろと考えられはするんですが…中央との距離が遠いですし…」と言いかけて「ここからは軽々しく言わないことにします」としていました。こういう態度が「科学」かも!?

普段何も考えずに使っている鹿児島弁ですが、科学的に解剖してみると独特な仕組みがあることがわかり、しかもその独特な仕組みを自分自身が苦もなく使いこなしていることに不思議な気がしました。言語も不思議ですが、人間の脳も不思議です。

なお、冒頭に紹介した絵本はまだ一般販売はされておらず、資金が集まったら刊行する予定とのことでした。クラウドファンディング等が行われた場合は、みなさん坂井研究室にご協力をよろしくお願いします!

2025年10月29日水曜日

第20回そらまどアカデミア「鹿児島の方言を科学する」を開催します!


11月30日、そらまどアカデミア開催します。

今回登壇してくださるのは、鹿児島大学で言語の研究をしている坂井美日(みか)先生です(犬さんはアシスタントだそうです)。

【参考】坂井研究室@鹿児島大学
https://www.sakai-kagoshimauniv.com/

坂井先生については、「鹿児島弁研究の人」として鹿児島ではしばしばメディアで取り上げられるので、みなさんも目にしたことがあるのではないでしょうか。「方言AI」(鹿児島弁でやりとりができる対話型AI)の開発なんかもしているそうです。ちなみにこの方言AIの名前は「カルカン」とのこと。 

しかしながら、坂井先生は方言だけでなくて、現代の普通の日本語から古典日本語まで対象として研究しています。博士論文は古典日本語の文法についてだということでした。

「古典日本語の研究と、方言の研究って、どう繋がるんですか?」と聞いてみたら、「言語の変化という意味では同じなので(大意)」という答えが返ってきました。

考えてみると、言葉は歴史的に変遷していますが、地域的にも変遷します。歴史的変遷と地域的変遷が組み合わさって現代日本の言語地図を形成しているわけですよね。

方言の研究は、方言話者(←つまり年寄り)との医療現場での意思疎通を容易にするといった実用的な側面もありますが、言語のしくみや変遷について理解を深めるという側面もありそうです。

ところで、大量の言語が消滅していっているという話があります。世界には、何千という言語が存在しています(いました)が、その90%は2050年までに消え去ってしまうとか…。さらに方言まで含めたら、その消失はずっと大きいですよね。

鹿児島弁はそれなりに話者のいる方言ですが、それでも昔ながらの言葉をしゃべれるのは70代以上だと思います。ということは、あと30年したらホンモノの鹿児島弁をしゃべれる人はほとんどいなくなくなっちゃいますね。世界にある何千という言語が「なくなってもいいじゃん」とはならないのと同様、鹿児島弁も人類文化の多様性の一つなので、失われるのは残念なことです。

そして、鹿児島弁とはどんな言語なのか、解明されないうちになくなったらもっと残念です。鹿児島弁を科学的に研究している坂井先生の話を聞いてみませんか。

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第20回 そらまどアカデミア

鹿児島の方言を科学する

講 師:坂井美日

方言を研究するとはどういう営みか。本講座では、文献やフィールドのデータをもとに、音声や文法や語彙の分析を通して方言を科学的に明らかにする作業を体験する。身近なことばに潜むしくみを探り、ことばの重層性、多様性、普遍性などを考える。

日 時:11月30日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
鹿児島大学共通教育センター准教授。専門は日本語学。

※今回より、講演時間が30分延びて2時間になっていますが、これは従前時間オーバーが常態化していたためです。  

2025年9月18日木曜日

第19回そらまどアカデミア開催しました。「国体」から満州へ


第19回そらまどアカデミア開催しました。

今回は、そらまどアカデミア登場2回目の小川景一さんの話です。前回は、明治維新の精神的支柱となった儒学の話をしていただきました。その回では、最後に店主がしゃしゃり出てきて小川さんの図像を解説、結果的に対談みたいになりました。この小川さんとの対談が面白かったので、一方的に新米を送って2回目の登壇をお願いして、しぶる小川さんに今回また来ていただきました(笑)。今回は講演ではなく、小川さんと店主による対談でした。

【参考】前回の話です
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2024/08/13.html

小川さんは、「思想の流れを図像で表す」という変わった趣味(!)をお持ちです。前回と同じく、小川さん作の図像に基づいて東アジア(日中)の思想の流れについて語りました。メインビジュアルはこちら(クリックして拡大します)。


孔子に発した儒教が、朱子学となって日本に渡り、徳川光圀によって水戸学という歴史哲学となって「国体」という観念を生み出し、それが大陸に逆流して満州国が建国される、という思想の渦を表したものです。

孔子の教えは、あくまでも政策担当者に向けたもので、そこから発展した儒教も社会の上層に向けた教えの性格が濃厚でした。漢の時代には「性三品説」という、「人間にはもともと上中下の三種類の人がいる(→上級の人間以外には教化は無意味)」という一種の血統主義が現れてもいました。ところが隋からは官吏登用試験の科挙が始まります。これは世界の歴史においても特異なほど平等主義的なやり方でした。こうして社会に広まった儒教から生まれたのが朱子学です。

南宋の朱熹(朱子)は、儒教を万物の理論へと再編集します。元来の儒教では世界の始まりや宇宙の成り立ちといったことへの関心が薄く、そうしたことに強い関心を持ったのは老荘思想の方だったのですが、朱熹は老荘思想や仏教など儒教以外の思想を総合して、個別的事物から天まで連なる統一理論「朱子学」を考案しました。

この朱子学を身に着けて、江戸時代に日本にやって来たのが朱舜水(しゅ・しゅんすい)です。朱舜水は、明朝の臣だったのですが、その再興を目指してなのか、日本海を8回も往復していました。それに目を付けて招聘したのが水戸藩の徳川光圀です。徳川光圀は「歴史マニア」で、日本の正史(正式な歴史書)を自ら作ろうと思い立ち、「大日本史」というプロジェクトを立ち上げるのですが、そこで問題になったのが王朝の正統性です。

朱舜水にとって、王朝の正統性は非常に重要でした。というのは、彼が仕えていた明朝は滅んでしまったのですが、続いて建国された清は満州族による異民族王朝で、彼はそれを正統な王朝だとは絶対に認めたくなかったのです。

中国では、から世界の統治を付託された一人の人を「天子」と呼び、歴史は天子の継承によって形作られます。一方、日本では鎌倉・室町・江戸など将軍政権は移り変わっていますが、ずっと天皇が存在し続けてきました。そこで「大日本史」プロジェクトでは天皇を「天子」のようなものとして位置づけたのですが、問題になったのが南北朝時代。この時代、天皇家が2つに分裂して天皇が同時に2人いたからです。これはマズい。天が統治を付託するのは必ず一人でなくてはならないので、どちらかが正統で、もう片方はニセモノということになります。「大日本史」は、元来は政治的なものではなかったのですが、中国の正史の枠組みに沿って歴史書を編纂しようとしているうちに政治哲学の問題に踏み込んでいきました。そうしてできた歴史哲学的儒学が「水戸学」です。この水戸学が明治維新を動かす思想的支柱の一つとなります。

ちなみに、江戸時代の儒学の中心は水戸学ではなく、幕府が作った昌平黌(しょうへいこう)という学校でした。徳川家康は林羅山(はやし・らざん)という儒者を政策顧問にしていたのですが、林羅山から連なる儒学が展開したのが昌平黌でした。ちなみに林羅山の先生が藤原惺窩(せいか)という人で、この人は明にわたって儒学を学ぼうとし、渡航のために鹿児島までやってきています。ところが鹿児島では戦国時代末にすでに儒学が高いレベルで研究されており、儒書が読まれていました。そこで「わざわざ明まで渡らなくてもここで学べば十分だ」と思ったのか、ともかく明には渡航せずに山川の正龍寺というところで儒学を学んで中央に戻っていった人です。鹿児島では貿易が盛んでたくさん中国人がいたことが、儒学の興隆につながったと思われます。

話を戻して、徳川光圀は水戸学とは違う流れの学問の発端にもなっています。それが「国学」。光圀は日本の古典が読めないのを遺憾とし、契沖という僧侶に『万葉集』の読解を依頼します。『万葉集』は万葉仮名という特殊な仮名(というより漢字)で書かれているため、読めない部分が多数あったのです。契沖はこれを見事解読し『万葉代匠記』という著作にまとめました。これが発端となり、日本の古典を読解していくという取り組みから「国学」という学問が生まれたのでした。

国学を大成したのが、本居宣長です。宣長は『古事記』に取り組みました。これは漢文と日本語が混ざったような言語で書かれていますが、宣長はこれを「古代人になりきって読む」という方法論で読解します。「漢字や儒学などの中国由来の知識を捨て去って、古代人の心(大和心)になれきれば読めるのだ!」というのが宣長の考えでした。ちなみに、古代中国の甲骨文を同じような方法論で解読したのが現代の漢字学者・白川静です。白川の漢字説は、日本では批判も多いですが現代中国で大変人気があるそうです。

ちなみに宣長は、儒学的な規範を「漢意(からごころ)」として人為的で余計なものと切り捨て、日本人はそうした規範がなくても自然に治まると考えていました。

宣長に私淑したのが平田篤胤です。宣長はあくまで学問的でしたが、篤胤は出版人・編集者・著述家という性格が強いです。霊魂の行方やあの世に大変関心があった篤胤は、宣長が恬淡としていた宗教観を発展させ、神話の世界やあの世の世界、異界を実体的に著述しました。そんな中で、「日本はすべての国の元の国」という日本ナンバーワン説を喧伝します。これが幕末の揺れ動く国情にがっちりマッチして幕末の志士に大変な影響を与えました。

一方、水戸学の方では幕末になると会沢正志斎という人が『新論』という本をまとめます。これは水戸学の主張をまとめた本ですが、ここで「国体」という概念が謳われました。正統性を考究した水戸学において、日本の正統な在り方という抽象的なものが「国体」という言葉によって具体化されたのです。これも幕末の国情にがっちりマッチして、『新論』は新たな国の在り方の模索に大きな影響を与えました。ただし、幕末の水戸藩では、考え方の違いで諸生党と天狗党という派閥に分かれ、天狗党の乱という内戦が起こって当時の知識階級が互いに殺し合いをしたため、明治後にはほとんど人材が残りませんでした。

明治維新が起こると、儒学者と国学者は政府に取り入れられ、儒学・国学のハイブリッド思想によって明治政府が運営されます。儒学は宗教性に欠けており、国学は教義性に欠けているため、両方がうまく取り入れられたのではないかと思います。こうして、本来は全く別々の体系として展開してきた儒学と国学が政策的に融合されて生まれたのが国家神道でした。ただし儒学と国学で一致していた点がありました。それが天皇の扱いです。双方に(将軍ではなく)「万世一系」の天皇を日本の正統な統治者とする観念があり、それが国家神道の核になります。

ちなみに、儒学と国学をつないだ「古神道」が興る影のキーマンとなったのが、薩摩藩の本田親徳(ちかあつ)ではないのか、というのが小川さんの考えです。本田親徳は南さつま市加世田武田の生まれで、会沢正志斎に3年ほど弟子になっています。どうやら彼は霊感が強くて、不思議な力を見せて人を引き付けていったようです。

国家神道には、儒学の道徳と国学の宗教性がありましたが、国家の行動理念のようなものは希薄でした。儒学は個人倫理が中心で、国学は「天皇の支配に身をゆだねる」というような、庶民の心得が中心だったからです。そんな国家神道がひねり出した行動理念の一つが「八紘一宇」。これの表面的な意味は「世界中の人々が家族のように仲良く暮らす」ということでしたが、実際には「日本(天皇)が世界を征服する」という理念として扱われました。

というわけで、時代がちょっと飛びますが、日本は大陸へ進出し、満州国が建国されます。それ以前の満州は、日清日露戦争を経て日本の租借地になっていました。ここで満州事変を起こして満州国という国家を建国した中心人物が、陸軍の石原莞爾です。実は、彼は国柱会という宗教結社の一員でした。国柱会というのは、田中智学という日蓮宗の僧侶が作った日蓮主義の団体で、宮沢賢治が加入していたことでも知られます。当時のエリートに大きな影響を及ぼした団体です。

1932年の第1回満州国建国会議では、「南無妙法蓮華経」のどでかい垂れ幕が掲げられています。満州国の思想的バックボーンとなったのが国柱会であり、日蓮主義だったのです。国家神道と日蓮主義が結合したのは一見奇妙ですが、国家神道に不足していた行動的な思想を日蓮主義が打ち出していたことが関係しているように思われます。なお、テロリストの側にも日蓮主義は浸潤しており、井上日召(日蓮宗の僧侶)が中心となった血盟団は政府要人を暗殺します(血盟団事件)。仏教的思想から暗殺に行ってしまうというのが今から考えると奇異ですよね。

ちなみに、権藤成卿(ごんどう・せいきょう)という人は、満州国で古代日本のリバイバルのような国家を作るという「鳳(おおとり)の国」構想を抱いていたそうです。最近、このことについて詳しく書かれた本『日本型コミューン主義の擁護と顕彰―権藤成卿の人と思想』(内田 樹 著)が出版されたということで小川さんは「ようやくこのあたりの事情がわかった」と言っていました。ともかく、満州国というのは単なる植民地だったのではなく、日蓮主義にしろ「鳳の国」にしろ、理想の国を建設する試みでありました(ただし現地の人にとってありがたいものではなかったのは言うまでもありません)。

その理想は、「王道楽土」「五族協和」といった一見快い言葉で飾られており、またその建設に邁進した人は本当に理想郷の建設を考えていたのですが、理想とはかけ離れた結果となりました。そしてそれを支えた思想は、儒学・国学・日蓮主義・陽明学など、本来まじりあう性質でなかった思想が「国体」というコンセプトの下に共存して生まれたものであったようです。いろんな思想を包摂してしまう「国体」というコンセプトこそ、近世日本が生み出した最大の発明品だったのかもしれません。

小川さんは、満州国の終焉まで話をしたかったとのことですが、このあたりで予定の2時間を超過したため、ここまでの話となりました。時間が足りなくなったのは、途中、私(店主)がけっこう話を巻き戻したり、補足を詰め込んでいたりしたためです。申し訳ありませんでした。なお、小川さんの話にもいろんな脇道がありましたが、上記のメモではほぼ割愛しております。

小川さんは、「人前で話をするのはこれが最後」とおっしゃっていましたが、そういわずに(笑)またお話ししていただきたいと思っています。なにより、こんなディープな話を縦横に展開できるのは小川さん以外にはちょっと思いつきません。さらなる登壇を期待したいと思います!

2025年8月29日金曜日

第19回そらまどアカデミア「海*東アジア&日本」を開催します!


9月14日(日)、そらまどアカデミア開催します。

いつものそらまどアカデミアは講演ですが、今回は対談です! しかも、店主が小川景一さんと対談します。どうしてこんな変わったイベントをするのかというと、話は1年前にさかのぼります。昨年8月、小川景一さんには「海を渡ってきた儒学とその周辺…そして明治維新までの物語」と題してご講演いただきました。

【参考】第13回そらまどアカデミア開催しました。朱舜水から水戸学、そして明治維新へ
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2024/08/13.html

上のブログ記事にも書いていますが、この講演では後半店主がしゃしゃり出てきて、対談形式になったのですが、それがけっこう好評でした。

この講演はとても盛り上がったと思うのですが、小川さん曰く「儒学なんて、そんなに入れ込んでないから」。じゃあ小川さんが入れ込んでいる老荘思想について語ってもらおうと依頼したところ、「老荘思想は語ったらもう老荘じゃない。それよりは前回の続きで対談しよう」ということになりました。

具体的には、明治維新の思想的バックボーンとなったのが儒学やその周辺の中国思想であり、日中交流の中で育まれてきたさまざまな思想が長い歴史を経て革命の論理になっていった、ということを小川さんまとめた図像を前に語ります。つまり前回の話を改めて最初からやり直すということになります。それに追加して、実は満州国がそういう一連の思想を具体化した実験場であったというような部分にまで踏み込む予定です。

ただし! 先日小川さんと打ち合わせしたのですが、「とてもじゃないけど、この話をしていたら2時間では終わりそうもない」と思いました。でも、もう2時間で終わらなくてもいいので、喋れたところまででやりたいと思います。小川さんと存分に語り合いたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

★前回の講演を聞いていなくても、聞いていても楽しめる内容のはずです。 

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第19回 そらまどアカデミア

海*東アジア&日本

対 談:窪 壮一朗×小川 景一

海を渡ってきた儒学とその周辺、そして明治維新。
維新の残響、中華・朝鮮半島。そして満州。

日 時:9月14日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
小川景一:絵師・唐通事。武蔵野ミュージアム選書スタッフ。中国桂林にてデザイン教師、鹿児島大学非常勤を経て、現在庭師修行中。

2025年6月17日火曜日

第18回そらまどアカデミア開催しました。「芸術には一致したものがある」

第18回そらまどアカデミア開催しました。

今回お話しいただいたのは、吹上町野首(のくび)の画家・佳月 優(かづき・ゆう)さんです。

佳月さんと知り合ったのは10年以上前ですが、芸術に真摯に向き合うその姿勢に感銘を受け、「いつかどこかでお話してほしい」と思い続けてきました。今回ようやく、そらまどアカデミアの場を使ってその思いを実現することができました。

佳月さんは、ご自身の人生を絡めつつ「人は、いったいどのような絵を美しいと感じるのだろうか?」ということについて語ってくれました。

佳月さんは、愛媛県今治市生まれ。お父様は造船の仕事をしていたそうです。小学生から剣道を始め、高校までは剣道漬けの生活を送ります。工業系の高校を卒業後、家族で鹿児島に引き上げてきて、電気工事の仕事に就きました。

ところが、絵に関する仕事がしたいという思いが次第に強くなっていきます。高校までは剣道ばっかりだったのに、絵に関する仕事がしたいとなっていったのが面白いです。生まれながらのものなんでしょうか…⁉ そして就職話を断って大谷画材に勤めます。大谷画材は、2024年に惜しまれつつ閉店した鹿児島の古い画材屋さんです。

佳月さんは、ここで「ルフラン(絵具)の、メーカーしか見られない資料を見ることができたり、画材の勉強ができた」そうです。そして大谷画材の2階でやっていたデッサン教室に通います。お父様が油絵を描いていたことから油絵を独学で始め、100号の作品を書いたところ県美展に入選。この作品、すでに高い完成度に達していました。そして次の年の県美展でも入選します。

ところが次の年は落選。スランプになります。そんな時にお母様が「ちゃんとした仕事に就きなさい」といって、今度は京セラの工場に勤めることになります。ここはとってもハードな仕事で、残業が月120時間あったとか。帰ってきて玄関で倒れこんじゃうような暮らしでしたが、その中でも100号の作品を描いて南日美展(南日本美術展)で入選したりもしていました。

が! 無理がたたって、佳月さんはくも膜下出血で倒れてしまいます。

くも膜下出血は、当時は助かる可能性が低かったそうですが一命をとりとめ、その中で思ったのが「絵が描きたい」ということ。そして1年後に京セラを辞め、鹿児島市内で絵画教室をオープンさせます。思い切った人生の選択ですよね。

当然、実績のない若者がやっている絵画教室では生徒さんは集まらなかったそうですが、ここが学生や画材屋時代の仲間のたまり場となります。この仲間でグループ展をしたり、お金を出し合って飲んだり食べたりしたりという、楽しい場所になります。「私は大学は行ってないですが、まるで大学時代みたいな感じでした」。

そんな仲間の一人に「ナガタ君」がいました。「彼は雑学王で、とにかく毎日美術のことを調べていたんです。そして彼と美術の巨匠たちの絵を分析していろいろ議論しました。ある時は私が不在だったんですが、わざわざ絵の分析を丁寧に書き残していったこともあります」

ナガタ君がゴーギャンの《ポン=タヴァンの水車小屋》について書き残したスケッチブック

当時の佳月さんの絵は、私から見ると十分魅力的ですが「上手に描いているつもりでも、上手に描くだけでは展覧会には入選しない」のだそうです。ナガタ君と佳月さんは、巨匠の絵の分析をする中で、画面に描かれるものが、じつに巧妙に配置されているということに気づいていきます。

そしてその配置の秘訣が、「黄金比」や「黄金分割(黄金比による分割)」でした。黄金比とは、1:1.618...のことで、最も調和がとれて美しい比率されています。ピラミッドやパルテノン神殿にも黄金比が使われていますが、この比は工学的に安定した形でもあります。

また、フィボナッチ数列という、1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, …という数列がありますが、これは隣り合う数の比が黄金比に近づいていくという数列で、この数列を矩形の分割に使うことで巻貝の断面のような螺旋が現れます(黄金螺旋)。絵画作品にはこの螺旋も多用されているそうです。

そして、1:√2、1:√3、1:√5のような比率も重要で、これらと1:1(つまり正方形)と1:1.618...(黄金矩形)の5つの矩形が絵画作品の中にはちりばめられているんだそうです。佳月さんは、画集に掲載されている絵に5つの矩形を表すたくさんの補助線を引き、一見何気なく描かれた雲や木々や山、服のシワのようなものが、その補助線の上にぴったり載ってくることを確かめていきました。

そんな中でも、黄金分割や螺旋が巧妙に多用されているのが、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」だそうです。「ホントに黄金分割に基づいて画面構成をしていたのか? と思うかもしれないが、スーラは意図的にしていたらしい」。

ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』

佳月さんはナガタ君とこういう研究を1年半くらい行い、その研究に基づいて黄金分割を画面構成に使った絵を描きます。面白いことに、その絵を描く前に「(断面が黄金螺旋になっているという)オウムガイの怪獣が2匹飛んでる夢を見た」そうです。

そして、その絵が白日展(白日会展)で賞をもらいます! 佳月さんによれば、この展覧会は「どうして私なんかが賞をもらえたんだろうと思うくらい、すごい作品ばかり」。さらに佳月さんは、日展でも特選を2回も受賞します。どこの派閥にも属していないのに特選を取ったことは驚異的です。

「私にとって色彩は難しい。だから黄金分割にこだわった構成を一生懸命やった」。それが評価されて、美術界でも佳月さんのスタイルとして認知され、日展の審査員、そして会員まで務めることになりました(日展の会員というのは、日展に無審査で作品が展示される特別の立場)。

「日展の審査はすごかった。17人の審査員が、たった何秒か作品を見て入選か落選かを挙手で判断するんですが、それが17人全員一致している。みんな手を挙げるか、みんな手を挙げないか。これにはビックリした」ということです。つまり、絵の良しあしは、個人の好き嫌いとか感性の以前に、万人一致した部分があるということです。「ただ、上の賞になってくると、そりゃ人間社会だからいろいろあるので、一致というわけにはいかないですが…(笑)」

しかし佳月さんは、会員になった次の年に会員を辞めて展覧会から遠ざかります。日展の会員というのは芸術の世界での大きな権威なので、事務局からは「会員になってすぐやめる人は、これまで一人もいないですけどホントにいいんですか?」と言われたそうです。ですが、日展と白日展のために継続的に作品をつくっていると、どうしても同じような絵ばかりになり、そもそも「これを表現したい」という内的な衝動が枯渇してしまったのでした。

そうして、佳月さんは「いろんなストレスから解放されて、今は近所の風景などを描いています」とのこと。この10年くらいは、「死ぬまでに完成すればいいかな」と3枚組の5mくらいの巨大な絵を描いているということでした。スケールがでかい!

ただ、制作の方法論が変わったわけではなく、黄金分割を使った画面構成が基本になっています。でもそれはもはや計算というより、体に染みついたものになっているように思いました。そもそも黄金比(や√2や√3を使った比率)は自然界にもたくさん存在しています。有名なのはヒマワリの種の配列(正確にはフィボナッチ数列)ですが、葉っぱの縦横比や大きさの比などもそういう比率が見られます。それはもちろん、人が見て美しく感じるようになっているのではなく、逆に人が自然の美しい形に囲まれて生きてきたからこそ、そういう比率を美しく感じるようになったのでしょう。

広告デザインや企業のロゴにも黄金比は多用されています。特に「くまモン」は巧妙に計算されたデザインだそうです。みんなに受け入れられるものには理由がある、ということですね。

講演後には、会場から「画面構成より、作家が作品に込めた想いを受け取って感動するんだと思っていたが…?」という質問がありました。佳月さんは「作家の表現したいという気持ちが作品の核にあることは大前提」としつつも、「描きたいものを感性のままに描いても、それが見る人には伝わらないかもしれない。それを伝えるために、黄金分割などが必要になってくる」ということでした。

それに、「美術評論なんかを見ても、私の作品に対して私の考えとは全く違うことが書いてある(笑)。それも毎回。評論のプロでも、作家とは感じ方が違う」として、作家の想いを受け取るというより、「作品を見てそれぞれ違う感じ方をする、ということでいいのだと思う」と述べていました。

ところで、黄金分割の研究を共にやっていた「ナガタ君」はどうなったのか? というのが気になりますよね!?

「ナガタ君は、絵を見る目が確かでアドバイスなんかもすごく的確なんですけど、絵では成功しなかったです。それで小説家になって今南日本新聞でエッセイを書いています。皆さんご存知だと思いますが永田祥二さん。西日本の文学賞もたくさんとったすごい小説家なんですよ」とのこと。「ナガタ君」が南日本新聞の2面に毎日載ってる「鹿児島つれづれ小咄(こばなし)」の永田さんだったとはびっくりしました!

「いい絵とは何か? どういうものを人は美しいと感じるのか? 」

というと、「いろんな好みがある」とか「人それぞれ好きな絵は違う」と思っていましたが、「日展の審査員17人全員一致していたように、いい絵とは何か、素晴らしい芸術には一致したものがある。見る人が見たら、いい絵かそうじゃないか一瞬でわかってしまう。ある意味恐ろしい世界」なのだということです。その「一致したもの」の一つが黄金分割なんですね。なお、色彩にも同じような調和する比率があるそうです。

私は鋭敏な感性を持っていないので、「一致したもの」を感じる目はないです。それでも、美術の巨匠の作品と、ジョイフルに飾ってある作品は全然違うことはわかります(私はジョイフルに油絵が飾ってあるのが好きです)。でも具体的に何がどう違うのかは説明はできません。特に花の絵なんてほとんど似たようなものなのに。その違いは、もしかしたら黄金分割にあるのかもしれません。

2025年5月13日火曜日

第17回そらまどアカデミア開催しました。鹿児島市立美術館はいかにして設立されたか?


第18回そらまどアカデミア開催しました。

今回ご講演いただいたのは、鹿児島市立美術館の前館長、大山直幸さんです。

まず驚いたのは、大山さんが館長として市立美術館の歴史を調べるまで、誰も市立美術館の設立の事情を本格的に調べた人がいなかったということ。良くも悪くも、あるのが当たり前の施設になっているのかもしれませんね。

大山さんは市立美術館の歴史を調べるため、同館が70周年を迎えることもあって、毎日県立図書館に通って古い新聞に全部目を通したそうです。

古い新聞って縮刷版なので、見るのがすっごく大変なんですよね。記事がありそうな年の新聞に目を通すというのは私もやったことがありますが、全部に目を通すのはまさに執念! そのせいで「目がおかしくなっちゃった」とか。新聞のコピー代だけで数万円になったということでした。でもそのおかげで、市立美術館がどのように設立されたのか、実証的に解明することができたのです。

そもそも、鹿児島市立美術館は、自治体立美術館としては全国的にかなり早い時期に設立されています。同館が開館したのは昭和29年。これに先行した美術館は、東京府美術館や京都市立美術館などわずかしかありません。市立美術館は当時、西日本では唯一の美術館だったんです。福岡より先行しているとはびっくり。

しかも東京府美術館(現東京都立美術館)は、開館こそ大正15年と早いですが、これは貸会場としての美術館でした。つまり美術品を収蔵するのではなく、エキシビジョンのための施設。同じく京都市美術館も貸会場。美術品を収蔵する美術館は、昭和26開館の神奈川県立近代美術館を待たなくてはなりません。

鹿児島市立美術館はどうかというと、最初から美術品を収蔵してるんです。市立美術館は、美術品を収蔵する美術館としてかなり早い設立!(日本で二番目?) どうして鹿児島には、そんなに早くに美術館ができたのか⁉

キーになったのは黒田清輝の存在。明治の始めに薩摩閥はいろいろな面で近代化をリードしていますが、最初期の西洋画壇の中心となったのが黒田清輝です。

黒田清輝が亡くなったのは、鹿児島市立美術館が開館する30年前の大正13年。

彼の死後、その弟子たちなどが東京で黒田の顕彰のために美術館(黒田記念館)をつくります。ちなみにその建物は黒田の遺産で建設されました。この美術館は現在の東京文化財研究所につながっています。

一方、鹿児島では黒田の顕彰活動をしようという話はあるのですが今一つ具体化しなかったところ、昭和9年頃に当時の岩元市長が美術館設立の検討を始めました。

ここで、ほぼ同じ時期に「歴史館」という施設の設立も検討されます。こちらは比較的スムーズに設立までの動きが進み、昭和14年に開館します。これには藤武さん(鹿児島の有名な豪商)の寄附があったそうです。

黒田の弟子たちは、この歴史館で、当然黒田の顕彰も行われるだろうと期待したのではないか? というのが大山さんの考え。歴史館と美術館をそれぞれ独立して設立するのは費用がかさむので、歴史館に近代洋画史も含めたら合理的だというわけですね。そういえば今の黎明館はその考えで美術品も収蔵されています。

一方、当時、南洲神社の墓地の一角に「教育参考館」というものがあって、そこにあった明治維新の史料が歴史館に移管されることになります。こうなると、歴史館には美術品を展示するスペースがなくなり、結果として歴史館は美術なしになったのではないかと考えられます。というのは、歴史館の開館直前になって、鹿児島にいた黒田の弟子たちが急に顕彰活動を訴え始めているからです。これは「歴史館に黒田清輝の作品が展示されないなら、別に美術館をつくらないと!」という焦りを示唆しているようです。

そしてついに、昭和17年に久米鹿児島市長を会長とする黒田の顕彰会が設立されます。さらに同年、黒田夫人の照子さんが鹿児島市に黒田の作品を寄贈します(この時寄贈されたのが『アトリエ』だと特定したのも大山さんの研究成果!)。照子さんは、有名な作品『湖畔』のモデルとなった人ですが、『アトリエ』の寄贈が黒田清輝顕彰運動の大きな弾みになります。

ここで、照子さんが鹿児島市にこの名画を寄贈したのはなぜ? ということが問題になります。というのは、黒田清輝は鹿児島出身といっても6歳くらいの時に東京に移住しているんですね。ちなみに照子さんも鹿児島出身ではない。にもかかわらず、鹿児島に肩入れしたのはなぜなのか。

そこで黒田清輝の手紙に注目してみると、黒田はお父さん(黒田清綱(養父))には候文で手紙を書いているのですが、お母さんには鹿児島弁を交えて手紙を書いていました。つまり黒田家は鹿児島弁が話されていたらしい。さらには、黒田は高見馬場(鹿児島市の地名)の「高見学舎」にずっと所属しているのです。「学舎(がっしゃ)」というのは、郷中教育を行うグループが明治後に団体として発展したもので、鹿児島県ではいくつかの学舎が活発に活動していました。今でいうと、地元の青年会議所みたいなものでしょうか。これに東京在住の黒田がずっと参加しているわけです。黒田は東京育ちではありますが、間違いなく鹿児島にアイデンティティを感じていたのです。だからこそ照子さんは「鹿児島に黒田の作品を里帰りさせたい」と望んだのでしょう。

ちなみに、黒田の顕彰会の東京側の代表に手を挙げたのが、川内出身の山本実彦です。山本は、『改造』という雑誌で論壇をリードし、また円本(一冊一円の全集類)を生み出した出版業界の風雲児でした。この山本の下で奔走するのが、後に初代の鹿児島市立美術館長となる谷口午二(ごじ)です。このように黒田の顕彰運動=美術館設立運動がにわかに動き出します。

しかし、昭和17年といえば太平洋戦争がもう泥沼になっている時期。美術館の設立の話は当然ながら進みません。鹿児島には大正15年から「南國美術展」という洋画の作品発表の場があり、谷口もこれに関わっていましたが、これが昭和15年の第17回で最後となります。絵の具などの画材も不足し、画家は国家への貢献が審査されて画材が配給されるという翼賛体制になり、自由な芸術は不可能になっていたのでした。ちなみに昭和18年には、黒田の顕彰活動を応援していた藤島武二も亡くなりました。

空襲で鹿児島市街地は灰燼と化し、戦後を迎えます。しかしびっくりするのは、昭和21年に第1回南日本美術展が開催されていること。まだ鹿児島市街地はバラック小屋という時代に、美術展が開催されているのはすごい。

昭和23年、照子さんがまた黒田縁の絵画を鹿児島市に寄贈します。これが黒田の顕彰運動の新規蒔き直しになったものと考えられます。この頃はまだ戦後復興が重要な時期で、美術館どころではないはずなのですが、昭和25年頃には、鹿児島市の勝目市長を中心とし、南日本新聞社など官民が一体となった美術館設立運動が行われました。

ちなみに、空襲で先述の歴史館は焼けていたのですが、外郭は残っていました。美術館は、この歴史館の外郭を使って作られることになります。なので設立当初の鹿児島市立美術館は、旧歴史館と見た目は同じ! これも大山さんの発見でした。改修費用は1000万円の見積もりでしたが市は500万円しか準備できず、県から予算を引き出そうとしますが難航。結局、昭和26年に500万円の予算で着工します(昭和28年に県から300万円の予算がつけられた)。

そして昭和29年が黒田清輝没後30年であったことから、7月に東京で大規模な回顧展が開催されます。そして鹿児島市立美術館は、この回顧展をほとんどそのまま転用して開館記念の黒田清輝展を開催するのです。これは巡回ではなく転用! 「今だったら絶対に許されない」ものだそうです。しかもこの時、黒田清輝の重要な作品がこぞって鹿児島にやってきます。現代ではなかなか外部に貸さない重要文化財や重要美術品が”転用”の展覧会で鹿児島にわんさかやってきたのはなぜなのか? それは、黒田清輝の弟子たちが東京にも鹿児島にもいて、「鹿児島には融通してやらないと」という声がたくさんあったからに違いありません。

こうして開館した鹿児島市立美術館は、(1)開館が早かった、(2)鹿児島にゆかりある画家(特に黒田清輝の弟子筋)が多かった、ということもあり、貴重なコレクションを多数所蔵しているということです。大山さんはこのことを「鹿児島市立美術館は特別待遇されていた」と表現していました。

また、大山さんが強調していたのは「鹿児島市立美術館の設立にあたっては照子さんの力が非常に大きかった。なのに照子さんの功績は忘れられている」ということ。こういう歴史って、意識的に残していかないとすぐ消えてしまうものですよね。

ところで、戦後復興もまだ進んでいない時期に美術館を設立することに対して、市民はどんな感情を抱いていたんでしょうか? 

大山さんによると「当時の新聞を見ていると、”文化国家”という言葉が頻繁に出てくる。日本は戦争に負けたから、これからは”文化国家”でいかないとダメだ、という気持ちが非常に強かったようだ。美術館設立運動は、官民挙げての運動で、ちょっとプロパガンダ的なところもあるので、実際は反対があったとしても新聞には全然書いていないし、”文化国家”へ異論を唱えづらい雰囲気もあったのかもしれない。しかし当時の人は生活もままならない中なのに、芸術に飢えていたというのも確かで、美術館ができるまでの熱気は本物。例えば、昭和22年に松方コレクションが鹿児島にきて展覧会があるんだけど、これには九州中から人が来て、なんと10万人来たらしい。当時の鹿児島市の人口が24万人。ひもじい思いをしても芸術に触れたいという人がたくさんいたからこそ、政財界の人や画家が美術館設立運動を展開できたのだと思う」とのことでした。

明治維新後の薩摩閥のおかげで画壇の重鎮には鹿児島の人が多く、それで美術館が早く設立されたのだろうと単純に思っていましたが、やっぱり一般の人たちも芸術を求める気持ちがあったからこそ美術館が早くにできたんですね。

ところで、私の先祖(曾祖母)が昭和29年の先述の黒田清輝展に行って、黒田のデッサンのレプリカを買っています。そしてその足で画材屋に行って額装した、と聞いています。つまりその時、すでに鹿児島市には画材屋があるんです。ということは、鹿児島市では昭和29年当時に、画材屋が経営していけるだけの需要があったことになります。そういえば鹿児島市って、人口規模の割には妙に画材屋が多い街だったような気もします。なんだか、今の鹿児島って芸術に疎い感じがしますが、元々は割と芸術への感受性が高かったのかもしれません。

講演ではこのほか、鹿児島市立美術館の目玉収蔵品の紹介もありましたがここでは割愛します。また、このメモでは省略した、設立運動の中で活躍した黒田清輝に連なる人たちの話なども興味深かったです。詳しく知りたい方は大山さんが書いた本『鹿児島市立美術館ができるまで』をご参照ください。

2025年5月12日月曜日

第18回そらまどアカデミア「絵を描くこと」を開催します!

6月15日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回登壇してくださるのは、日置市吹上町の野首(のくび)の画家、佳月優(かづき・ゆう)さんです。

佳月さんは廃校になった野首小学校の校舎を「Gallery 野月舎(やがっしゃ)」として、絵画教室を主宰されています。ここは、街の中心部からは離れたところにあり、「そらまど」と似たような奥まった場所です。

【参考】Gallery 野月舎
https://yagassya.my.canva.site/

そういう奥まった場所で静かに絵を描いている佳月さんですが、2006年までは日展会員・審査員等の要職にあったそうです。私は芸術の世界に疎いですが、日展会員というのは日展に無審査で作品を展示できる特別な立場。日展で入賞することだけでもすごいのに、その審査員というのは、いわゆる業界の「権威」です。

佳月さんは、そういう「権威」に自ら別れを告げた方なんです。なんだか、田中一村みたいですよね。

詳しい話を聞いたことはありませんが、佳月さんがこんな田舎で絵を描いているのは、「業界」と距離を取って素直に芸術の道を歩みたかったからではないかと想像しています。

そんな佳月優さんに、人はなぜ絵を描くのか、人はなぜ美しいと感じるのか、といった根源的な話を語っていただきます。これはめったに聞けない講演になりそうです。

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第18回 そらまどアカデミア

絵を描くこと

講 師:佳月 優

人はなぜ絵を描くのか、人は絵を鑑賞しなぜ美しいと感じるのか、美しいと感じるのは何かの理由があるのか、多くの人々が芸術を求めるのはなぜなのか。芸術に携わった 45 年間の短時間の経験の中で感じたもの、また、一般にはあまり知られていない美術の専門的な分野などをなるべく分かりやすく話せれば思います。

日 時:6月15日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
独学 日展特選2受賞、審査員など、
現在は、上海万博など、海外のイベント等に招待出品
無所属

 


2025年4月30日水曜日

第16回そらまどアカデミア「筆で線を書くのが好き」のゆくえ


 第16回そらまどアカデミア開催しました。

今回の講演は、元々は4月13日に開催予定でした。ところが主催者(私たち)の一身上の都合で、急遽直前に延期し27日に再設定しました。そのため、13日に申し込まれていた方の多くが参加できなくなりました。大変申し訳ありませんでした。この場を借りて改めてお詫びいたします。

講演していただいたのはYoko Wataseさん。フランスで書家として活躍されている方です。講演は、まず作品の制作過程を語った動画から始まりました。

講演の内容は、Yoko Wataseさんの作品を少しでも見たことがないとピンとこないものだったと思います。それは、Yokoさんは「書家/美術家」を名乗っていますが、Yokoさんの作品は普通の書道の作品とは全く違うものだからです。この動画で、その片鱗が窺えるのではないかと思います。

Yokoさんはどうしてこういう「コンテンポラリー作品」を作るようになったのでしょうか。

Yokoさんが書道を始めたのは7歳の時。テレビか何かで書の作品を見て「かっこいい!」と思ったことがきっかけだそうです。ちなみにYokoさんはそらまどがある大浦町の出身。当時、「日本習字」の教室が干拓(地元地名)であって、半年お願いして通わせてもらうことになります。ところが、この教室は2週間で辞めたくなってしまった! それは、お母さまがYokoさんを「ピアノの発表会にでも行くような格好」で教室に行かせて、その恰好をからかわれたから…! しかし幼心に「半年もお願いしていかせてもらったのに、すぐ辞めたいとか言えない…」というわけで続けることになります。ここで辞めてたら人生変わってましたね。

Yokoさんは、「字を書くのが好き」ではなく、「筆で線を書くのが好き」と一貫して言っています。それは、この教室の時に縦や横の線を書く練習があり、先生が「習字の基礎がこの線の練習に詰まっている」とおっしゃったことがきっかけだそうです。

ちなみに、Yokoさんは子供の頃、なかなか自分の気持ちを言葉で伝えられなかったそうです。「頭の中ではいろいろ考えているのにそれがなかなか言葉にならない」という鬱屈した気持ちが、書道と結びついて後の創作につながったのかもしれない、とYokoさんは言います。

Yokoさんは中学生の時に「日本習字」で師範を取って、純心高校に進学。書道部に所属します。ここのレベルがすごく高く、書道漬けの生活を送ります。「私も地元では字がうまいと言われていたけど、純心は県知事賞とか取るような子たちがウヨウヨいるところだった」。書道部なのに朝練や昼練、合宿もあるような部活生活だったそうです。すごい!

しかし、Yokoさんは大学進学では書道を選びませんでした。「書道の世界はピラミッド社会だし、すごく男性社会だった」から。進学したのは系列校である長崎純心大の比較文化学科。ここで第二外国語としてフランス語を選択。面白いのが寮で同室の女の子がドイツに一年留学していて、「この子がドイツなら私はフランスかな」ということでフランス語を選択したそう。私なら絶対「この子からドイツ語教えてもらえるからドイツ語にしよう」と思うところです。このあたりがYokoさんならではの発想かもしれません。

そして、英語以外の言語は、使える人が少ないから仕事にもつながりやすいということで、本格的に勉強したいと思い始め、21歳の時にマルセイユの隣のトゥーロンという街でホームステイします。しかしホームステイ程度ではフランス語は上達しないことを逆に痛感し、大学卒業後の1999年、フランス語の習得を決意してフランスのアンジェという街にあるアンジェ・カトリック大学に留学します。

同大学の卒業後は、日本に帰ってフランス語の教員になるか、逆にフランスで日本語の教員になるといった道も考えたそうですが、ちょうど「フランスで3週間の通訳アルバイトをやってみない?」と誘われてやったその仕事を、結果的に15年続けることになります。いやあ、人生ってわからないものですね。

その仕事の内容は、フラワーアレンジメントの学校の日仏通訳。ここは、生け花のようなものではなくて、教会や店舗の装飾といった、もう少し大規模な花の装飾を手掛けるところでした。ここで通訳をするうち、構造・テクスチャ―・配置などがちゃんとした理論に基づいていることを学び、「美しいものには理由がある」ことがわかったそうです。「感性」ではなく「理論」を学んだんですね。

この仕事をしながら、翻訳や別の通訳の仕事もたくさん手掛けます。そんな中、高校時代の書の作品を飾っていたのを見た人からの「書道も教えられるんじゃない?」という一言がきっかけとなり、気軽な気持ちで生徒を募集したところ、12人集まって教室がスタート。自然と自身の創作活動も行うようになりました。

しかし翻訳・通訳の仕事と書道を両立するのが大変になっていきます。翻訳・通訳のためは、様々な分野の専門用語をその都度学ぶ必要があるからです。でも日本からフランスにまで来て何かをやろうという人は情熱のある人ばかりで、そういう人たちと仕事できたことはよい人生経験だったとか。しかし結局、翻訳・通訳の仕事を全て辞めて書道に専念することになりました。それが10年前だそうです。

では、Yokoさんはどんな作品を創るようになったのか。書道というと、白い紙に墨で字が書いている、というのをイメージしますが、現在のYokoさんの中心的な創作である「コンテンポラリー作品」は、ちょっと違います。

まず「フラワーアレンジメントで学んだ理論から、作品が自然と立体的になっていった」そう。書道なのに立体的! 壁に平面的な作品を張り付けるのではなく、会場と調和するように立体的に作品を配置していきます。そして、パリッとした白い和紙……ではない、テクスチャーにこだわった画面が作品の特徴にもなっています。あえてデコボコした面をつくったり、墨で塗った紙の上に白い紙を重ねて灰色にしたり、あるいは多くの紙を屏風状に連ねたり、そしてそれらの紙はカットするのではなく手でちぎって成形したり……。さらに、反復が多用されていることも特徴。Yokoさんは反復の多用を「無限への志向」だと言います。

……じゃあ肝心の字はどうなってるの? と思いますよね。

これに関し、講演の中でYokoさんが面白いことを言っていました。紙に字を書いてそのままだと「文字を読みたくなるので」、「その上にもう一枚紙を重ねています」と言ってたんです。えっ? 「文字って読むために書くんじゃないの⁉」って思いませんか? ただ、これに文字を読めなくする意図はなく、「言葉を「奥に持っていく」「過去や思い出の中の景色に委ねる」ために、上から紙をかぶせた」そう。

また、Yokoさんがこれまでの中で一番気に入っている「壁抜け」という作品。これは、帯状に切った紙に文字を書いて、それを縒り合わせて作られていますが、縒り合わせる過程で当然文字は読めなくなります。というか、もはやそこに文字があったことさえ、わからない。

つまりYokoさんの作品では、文字は読まれることよりも、文字を紡ぐという行為を通じて世界観を表現することに重点が置かれています。これは、「達筆すぎて読めない」という書道あるあるではありません。読まれる前提ではなく、文字が「解体」されて再構成されているのです。デリダの概念を使えば「文字の脱構築〈déconstruction〉」というべきでしょう。

…と私は理解しましたが、Yokoさんには「文字を解体しよう」というつもりは全くないみたいです(笑) 。ただ、文字自体が主役ではないのは確か。

ちなみに、作品のテキスト(文字)はYokoさん自身が書いた詩。わざわざ詩を書いているのに、それを解体して読めなくするって、なんか不思議だなと思いました(作品によっては必ずしも読めなくなるわけではないですが)。読める読めないは関係なく、やっぱり詩は必要!!

でも、どうせ読めなくなるなら「最初から字じゃない線を書いたら?」と思って質問してみたのですが、「その質問予想してました! 字じゃないと線の表現がうまくできないんです」とのこと。たしかに「線」だけだとあまりに抽象度が高くてかえって表現しづらいかも。文字って数千年かけて培われた線表現の凝縮ですもんね。表情のある線を生み出すために文字の力を借りているのがYoko作品なのかも? 文字のために線があるのではなく、線のために文字がある!

今後の活動について、Yokoさんは「ただ作るのみ」と言ってました。そして、これまでは規則正しい生活の中で徐々に作品を創っていくというタイプの活動がメインだったそうですが、これからは「アーティスト・イン・レジデンス」で一気に仕上げるタイプの創作も取り組んでみたいとのことです。

「アーティスト・イン・レジデンス」とは、最近日本でもよく言われる「どこかに滞在して集中して2週間くらいで作品をつくる」みたいなやり方。戦前の文豪は温泉宿に逗留して作品を書いてますが、あれと一緒ですね。

Yokoさんは現在、2年間限定で日本に滞在していますが、これも一種の「逗留創作(アーティスト・イン・レジデンス)」かもしれません。そんな日本滞在ももうそろそろ終わりです。フランスに帰ったら、日本での経験も作品に昇華されることでしょう。「そらまど」での講演も作品につながる経験になっていたらいいのですが。これからYokoさんがどんな「線」を生み出すのか楽しみです。

2025年4月10日木曜日

第17回そらまどアカデミア「鹿児島市立美術館 開館までと現在」を開催します!


5月11日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回は、鹿児島市立美術館の前館長である大山直幸さんに、鹿児島市立美術館の設立と美術館の役割について話していただきます。

鹿児島では最近、「県立美術館を設立すべきだ」という運動があります。県立(府立)美術館がないのは、大阪・京都・三重・奈良・鳥取・香川・鹿児島しかないらしいです。でも京都・奈良は国立の美術館・博物館が充実しているから県立美術館がないんでしょうし、ないからといって直ちに問題があるとも限りません。ただ、「全国的には県立美術館がないのは少数派」というのは事実です。

でも、鹿児島には県立の「霧島アートの森」もありますし、実は「黎明館」も「鹿児島県歴史・美術センター黎明館」と正式名称に「美術」が入りました(2020年)。多くの美術・工芸品を収蔵しているからだそうです。「こういう施設があるんだから県立美術館的な機能はすでにある」というのが県の言い分のようです。

一方で、県立美術館の設立を求めるグループは、こうした県の主張に対し、県民の作品の発表に使える場が足りないとか、大規模な展覧会が開催しづらいといった事情を訴えています。

こうした声に対しては「市立美術館があるじゃないか」というのがずっと言われてきました。確かに市立美術館があるから、というのが県立美術館がない一番大きな理由だと思います。実際、大阪も市立美術館があって府立美術館はないのはそういう事情でしょうね。

そして実は、鹿児島市立美術館は、全国の美術館の中ではかなり早い時期に設立されているのです。鹿児島に県立美術館がないと聞くと、鹿児島は美術に冷淡な土地なんだろうと思いがちですが、実際は逆で、いち早く美術館が作られた土地なんです!

鹿児島市立美術館が開館したのは戦後間もない昭和29年。これに先行した(国立以外の)美術館は、 京都市立美術館、大阪市立美術館、神奈川県立近代美術館、市立神戸美術館(現存せず)くらいだそうです。空襲で市街地が焼け野原になってしまった鹿児島が、戦後9年にしてこれらの都市と並んで美術館をつくるとはただ事ではありません。そして鹿児島市立美術館が開館した当時は「西日本唯一」の美術館だと謳われました。九州では、福岡より先に鹿児島に美術館ができたわけです。すごいと思いませんか?!

ではなぜ鹿児島市は、全国の自治体にさきがけて美術館を開館することができたのでしょうか? そして「美術館がある街」だったことは、鹿児島にどのような影響を与えたのでしょうか?  そこには、今後の鹿児島の発展のヒントとなることも含まれているかもしれません。

こんなお話ししていただく大山直幸さんは、先述の通り鹿児島市立美術館の前館長ですが、ただの館長ではありませんでした。昨年、鹿児島市立美術館が開館70周年だった時に、市立美術館の仕事とは別に個人で『鹿児島市立美術館ができるまで』という本を刊行しており、市立美術館の歴史に最も精通された方。そして幼少の頃は、鹿児島で創作を続けた鯨津(ときつ)政男さんに8年間絵の指導も受けていたとのこと。美術館に対する想いはひとしおです。

みなさんも、鹿児島の美術館について考えてみませんか?

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第17回 そらまどアカデミア

鹿児島市立美術館 開館までと現在

講 師:大山 直幸

鹿児島市立美術館は、30年間の開設運動を経て70年前に西日本では唯一の美術館として開館した。開館までの関係者の苦労を振り返り、なぜ早期に開設されたかを明らかにするとともに、現在所蔵する作品にもふれながら、美術館の役割や収集方針を紹介する。

日 時:5月11日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
京都大学理学部卒業、鹿児島市経済局長、船舶局長。平成28年4月から6年間鹿児島市立美術館長。著書に「あまみの森でケンムンにだまされた」( 令和2年度県立図書館推薦図書 )、「橋口五葉の中学校時代を中心に」、「鹿児島市立美術館ができるまで」

2025年3月11日火曜日

第16回そらまどアカデミア「フランスでアーティストとして生きる、これまでと、これからのこと」を開催します!


4月13日27日(日)そらまどアカデミア開催します。

今回は、フランスで活躍する書家のYoko Wataseさんにご登場いただきます。

"フランスで書家"というのが、まずビックリですよね! 

そして冒頭の作品をご覧ください。これが書……!? と感じる方もいると思いますが、すごくステキじゃないですか? 

これが全体像です(たぶん)。

うーん、すばらしい。石川九楊(きゅうよう)さんという有名な書家がいますが、石川九楊さんの『歎異抄』(←すごく有名な作品なのでググってみてください)を見て以来のトキメキを感じました。

その他の作品も、Yoko WataseさんのWEBサイトで見てみてください。

【参考】Yoko Watase 
https://yokowatase.com/

しかし、Yokoさん、書家になろうとしてフランスに渡ったのではなく(←当然です!)、不思議な巡り合わせから書の世界で生きるようになったのだそうです。講演では、どうしてフランスで書家になったのかを糸口として、創作について語っていただきます。

そして実は、Yokoさんの個展も同時期に開催されます。頴娃の「ギャラリー蛇足」にて、4月1〜20日で個展が予定されているのです。ぜひあわせてご観覧ください。


会期:2025/4/1(火)〜20(日)
時間:日・火 14:00 - 17:00/土 19:00 - 22:00
会場:ギャラリー蛇足(南九州市頴娃町上別府2196−2)
観覧無料
https://www.gallerydasoku.com/gallery/exhibition_whats-on#h.ui5edela5kft

さて、それではフランスで書家のYokoさんが、どうしてそらまどアカデミアでお話ししてくれるのかというと…

実は、Yokoさんのご実家とそらまどがとっても近いんです! というか、私(南薩の田舎暮らし/そらまど 窪)の農業用倉庫から、ご実家が見える位置にあります。もちろんお父様とお母様もよく知っています。 

そしてYokoさんは、パートナーとともに現在2年間の限定で帰国中。こんな機会は文字通りめったにないので、「あんまり話は得意じゃないから」と渋るYokoさんに懇願して今回の講演が実現しました。

ちなみに、パートナーのジルダさんは、日本滞在中のことをマメにブログに書いています。うちの近所が舞台になっているのに、写真の切り取り方がとても上手くて、何か別のステキな場所について書いてあるみたいなブログです。

【参考】Minami mitai(南みたい)
https://minamimitai.fr/

ちなみに先日、Yokoさんのフランスでの習字教室の生徒さんとオンラインで交流する機会があったのですが、フランスでは日本文化に興味が持たれているんだなということを強く感じました。特に12歳くらいの男の子が「好きな日本のマンガは『呪術廻戦』」と言っていたのにはびっくりしましたね。翻訳が早い!

そんな、フランスにおける日本文化やアートについての話も聞けるんじゃないかと思っています。ぜひご参加下さい。

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第16回 そらまどアカデミア

フランスでアーティストとして生きる、これまでと、これからのこと

講 師:Yoko Watase

フランスで 15 年続けた通訳・翻訳の仕事が導いてくれたのは、驚くことに創作の世界だった。
幼少期から親しんできた筆・墨・紙を使い、フランスで新しい「線」世界を生み出すための、これまでとこれからの挑戦を語る。

日 時4月13日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
→延期(再調整)4月27日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
南さつま市大浦町出身。7歳から書道を始める。1999年に語学留学のため渡仏。日仏語翻訳・通訳の仕事を経て、10年前より創作活動に専念。以来、個展を通して作品を発表し続けている。www.yokowatase.com

2024年11月18日月曜日

第15回そらまどアカデミア開催しました。「台湾華語」を話す島、台湾


第15回そらまどアカデミア開催しました。

今回の講演は、なんだか申し込みが少なかったのです。「台湾に興味ある人少ないの?」と思っていたのですが、南日本新聞にお知らせを出したところ、新聞社の方から「タイトルが読めないんですけど…?」と言われてハタと気づきました。

今回のタイトルは「你好臺灣, 空尼機挖ジャパン」。「ジャパン」以外ほぼ読めない…⁉

「臺灣」をタイワンと読めない方も多かったようです。せめて「台湾」と書いておけばよかった。「空尼機挖」は、台湾の漢字の発音で「コンニチハ」を当て字にした言葉遊びでしたが、ちょっと凝りすぎましたね…!

というわけで申し込みは少なかったのですが、講師の張さんの知り合いが何人も来てくださって、その中には台湾人の方も2名いました。ありがたかったです!

講師の張 巧瑩(チョウ・コウエイ、愛称あきら)さんは、台湾の高雄市出身。南台科技大学で日本語を学び、指宿で就職。今年夏から南さつま市役所の国際交流員として働いています。この度、南さつま市では台湾の旗津区(キシン区)というところと姉妹都市協定を締結することとしており、その架け橋になっているのが張さんです。

台湾は九州とほぼ同じ面積で、九州の人口より約1000万人多い2300万人が住んでおり、しかも人口の多くが島の西部に集中しているため、とても人口密度が高いんだそうです。そんな中で、旗津区はたった1.46㎢の面積に2.8万人の人が住んでいます。ちなみに南さつま市の面積は283㎢、人口は3.1万人。人口密度は100倍以上の開きがあります!

そんな旗津区は、なんとすっごく細長い島なんです(本来は半島だが現在は分離されている)。こんなところに2.8万人も住んでるなんて面白いですね。人口島ではなく自然の地形のようですよ。

ちなみに旗津区と南さつま市が姉妹都市を目指しているのは、サンドアート(砂の祭典)のご縁があったからだそう(ただし、旗津区では現在サンドアートのイベントは行われていないとか)。

今後、旗津区と南さつま市にどんな交流が行われるのか、張さんの今後の活躍が楽しみです。

さて、張さんは、大学時代から14年間日本語を学び続けてきました。張さんの日本語力は「日本語能力試験(JLPT)」のN1級。これは同試験における最上級で、張さんはちょっと話した感じだと日本人と見分けがつかないくらいです。

そんな張さんでも日本語はとても難しいらしく、「適当にしゃべってます!」と笑っていました。

日本語の難しさとは、まず同じ漢字でも読み方がいくつもあること。例えば「今日は一月一日、日曜日。明日から日下部さんと五日間の旅行はよい日和だそうだ」という文の「日」の読み方はそれぞれ違います。「日曜日」なんて「にち」と「び」で一つの単語の中で2つの読み方をしています。

この文はちょっと特殊な読み方の「日」ばかりが意図的に入ってますが、「祝日(ジツ)」「日(ニッ)蝕」なんかは普通の読み方ですけど、こういうのもいちいち覚えないといけないのは外国人にとっては大変です。「日本」には「二ホン」と「ニッポン」という二つの読みがあっても、「ニポン」とは言えないとか(笑)。まあ、漢字の読みは日本人でも難しいですけどね。

次に謙譲語や尊敬語の使い分け、助詞の使い方、一人称の異常な多様さ(俺、僕、私、わし…)、こうしたことにしょっちゅう困惑しているとのことでした。その上、鹿児島では鹿児島弁があるので、方言がきつい人の話は「半分くらいしかわからない」とのこと。張さん、安心してください。鹿児島生まれ、鹿児島育ちの私でもそうです!!(笑)

一方、台湾の言葉もなかなか複雑です。というか、すごく複雑です!

そもそも、台湾は多民族国家です。国家らしいものがなかった原住民の時代、中国の沿岸部(泉州、福州)などから華僑の人たちが入植してきました。そして大航海時代にはオランダ人が台湾にゼーランディア城を築いて植民地化します。これを打倒したのが明の遺臣だった鄭成功(人形浄瑠璃『国性爺合戦』の主人公ですよね)。その後清朝が台湾を支配し、中国人の入植にともなって原住民は台湾西部の山岳地帯へと追いやられていきました。その後いろいろあって明治時代に日本が台湾を植民地化します。この「台湾出兵」で大将を務めたのが鹿児島出身の樺山資紀(かばやま・すけのり)で、樺山は初代の台湾総督となりました。戦後、台湾は日本の支配を離れますが、中国共産党との戦いに敗れた中華民国が台湾に逃れ、現在の台湾の政権となりました。

このような歴史があるため、台湾は様々な民族と文化が複合した国となりました。では、他民族国家である台湾の言葉はどうなっているか。

台湾では、「台語(台湾語)」=古い時代に台湾に入植した人々により話されていた言葉をベースとして日本語などが取り入れられた現地語、「客家語」=客家(ハッカ:漢民族の一派)の言葉、「原住民語」といった言葉が話されています。つまり台湾は多言語国家でもあるのです。そして、その共通語となっているのが「台湾華語」です。

この多民族国家の共通語「台湾華語」は、どのように形成されたものなのでしょうか。

まず、「華語」というものがありました。これは中国はもちろん、シンガポールやマレーシアなど東南アジア各地に広がっていった華僑の人たちが使っていた中国語です。かつて東アジア海域の共通語(リンガ・フランカ)であったのが「華語」です。

そして、台湾が独立した時に、多言語国家の「国語」として設定したのがこの「華語」でした。台湾政府は国語辞典を制作して「国語」を定め、ある時期には方言禁止運動を行って、学校で方言をしゃべったら罰金を払うというような政策を行っていたこともあります。鹿児島でも60年ほど前、方言撲滅のために「方言札(私は方言をつかいました、という首から下げる札)」を使っていた時期がありますが同じですね。

このようにして「国語」の普及に取り組んだ結果もあり、今では台湾全土の人が台湾華語を使うことができるようになっています。では、台湾華語は中国語とは違うのか。

ここでいう中国語は、中華人民共和国政府が「普通話」として定めている言葉ですが、台湾華語と中国語は問題なく意思疎通できるものの、やっぱり違うもの。その違いについて張さんは「イギリス英語とアメリカ英語みたいなもの」とおっしゃっていました。

そもそも「普通話」は、中国政府が人為的に設定した部分も大きく、例えば漢字を「簡体字」という簡易化したものに変えてしまいました。

一方で台湾華語は、頑なに画数の多い漢字を守り続けています(だから臺灣が読めなかった!(笑))。そうかと思えば、積極的に外来語を取り入れているという側面もあるそうです。特に日本統治時代の名残として日本語由来の単語も入っており、たくさんの例が示されていましたが、中でも面白かったのが「巴庫味阿(バクミア)」。何かと思ったら「バックミラー」だそうです。これは中国では通じないですね、きっと。

……というのが台湾華語ですが、面白いのが「台湾華語」というようになったのはせいぜい15~20年前からに過ぎない、ということです。じゃあ、なんで最近になって自分たちの言葉を「台湾華語」と呼ぶようになったのか、というと、それには対外的な意図がありました。つまり、自分たちの言葉を「中国語」ではなく、「台湾華語」として世界に認識してもらいたい、という願いが込められているのだそうです。

このような話をきいていると、私は「言語は、極めて政治的なものである」ということ改めて感じずにはいられませんでした。

ドーデの『最後の授業』(フランスのアルザス地方がドイツに占領されたことでフランス語が禁止される話)に象徴されるように、支配者が被支配者の言葉を奪ってしまうことはよくあります。方言禁止運動もその一つですね。

それは、少数民族や地方の人たちを単にいじめているのではなく、言語の統一が国家のアイデンティティの確立につながるという重要な側面があるからです。しかし台湾でも、現在では方言禁止運動が反省され、全ての言語は等しく価値があるという、多様性を認める方針へとなっています。そんな時代に「台湾華語」という呼称が改めて設定され、対外的に推進されているのは、「中国語」に対抗しようという意図があるようです。

「中国語と台湾華語」を「イギリス英語とアメリカ英語」のような対等な関係に擬(なぞら)えることも、台湾の言葉の国際的な重要性を大きく引き上げようとする意志の現れなんでしょうね。

ところで話が変わるようですが、香港では、中国への返還後、民主的なものが弾圧される状況になっているのはご承知の通りです。そこで香港では、広東語を大事にすることによって精神的独立を保とうとする運動があると聞きます。言語は権力に対抗する武器にもなるということです。

民族・国家・文化の根幹には言語があります。言葉は、共同体を他と区別する最大の標識です。しかもこれは、肌や髪の色と違って、自分たちの意思で変えていくことが可能です。台湾のみなさんは、自分たちがなりたい国になるために、あるいは「台湾」を世界に認識してもらうために、「台湾華語」を大事にしているのかなと感じました。

台湾には、なんと子供向けの「発音矯正塾」があるそうです。これは昔の方言禁止運動の名残かもしれませんが、同時に言葉を大事にする姿勢の現れなのかもしれません。

ところで最後に面白い話を一つ。先述の通り、張さんは台湾の高雄(たかお)市のご出身ですが、なんで「高雄」は訓読みなんだろうと疑問に思っていました。日本語で読むときは、台湾でも中国でも、地名は音読みなのが普通ですよね? と思って張さんに聞いたところ、張さんはご存じなかったのですが、参加された台湾人の方が教えてくれました。

それによると、高雄のもともとの地名は「打狗(ダァカオ)」だったそうです。それが、日本統治時代に、この字面がよくないということで日本人が「高雄」に変えました。だから「タカオ」の方が元の地名の発音に近く、「コウユウ」では全然異なってしまいます。そんなわけで、高雄は、日本語では訓読みにするのが正解なのです! 台湾は日本統治時代を否定するでもなく、フラットに捉えて活かしているのがたくましいというか、大人だなと思います。

なお、台湾華語の位置づけについての話は、講演でよくわからなかったため、上記のメモでは講演後に教えてもらったことも加えて書きました。また、言語に政治的な意味合いを見るのはあくまでも私の個人的な見解で、講演では「台湾にある間違った日本語の面白い看板」など楽しい話が中心でした。こういう楽しい話はぜひ実際の講演で聞いていただければと思います(うちの子が大笑いしていました)。

そらまどは辺鄙なところにありますが、台湾よりは近いのでぜひお気軽にお越しください。