第24回そらまどアカデミア開催しました。
今回は、「九州南部の南北朝内乱 ―南方国人の動向を中心に―」という演題で新名一仁先生にご講演いただきました。
鹿児島で歴史の講演だと戦国島津と幕末の人気がありますが、南北朝はほとんど開催自体がないんです。うちでは、「お客さんは来ないかもしれないけど、他ではやらない南北朝を取り上げよう!」と思って設定しました。ところが! 告知を開始したら1週間もしないうちに定員満員の申し込みがあったんです。これには驚きました。
新名先生も「南北朝期の講演の依頼を受けて驚きました」とのこと。やはり南北朝期は「複雑怪奇で難しい」ので需要が少ないのが現状だとか。
講演前に配られた資料もすごい情報量でした。さすが複雑怪奇なだけあります。大学の90分講義2回分くらいの分量で、これを2時間で話せるのだろうかと心配しましたがキッチリ終わりました。というわけで、とてもその全貌はここにはまとめられないので、雰囲気だけお伝えしたいと思います。
そもそも南北朝内乱とは、鎌倉時代に天皇家が2つの系統に分かれてしまったことから始まります。後嵯峨天皇がその息子二人のそれぞれを天皇にしたことが原因で、皇統が「持明院党」と「大覚寺党」に分かれます。鎌倉時代後半になるとこの2つの系統の争いが始まり、それを鎌倉幕府が調停して「両統迭立(てつりつ)」となります。それぞれの系統から交互に天皇を出すという取り決めです。ところが後醍醐天皇はどうしても息子に皇位を継がせようと反乱を起こし、最終的に鎌倉幕府を滅ぼすことになります。
その後、後醍醐天皇が始めた建武の新政はすぐ瓦解しますが、後醍醐天皇は三種の神器を幕府に渡しておとなしく従ったようにみせかけながら「実はその三種の神器はニセモノだ!」と奈良南部の吉野に逃げて「こっちが正統な皇統だ!」と主張。これが南朝になります。一方室町幕府は三種の神器がないままで天皇を即位させて北朝がスタート。ここから全国を巻き込んだ南北朝の動乱になっていくのです。
南北朝期は3つに分けられ、
Ⅰ期が「鎌倉幕府滅亡(1333)〜懐良親王の下向(1340年代)」
Ⅱ期が「観応の擾乱(1350年代)〜征西将軍府勢力の全盛期(1360年代)」
Ⅲ期が「今川了俊の九州探題抜擢(1370)〜了俊の探題解任(1396)」
だそうです。しかし今回は時間が限られていることと、今川了俊以降は現在研究がどんどん進みつつあり話がしづらいということで、Ⅰ期とⅡ期に限ったお話でした。
新名先生によれば、この時代ですごく大事なのは「軍功認定のシステム」です。戦いに参加してその功績が認められて、恩賞として土地がもらえる、という仕組みですね。南北朝時代には、これが文書で丁寧に行われました。
具体的には、まずトップから軍勢が催促されます。それを受けた守護は戦いに参加するよう地頭御家人に動員をかけます。地頭御家人は戦いの現場につくと「到着しました」という文書を出し、守護はそれにちゃんとサインをします。戦いが行われると、どのような被害があったか、傷を受けた場所、倒した敵など事細かに報告し(軍忠状)、これにも守護が「承了(うけたまわりおわんぬ)」などとサインします。これを受け、動員された方は「感状」というものを申請します。これは功績を認めるという文書です。そしてこれが発給されると、これを根拠に恩賞として所領が認められる、という仕組みです。ポイントは、全て文書でやりとりされるということと、守護→探題→将軍と取り次いで、最高権力者の将軍の決裁まで必要とするということです。
この文書は土地の所有権を主張する根本資料になるので、各家では厳重に保管されました。なので軍忠状が(家が断絶していなければ)よく残っており、戦国期よりも南北朝期の方が合戦の詳細がよくわかるのだそうです。
ともかく、土地の権利を得るのにいちいち最高権力者の決裁を必要とするという面倒で時間がかかる仕組みがあったことが、後々歴史を動かすエネルギー(?)になります。今でいうと、土地の登記をするのに各地の法務局に行くだけでは済まず、内閣総理大臣の印鑑が必要という感じですね。南北朝期は現代以上に文書でのやりとりが必要な中央集権の時代かもしれません。
それではⅠ期の説明に入ります。
鎌倉幕府に反乱を起こした後醍醐天皇は一度は隠岐に流されますが脱出して挙兵します。それに従ったのが足利高氏。高氏は九州の島津貞久や大友貞宗に挙兵を促しました。高氏が貞久に言ったのが「大隅国の守護を与えるから」という誘い文句。元々島津氏は薩摩・大隅・日向三か国の守護でしたが、この時代には薩摩国だけになっていました。その後、貞久らは鎮西探題(大宰府)を落とし、高氏も全国を平定して後醍醐天皇の「建武の新政」が始まります。
建武の新政では実際に島津貞久は大隅国守護にもなりますが、日向・大隅は鎌倉時代には執権北条家が治めていた地域だったので、この地域の勢力は貞久の支配に抵抗します。後醍醐天皇は追って貞久を日向国守護にも任じ、貞久は薩隅日三か国の守護職を手に入れますが、これは多分に名目的な感じです。それどころか、薩摩半島に限っても貞久が地頭職を持っているのは限定的でした。
ところが「中先代の乱」がおこって、建武の新政はわずか2年で瓦解します。足利尊氏(→後醍醐天皇(尊仁)から一字もらって高氏から改名)とその弟の直義が後醍醐天皇から離反した戦いです。後醍醐天皇は「尊氏・直義を討て!」と全国に命令を下しますが、これに呼応したのが日向・大隅の勢力(肝付兼重・伊東祐広)。旧北条家支配下の人たちは足利氏に反発を感じていたのでこの時は後醍醐天皇に従ったわけです。
一方、貞久は尊氏について戦いますが、尊氏は京を追われて九州に落ち延びます。尊氏は島津・少弐・大友とともに、建武政権方(後醍醐方)の菊池氏を撃破。息を吹き返して九州から京へ再び攻め込みます。その際、尊氏は島津貞久を薩摩に、足利一門の畠山直顕を日向に下向させます。さらに貞久は、川辺郡などと大隅国も与えられます。実際は大隅国は肝付兼重が支配しているので、尊氏は兼重を抑えるため貞久と畠山直顕を配置したということになります。
ここで、敵方の後醍醐天皇は三条泰季(やすすえ)という公家を薩摩に下向させます。この人物は「ほとんど知られていない謎の人物なのですがすごく重要」だそうです。薩摩半島南部には、伊集院忠国・谷山隆信・鮫島蓮道などが蟠踞しており、彼らが三条泰季にまとめられて「守護町(川内の碇山城付近?)」を襲います。これが「南方(みなみかた)国人(こくじん)」の初めての軍事行動でした。国人とは地頭御家人、郡司など在地武士の呼称です。
実は南薩は、地頭や郡司が揉めていた地域でした。つまり島津氏の支配権が及ばずゴタゴタしていました。ここに三条泰季が現れて新たな権威が出現したので、南薩の郡司系の土着勢力はこの味方になった方が得だと思ったようです。こうして南薩はほぼ南朝方(後醍醐天皇の味方)になり、伊作、市来、伊集院、給黎(きいれ)、そして碇山城と立て続けに戦いが起こります。
しかし貞久はこれをなんとか抑えて東福寺城(鹿児島市清水町)を落とし、鹿児島を手に入れます。というか、この時まで島津氏は鹿児島も支配できてなかったわけです。そしてこの東福寺城が大隅攻略の拠点となります。島津氏にとって、実効支配できていない大隅をちゃんと支配下に置くことが大きな課題でした。島津氏は谷山・阿多・加世田などを攻め落として南薩地域を徐々に支配します。
このように南方国人が弱体化しつつあった時期、懐良親王が征西将軍として薩摩に上陸します。後醍醐天皇は各地に皇子を派遣して戦わせるのですが、懐良親王もその一人です。そして南方国人は「貴種」である懐良親王に一気に靡きます。というのは、これまで土地をもらうには大変な文書のやりとりが必要だったのに、懐良親王は現地まで来てくれたのですぐに綸旨(文書)を出してくれるだろうと期待したのです。懐良親王は村上水軍に育てられたといわれ、海路を使った機動的な攻撃で南朝方が息を吹き返します。
ここでⅡ期に入り、観応の擾乱が起こります。 これは足利尊氏と直義の兄弟喧嘩です。ところで直義には実子がおらず、尊氏の息子の直冬を養子にしていました。直冬は尊氏の息子といっても母親の出自が低かったためか尊氏からは冷遇されており、この擾乱で養父直義が失脚したのを受けて直冬は九州に逃げます。ところが直冬は、「両殿(尊氏・直義)の意向で九州を治めにきた」というフリをします。大嘘つきです。しかし九州の武将はこれを真に受けて、直冬に従うものがでます。例えば畠山直顕や筑前の少弐氏です。もちろん尊氏は直冬の討伐を九州の諸将に命じます。
こうして尊氏、直義+直冬、南朝(後醍醐天皇はもう死去している)の三つ巴の抗争になります。
ところで直冬の嘘がバレても戦いが続いたのはなぜか。南方国人が「貴種」の懐良親王を歓迎したように、武家方(足利方)も「貴種」の下向を待ち望んでいたのです。多少正統性に疑問があっても、すぐに文書を出してくれるならOK、みたいな感覚かもしれません。今でいうと「会いに行けるアイドル」が人気になるみたいな話です。
そして観応2年=正平6年(1351)、ついに足利尊氏は南朝と講和し(正平の一統)、直義との戦いに集中します。ちなみに北朝はなかったことになります。翌年、直義は尊氏に降伏し、その後死没します。こうして関東・畿内では観応の擾乱は終息するのですが、九州ではまだ戦いが続きます。直冬は鎮西管領一色氏にやぶれて九州を退去。しかしその一色氏も小弐氏に敗れて九州を退去。懐良親王らの征西将軍府勢力は北上し、大宰府を制圧します。
一方、この構図の激変により貞久も南朝に寝返るしかなくなります。ちなみにこの時貞久は80歳代で隠居を願い出ています。晩年まで苦労した人です。しかし南朝に寝返ったおかげで、ついこの間まで貞久が戦ってきた南方国人と連携することが可能になり、貞久の息子氏久(うじひさ)は彼らと手を組んで大隅国に攻め込みます。大隅国は畠山直顕を中心にほぼ直冬方となっていました。この結果、畠山直顕は敗北して、おそらく逃走したと思われます。こうして島津氏は念願の大隅国支配を実現しました。
ところで、九州を退去した一色氏の代わりに幕府によって送り込まれたのが足利一門の有力武将、斯波氏経(しば・うじつね)です。ここで斯波氏経には、九州支配のため2つの権限が与えられました。1つ目が寺社本所領半済給付権、2つ目が闕所地預置権です。1つ目は、寺社領から年貢を半分徴収できる(=半済(はんぜい))権利、2つ目は敵方の土地(=闕所地(けっしょち))を恩賞として与えられる権利です。ところが、なぜかこの闕所地に薩摩・大隅が入っていました。これに貞久は激怒。貞久は「自分はずっと武家方として戦ってきたのに敵扱いされるとはけしからん」と長文の書状をしたためて抗議します。この書状は「薩隅日三か国すべてが「名字の地」である」というかなり盛った歴史認識が披瀝されている点でも重要です。ちなみにこの書状を受けた義詮(将軍、尊氏の息子)は「その件は斯波にお任せする」というよくわからない対応をしています。幕府の方でも、もはや敵と味方が誰なのかわかっていないくらい混乱していたのかもしれません。
ともかく、島津氏にとって薩隅日三か国すべてを手に入れる、ということは単なる支配領域の拡大のみならずアイデンティティに関わる問題だったようです。貞久は、二男の師久(もろひさ)に薩摩国守護を、三男の氏久に大隅国守護を相続させ、後にそれぞれ総州家・奥州家となります。この時点では島津氏は大隅国を完全に平定しているわけではありませんでしたが、氏久は積極的に大隅支配を進めます。その際注目すべきことは、自分の所領でない所、さらには何の権限もない日向国までも宛行(恩賞として土地を与える)を行っていることです。橋本紀昭氏はこれを幕府から与えられた所領や守護職の権限に基づかない「独自の知行制」としています。
どうして氏久はこんな勝手ができたのか。それは、懐良親王や足利直冬がその正統性はあやふやながらもスピード感を持って文書を発給し歓迎されたことが背景にありそうです。これまでの激動のほんの一部を書きましたが、これでたった30年しか経っていません。申請から発給まで数か月かかっていた「軍功認定のシステム」では遅すぎると武将たちが考えるのも無理はありません。こうして奥州家は独自の判断で恩賞を与えることで急速に成長し、これが島津本宗家を形成していくことになります。
以上が講演で説明があった時代の概要です。南北朝期はあまりにも複雑なので、参考文献も紹介されました。佐藤進一『南北朝の動乱』、亀田俊和『観応の擾乱』、そして森 茂暁『南北朝時代』です。佐藤進一さんの『南北朝の動乱』は名著と名高いですが、さすがに60年前の本で内容が古いので、最近出た『南北朝時代』が「読むのは大変そうだけどオススメ」だそうです。南九州では南北朝時代のことは断片的にしかまとめられていないので、ぜひ新名一仁先生に本を書いていただきたいと思っています。
ところで講演を聞きながら疑問に思ったことがあります。南北朝時代、加世田あたりはどうも権力の空白地域というか、めぼしい武将がいないような感じなんです。しかしこの時代、万之瀬川河口ではさかんに貿易が行われていました。貿易があったということは富があったということなのに、なぜ権力の空白地帯なのか……? ちなみにこの時代は倭寇が激しく活動しており、明の洪武帝は懐良親王に使節を送って、懐良親王を日本国王と認めて(!)国交を開こうとしています。対外関係とからめて南北朝時代を見てみるとどうなるのか、このあたりも興味深いですね。
非常に高度かつ他では聞けない貴重な講演をしてくださった新名先生に改めて感謝します。ありがとうございました。
