2026年10月5日月曜日

第25回そらまどアカデミア開催しました。超巨大ブラックホールの周りには…⁉


第25回そらまどアカデミア「ブラックホールと鹿児島の天文学研究」を開催しました。

これまでのそらまどアカデミアは、全て人文的なテーマで開催してきました。しかし実は、店主(私)は理系の大学を出ています。そこで理系的テーマにも取り組みたいとずっと思っており、何が皆さんにとって面白いかなあと考えていました。そんな時、宇宙に関する新発見のニュースが立て続けに報道された時があって、「そうだ、宇宙なら多くの人が関心がありそうだ」と思って、大学の同窓会を通じて紹介してもらったのが、今回ご講演いただいた和田桂一先生です。

和田先生は鹿児島大学の「天の川銀河研究センター」のセンター長をしており、理論天文学を専門にしています。無茶苦茶難しい学問だと思いますが、今回はこちらから「中学生にも分かるように講演してもらえるとうれしい」と要望しておりましたので、非常に基本的なところから教えていただきました。なお、小学生・中学生・高校生が参加してくれました(ちなみに中学生以下は無料です)。

まず、そもそも天文学とはどんな学問か、ということですが、天文学には2つの研究手法があり、それは「観測」と「理論」だということです。他の理学系学問ではこの他に「実験」があるのですが(というか「実験」がメイン)、天文学の場合、「実験」はしようがないのでありません。

「観測」は、宇宙を望遠鏡で見るということです。これには屈折望遠鏡(レンズを使う)、反射望遠鏡(鏡を使う)があり、それぞれ可視光、赤外線、X線などさまざまな波長の光(電磁波)を観測するものがあります。例えば日本(国立天文台)が持っている「すばる望遠鏡」はハワイのマウナケア山頂にあり、直径8.2mの光学赤外線反射望遠鏡です。

望遠鏡の直径は大きければ大きいほど多くの光を集められるため高性能であり、この8.2mというのは世界最大級の大きさになります。また望遠鏡は空気の揺らぎや水蒸気、地上の光、震動といったものにも敏感で、そもそも天候が悪いと観測できないので、乾燥した高地の方が適しています。日本を含む各国が協力して造ったALMA(アルマ)望遠鏡は、南米チリの5100mの高地(アタカマ砂漠)にあり、ここにはたくさんの電波望遠鏡が設置され、それが連動することで非常に高い解像度を誇っています。

アタカマ砂漠の和田先生[和田先生提供]

しかしどんな高地でも地上である以上、大気の揺らぎからは逃れられません。そこでアメリカは宇宙空間に望遠鏡を置くことにし、ハッブル宇宙望遠鏡を打ち上げました。これは目覚ましい成果をあげ、最近その後継機として打ち上げられたのがJWSTという宇宙望遠鏡です。ハッブル宇宙望遠鏡は地球の周り(近く)を周回しているのですが、JWSTは地球と同じように太陽の周りを(地球と同じペースで回るちょうどいい位置で)周回するものです。地球からの距離はなんと150万㎞! 地球と月の間の距離がおおよそ40万㎞なので、その4倍にもなる遠さです。 

ところで、アメリカはこのJWSTに1兆円もかけたそうですが、なんと世界中の研究者が無料で使うことができるんだそうです。もちろん無料といっても、申請して認められればの話ですが、博物館まで金を稼ぐことが目標になっている日本との大きな文化力の差を感じました。

日本でも宇宙望遠鏡を打ち上げており、2023年に打ち上がったのがXRISM(クリズム)というX線を観測する人工衛星です。これもたくさんの素晴らしい成果を上げているそうです。

そして実は、鹿児島にも望遠鏡があります。それが入来(いりき)にあるVERA望遠鏡とその近くにある入来1m光赤外線望遠鏡です。VERA望遠鏡は国立天文台が設置したもので、他に石垣島、小笠原、岩手の水沢に全く同じものがあり、計4台を連動させて仮想的に大きな望遠鏡となるものです。一方、入来1m光赤外線望遠鏡は鹿児島大学が所有しており、なんと国内の光赤外線望遠鏡では7番目の大きさ、九州では一番大きいそうです。

このように、天文学では「観測」が非常に重要で、世界中が協力して観測機器を設置し共同で利用しているのですが、和田先生の専門は「理論」です。「理論」とは、簡単に言うと方程式を解いて宇宙がどうなっているかを予測するということ。

方程式を解く、というのは、紙と鉛筆で計算して答えを求める、というのが基本になりますが、そこで扱う方程式はあまりに複雑で膨大なため数学の問題集のようにキレイに解けないことが多く、現実的にはコンピュータで近似値を求めるということになります。それに先ほど言ったとおり天文学では「実験」ができません。宇宙のふるまいには、超高温、超高密度、超真空、超強力磁場など地球上では再現できない条件が多く、またその変化は何億年や何十億年もの長時間を要します。そこでコンピュータで宇宙のふるまいをシミュレーションし、それが現実と合致しているかどうかを調べることで理論の正しさを裏付けるわけです。そんなわけで、和田先生は「理論天文学者は、望遠鏡じゃなくてほとんどパソコンの画面を見ています」と言っていました。 

具体的には、(1)現象を単純化しモデル化する、(2)基礎方程式を決める、(3)それに基づいてプログラムを書く、(4)初期条件・境界条件を与える、(5)パソコンやスパコンで計算する、(6)結果を可視化する(グラフィック化するなど)、(7)その結果が現実と合致しているか検証する、(8)論文を書く、という流れになりますが、2025年くらいからAIが(3)〜(6)の作業を出来るようになって、現在理論天文学の世界でも大きな変化が訪れているということでした。

次に、今回のテーマであるブラックホールの話です。ブラックホールとは光すら脱出できない天体のことです。「穴=ホール」という語感から、当日の会場にも宇宙に穴が開いているようなイメージを抱いている方もいましたが、これは空間の歪みをわかりやすく2次元的に表現して穴みたいに描かれるためで、実際には穴ではなく4次元(空間3次元+時間1次元)の時空の歪みであり、れっきとした天体です。

ブラックホールは、アインシュタインの相対性理論によって予言され、最初は仮想的なものだったそうです。光が出てこないため観測も不可能で、当初はあるのかないのか分からないものでした。しかしその後、間接的な証拠からブラックホールが実在することは確かめられています。

そして最近では、ブラックホールには2種類あると考えられるようになりました。

第1が、太陽程度の重さのブラックホールです。恒星(太陽のように自分で輝いている星)には、寿命があります。重い(質量の大きい)恒星ほど寿命が短く、太陽は割と軽い方で長い寿命を持っています。そして恒星の寿命が尽きると超新星爆発が起こり、ある一定以上の重い星がブラックホールになります。こうして生まれたブラックホールが第1の種類で、これは銀河系に約1億個くらいあるそうです。

第2が、 太陽の100万倍〜10億倍もの質量の、途方もなく大きな超巨大ブラックホールです。これは宇宙全体で数万〜10万個くらいではないか、とのこと。

じゃあその中間の大きさはないのか? というと、理論的に全く存在しないとはいいきれず、もしかしたら観測できていないだけかもしれないので現時点では不明としつつも、そのようなブラックホールがどのように出来るかを考えると例外的な存在であろう、とのことでした。

では第2のブラックホールがどうやってできるのかというと、銀河の中心で生まれます。銀河の中心には非常に大量の星が犇めいているのですが、この多くの星が合体することで超巨大ブラックホールが発達したと考えられます。超新星爆発を経ないで生まれるのが超巨大ブラックホールです。

天の川銀河の中心にあるこの超巨大ブラックホールの存在を確かめ、その業績で2020年のノーベル物理学賞を受賞したのがラインハルト・ゲンツェル先生! 先ほど書いたとおり、銀河系の中心は非常に多くの星がある特別な場所です。銀河系の多くの場所では、ほぼ星は静止していて(あくまでも人間の尺度では、の話)、長い時間観測していても動かないのですが、銀河系の中心では星が動いていることが観測できます。そこでゲンツェル先生は、ここを継続的に観測すれば何か面白い現象があるかもしれないと考えて20年以上にわたって銀河系の中心を観測し続けました。すると、ある恒星がすごいスピードでクイッとターンしていることを発見し、そこに見えないけれども超大質量の天体があることがわかりました。これが超巨大ブラックホールなのです。

それにしても、何にもならないかもしれないのに20年以上も観測し続けるってすごいですね。20年以上天体を観測し記録し続けたティコ・ブラーエのおかげでヨハネス・ケプラーは「ケプラーの法則」を発見しますが、ケプラーもすごいけどティコ・ブラーエがすごいなと私は思います。

そして和田先生は、この超巨大ブラックホールの周りで何が起こっているのかということについて研究しました。こちらは、超巨大ブラックホールの周辺を描いた図です。 

超巨大ブラックホール[和田先生提供]

「光すら脱出できない天体」なのにすごく輝いているな? と思いますよね。これはブラックホール本体ではなく、その周りが光っているのです。その正体は、宇宙にある「ダスト」という塵! これは0.1〜1μm(マイクロメートル)の固体の微粒子で、これはタバコの煙くらいの大きさです。宇宙には超新星爆発の後の残骸がダストとして浮遊しています。超巨大ブラックホールは、このダストや周囲の星間ガスを広範囲から引き寄せるため、その周辺は大量のダスト・ガスが集まります。しかも非常に強い重力によってそれらが高速で回転し、その速度は秒速1000km以上にもなります。このように超高速で回転することでダストやガスが高温になり、強い光を発するのです。ガスの温度は1億度にもなるそうです。

ブラックホールだからダストは吸い込まれるんじゃないの? と思うかもしれませんが、回転による遠心力と重力が釣り合ってなかなかブラックホールには落ち込まず、長期間にわたりダストがブラックホールの周りを回転し続けるわけです。

「これは、太陽系において地球などの惑星が出来る環境と似ている」というのが和田先生のアイデアです。 太陽系では、46億年前、太陽の周りをダストが回り、そのダストがお互いの重力によって長い時間かけて集積して惑星が出来ました。ダストは惑星の原料なのです。

惑星は、当初は太陽系以外では見つかっていなかったのですが、1994年に太陽系外に初めて惑星が見つかり、今では6000個以上の系外惑星が発見されています。ダストが長期間にわたり集積するという環境があるならば、超巨大ブラックホールにも惑星があってもおかしくない、ということで、和田先生は2019年と2021年に発表した論文で、超巨大ブラックホールの惑星を「Blanet(ブラネット)」と名付け予言しました。これはもちろん「Black hole planet」から名付けたものです。先ほどのイラストにある手前の惑星が、この「Blanet」です。

「Blanet」は、2026年に発行されたフランスの科学雑誌「Epsiloon」に表紙で取り上げられました。ブラックホールにも惑星(ブラネット)があるかもしれない、なんてSF的に考えるとすごく面白いですよね。もしかしたら、ブラネットにも生命が誕生するかもしれないわけです。ブラネットに生命が誕生し、それが文明を持つようになったらどんな存在になるでしょうか。ブラネットの一年(ブラックホールを1周する時間)は10万年にもなるそうです。そこで生まれた文明は、きっと1年を経験しないうちに滅びるでしょうね…(苦笑)。

ところで、最後には活発な質疑応答が行われたのですが、その中で「鹿児島で天文学研究をする意味とは」というものがありました。先ほど書いたとおり、入来に望遠鏡が設置されているのは日本を広くカバーするVERA望遠鏡の性質上、本土の端にある鹿児島が都合がよかったからですが、和田先生は「天文学の研究は世界のどこでもできます!」とも言っていました。アメリカが1兆円かけたJWSTが世界の誰でも使えるように、天文学には世界の垣根がなく、しかも観測成果も一定期間経過したらそれが公開されデータベースにより誰でも参照できるようになっています。地上にある望遠鏡もリモート操作が可能であり、そこに行く必要はないんだとか。確かにわざわざマウナケアの山頂とかアタカマ砂漠に行かないと観測できないとしたら大変すぎます。

ということは、鹿児島にいても世界最先端の研究ができるということになります。鹿児島は日本の本土の端ですし、様々なことで僻地の不利さがあると思います(特に進学!)。しかし天文学では、鹿児島にいながらも世界中の研究者と同じ条件で研究ができる! これってとても面白いなと思いました。

「そらまど」もすごく辺鄙なところにあるので僻地の不利を日々感じているところですが、僻地が不利にならないような取り組みをしていきたいと考えています。

2026年8月8日土曜日

今年は渇水に苦労しましたが新米の販売を開始しております

今年の「無農薬・無化学肥料のお米」の販売を開始しました。

8月3日にショップサイトのメルマガでお知らせしたところ、想定を超えるご注文が殺到し、なんとたった1日で受注を一時停止しました。というのは、今年はお米が不作でどれだけ注文が受けられるか見通せなかったためです。

とにかく、今年は水不足でした。南薩の5月の降水量は平年の半分だったそうです。早期水稲にとって5月は生育初期で大事な時期なのですが、この時期に田んぼに水が足りず、草だらけになってしまい、今年は久しぶりに草取りに苦労しました。

【参考】今年は田んぼの草取りに難儀しています
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2026/06/blog-post.html

梅雨時期は平年並みに雨が降ったものの、さらに問題だったのが7月! なんとここ大浦では、梅雨明け後から7月中ずっと全く雨が降らなかったのです。鹿児島全体でもこの7月は史上最小の降雨量を記録した場所が何箇所かあります。稀に見る渇水の年だったのは間違いありません。このせいで近所の川はすっかり流れが止まり、田んぼは干上がってしまいました。

うちでは3箇所でお米を作っていますが、特に水が足りない場所にある田んぼでは、収穫前に稲が枯れてしまいました。登熟する前に枯れては当然収穫出来ません。ここまでひどくないところも本来の稲の生命力が発揮できなかったので、品質の方も期待通りではありませんでした。なので気持ちだけですが昨年より少し値下げしました。

ところで、この渇水のためにサツマイモもシナシナになっていました。サツマイモというのは非常に強い作物で高音にも水不足にもそれなりに強いのですが、植え付けが遅れた区画ではほとんど枯れてしまいました。途中、水掛けもしたのですが効果はほぼなかったですね…。

先日、稲刈りが終わりましたが、収量は豊作だった昨年の7割くらいしかありませんでした。平年と比べても9割ほどですね。まあこの渇水で平年の9割だったら比較的マシなのかもしれません。

そして8月7〜9日にかけて、台風が鹿児島本土をかすったお陰で雨が降りました。渇水が解消されたのはなによりでしたがけっこうな大雨でしたね。適度に降ってもらいたいものです。

というわけで、少ないながら在庫量が確定したので受注を再開しました。例年なら8月末から9月上旬まで販売しておりますが、きっと早く売り切れると思いますのでご承知おきください。どうぞよろしくお願いいたします。

↓ご購入はこちらから
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のお米
https://nansatz.stores.jp/items/68877c338fe718028485a336

2026年8月3日月曜日

第25回そらまどアカデミア「ブラックホールと鹿児島の天文学研究」を開催します


10月4日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回のテーマはブラックホールです。そらまどアカデミアはこれまで24回開催していますが、初めての理系的なテーマです。実は、店主は理系の大学を卒業しているため、ずっと理系的テーマをやりたかったのです!

みなさんはブラックホールというとどんなイメージを持っていますか? 私が子どもの頃、「ブラックホールは本当にあるのか?」みたいなことが言われていた記憶があります(その時点でずいぶん古びた図鑑でいわれていたことなので、実際には観測されていたと思うのですが)。

その後、ブラックホールは全てを飲み込む怖ろしい天体だとか、ブラックホールは恒星がその一生の最後に到達する死んだ状態だとかいうイメージが流布されました。試しに手元にある藤井旭『星の一生(科学のアルバム4)』(あかね書房、1980年)という子供向け科学絵本を見てみると、ブラックホールについて「しんだ星の光は、もう外へもでられず、宇宙から姿をけしてしまいます」と書いてありました。「死」、「宇宙から姿を消す」というネガティブなイメージが満載です。

ところが最近、こういうブラックホールのイメージが変わりつつあります。まず、宇宙には無数のブラックホールがあってありふれた存在であるらしいこと、そして銀河の形成にも大きく影響しているのではないかということ。さらには、全てを飲み込むはずのブラックホールから「ジェット」と言われる噴出があり、それも星の形成に作用しているのではないか、といったようなことが言われだしました。私たちの住む「天の川銀河」の中心にも超巨大なブラックホールがあるそうです。

そして実は、鹿児島大学には「天の川銀河研究センター」が設置され、ブラックホールや銀河系の形成について研究が行われているんです。というわけで、天の川銀河研究センター長の和田桂一先生にブラックホールと鹿児島の天文学研究について語っていただきます。ブラックホールのイメージが変わるかも⁉ ぜひ聞きに来てください。

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第25回 そらまどアカデミア

ブラックホールと鹿児島の天文学研究

講 師:和田桂一

「光すら脱出できない天体」といわれるブラックホール。本来は見えないはずなのに、なぜその存在が確かめられているのでしょうか。最新の観測と理論研究をわかりやすく紹介するとともに、鹿児島大学で天文学を研究する理由や、現在の研究の最前線についてもお話しします。

日 時:10月4日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込:申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
1965年、北海道生まれ。北海道大学大学院理学研究科物理学専攻修了。博士(理学)。北海道大学、国立天文台を経て、2009年より鹿児島大学教授。現在、理工学研究科附属天の川銀河研究センター長。 

2026年7月22日水曜日

第24回そらまどアカデミア開催しました。複雑怪奇な南九州の南北朝時代!


第24回そらまどアカデミア開催しました。

今回は、「九州南部の南北朝内乱 ―南方国人の動向を中心に―」という演題で新名一仁先生にご講演いただきました。 

鹿児島で歴史の講演だと戦国島津と幕末の人気がありますが、南北朝はほとんど開催自体がないんです。うちでは、「お客さんは来ないかもしれないけど、他ではやらない南北朝を取り上げよう!」と思って設定しました。ところが! 告知を開始したら1週間もしないうちに定員満員の申し込みがあったんです。これには驚きました。

新名先生も「南北朝期の講演の依頼を受けて驚きました」とのこと。やはり南北朝期は「複雑怪奇で難しい」ので需要が少ないのが現状だとか。

講演前に配られた資料もすごい情報量でした。さすが複雑怪奇なだけあります。大学の90分講義2回分くらいの分量で、これを2時間で話せるのだろうかと心配しましたがキッチリ終わりました。というわけで、とてもその全貌はここにはまとめられないので、雰囲気だけお伝えしたいと思います。

そもそも南北朝内乱とは、鎌倉時代に天皇家が2つの系統に分かれてしまったことから始まります。後嵯峨天皇がその息子二人のそれぞれを天皇にしたことが原因で、皇統が「持明院党」と「大覚寺党」に分かれます。鎌倉時代後半になるとこの2つの系統の争いが始まり、それを鎌倉幕府が調停して「両統迭立(てつりつ)」となります。それぞれの系統から交互に天皇を出すという取り決めです。ところが後醍醐天皇はどうしても息子に皇位を継がせようと反乱を起こし、最終的に鎌倉幕府を滅ぼすことになります。

その後、後醍醐天皇が始めた建武の新政はすぐ瓦解しますが、後醍醐天皇は三種の神器を幕府に渡しておとなしく従ったようにみせかけながら「実はその三種の神器はニセモノだ!」と奈良南部の吉野に逃げて「こっちが正統な皇統だ!」と主張。これが南朝になります。一方室町幕府は三種の神器がないままで天皇を即位させて北朝がスタート。ここから全国を巻き込んだ南北朝の動乱になっていくのです。

南北朝期は3つに分けられ、
Ⅰ期が「鎌倉幕府滅亡(1333)〜懐良親王の下向(1340年代)」
Ⅱ期が「観応の擾乱(1350年代)〜征西将軍府勢力の全盛期(1360年代)」
Ⅲ期が「今川了俊の九州探題抜擢(1370)〜了俊の探題解任(1396)」
だそうです。しかし今回は時間が限られていることと、今川了俊以降は現在研究がどんどん進みつつあり話がしづらいということで、Ⅰ期とⅡ期に限ったお話でした。

新名先生によれば、この時代ですごく大事なのは「軍功認定のシステム」です。戦いに参加してその功績が認められて、恩賞として土地がもらえる、という仕組みですね。南北朝時代には、これが文書で丁寧に行われました。

具体的には、まずトップから軍勢が催促されます。それを受けた守護は戦いに参加するよう地頭御家人に動員をかけます。地頭御家人は戦いの現場につくと「到着しました」という文書を出し、守護はそれにちゃんとサインをします。戦いが行われると、どのような被害があったか、傷を受けた場所、倒した敵など事細かに報告し(軍忠状)、これにも守護が「承了(うけたまわりおわんぬ)」などとサインします。これを受け、動員された方は「感状」というものを申請します。これは功績を認めるという文書です。そしてこれが発給されると、これを根拠に恩賞として所領が認められる、という仕組みです。ポイントは、全て文書でやりとりされるということと、守護→探題→将軍と取り次いで、最高権力者の将軍の決裁まで必要とするということです。

この文書は土地の所有権を主張する根本資料になるので、各家では厳重に保管されました。なので軍忠状が(家が断絶していなければ)よく残っており、戦国期よりも南北朝期の方が合戦の詳細がよくわかるのだそうです。

ともかく、土地の権利を得るのにいちいち最高権力者の決裁を必要とするという面倒で時間がかかる仕組みがあったことが、後々歴史を動かすエネルギー(?)になります。今でいうと、土地の登記をするのに各地の法務局に行くだけでは済まず、内閣総理大臣の印鑑が必要という感じですね。南北朝期は現代以上に文書でのやりとりが必要な中央集権の時代かもしれません。

それではⅠ期の説明に入ります。

鎌倉幕府に反乱を起こした後醍醐天皇は一度は隠岐に流されますが脱出して挙兵します。それに従ったのが足利高氏。高氏は九州の島津貞久や大友貞宗に挙兵を促しました。高氏が貞久に言ったのが「大隅国の守護を与えるから」という誘い文句。元々島津氏は薩摩・大隅・日向三か国の守護でしたが、この時代には薩摩国だけになっていました。その後、貞久らは鎮西探題(大宰府)を落とし、高氏も全国を平定して後醍醐天皇の「建武の新政」が始まります。

建武の新政では実際に島津貞久は大隅国守護にもなりますが、日向・大隅は鎌倉時代には執権北条家が治めていた地域だったので、この地域の勢力は貞久の支配に抵抗します。後醍醐天皇は追って貞久を日向国守護にも任じ、貞久は薩隅日三か国の守護職を手に入れますが、これは多分に名目的な感じです。それどころか、薩摩半島に限っても貞久が地頭職を持っているのは限定的でした。

ところが「中先代の乱」がおこって、建武の新政はわずか2年で瓦解します。足利尊氏(→後醍醐天皇(尊仁)から一字もらって高氏から改名)とその弟の直義が後醍醐天皇から離反した戦いです。後醍醐天皇は「尊氏・直義を討て!」と全国に命令を下しますが、これに呼応したのが日向・大隅の勢力(肝付兼重・伊東祐広)。旧北条家支配下の人たちは足利氏に反発を感じていたのでこの時は後醍醐天皇に従ったわけです。

一方、貞久は尊氏について戦いますが、尊氏は京を追われて九州に落ち延びます。尊氏は島津・少弐・大友とともに、建武政権方(後醍醐方)の菊池氏を撃破。息を吹き返して九州から京へ再び攻め込みます。その際、尊氏は島津貞久を薩摩に、足利一門の畠山直顕を日向に下向させます。さらに貞久は、川辺郡などと大隅国も与えられます。実際は大隅国は肝付兼重が支配しているので、尊氏は兼重を抑えるため貞久と畠山直顕を配置したということになります。

ここで、敵方の後醍醐天皇は三条泰季(やすすえ)という公家を薩摩に下向させます。この人物は「ほとんど知られていない謎の人物なのですがすごく重要」だそうです。薩摩半島南部には、伊集院忠国・谷山隆信・鮫島蓮道などが蟠踞しており、彼らが三条泰季にまとめられて「守護町(川内の碇山城付近?)」を襲います。これが「南方(みなみかた)国人(こくじん)」の初めての軍事行動でした。国人とは地頭御家人、郡司など在地武士の呼称です。

実は南薩は、地頭や郡司が揉めていた地域でした。つまり島津氏の支配権が及ばずゴタゴタしていました。ここに三条泰季が現れて新たな権威が出現したので、南薩の郡司系の土着勢力はこの味方になった方が得だと思ったようです。こうして南薩はほぼ南朝方(後醍醐天皇の味方)になり、伊作、市来、伊集院、給黎(きいれ)、そして碇山城と立て続けに戦いが起こります。

しかし貞久はこれをなんとか抑えて東福寺城(鹿児島市清水町)を落とし、鹿児島を手に入れます。というか、この時まで島津氏は鹿児島も支配できてなかったわけです。そしてこの東福寺城が大隅攻略の拠点となります。島津氏にとって、実効支配できていない大隅をちゃんと支配下に置くことが大きな課題でした。島津氏は谷山・阿多・加世田などを攻め落として南薩地域を徐々に支配します。

このように南方国人が弱体化しつつあった時期、懐良親王が征西将軍として薩摩に上陸します。後醍醐天皇は各地に皇子を派遣して戦わせるのですが、懐良親王もその一人です。そして南方国人は「貴種」である懐良親王に一気に靡きます。というのは、これまで土地をもらうには大変な文書のやりとりが必要だったのに、懐良親王は現地まで来てくれたのですぐに綸旨(文書)を出してくれるだろうと期待したのです。懐良親王は村上水軍に育てられたといわれ、海路を使った機動的な攻撃で南朝方が息を吹き返します。

ここでⅡ期に入り、観応の擾乱が起こります。 これは足利尊氏と直義の兄弟喧嘩です。ところで直義には実子がおらず、尊氏の息子の直冬を養子にしていました。直冬は尊氏の息子といっても母親の出自が低かったためか尊氏からは冷遇されており、この擾乱で養父直義が失脚したのを受けて直冬は九州に逃げます。ところが直冬は、「両殿(尊氏・直義)の意向で九州を治めにきた」というフリをします。大嘘つきです。しかし九州の武将はこれを真に受けて、直冬に従うものがでます。例えば畠山直顕や筑前の少弐氏です。もちろん尊氏は直冬の討伐を九州の諸将に命じます。

こうして尊氏、直義+直冬、南朝(後醍醐天皇はもう死去している)の三つ巴の抗争になります。

ところで直冬の嘘がバレても戦いが続いたのはなぜか。南方国人が「貴種」の懐良親王を歓迎したように、武家方(足利方)も「貴種」の下向を待ち望んでいたのです。多少正統性に疑問があっても、すぐに文書を出してくれるならOK、みたいな感覚かもしれません。今でいうと「会いに行けるアイドル」が人気になるみたいな話です。

そして観応2年=正平6年(1351)、ついに足利尊氏は南朝と講和し(正平の一統)、直義との戦いに集中します。ちなみに北朝はなかったことになります。翌年、直義は尊氏に降伏し、その後死没します。こうして関東・畿内では観応の擾乱は終息するのですが、九州ではまだ戦いが続きます。直冬は鎮西管領一色氏にやぶれて九州を退去。しかしその一色氏も小弐氏に敗れて九州を退去。懐良親王らの征西将軍府勢力は北上し、大宰府を制圧します。

一方、この構図の激変により貞久も南朝に寝返るしかなくなります。ちなみにこの時貞久は80歳代で隠居を願い出ています。晩年まで苦労した人です。しかし南朝に寝返ったおかげで、ついこの間まで貞久が戦ってきた南方国人と連携することが可能になり、貞久の息子氏久(うじひさ)は彼らと手を組んで大隅国に攻め込みます。大隅国は畠山直顕を中心にほぼ直冬方となっていました。この結果、畠山直顕は敗北して、おそらく逃走したと思われます。こうして島津氏は念願の大隅国支配を実現しました。

ところで、九州を退去した一色氏の代わりに幕府によって送り込まれたのが足利一門の有力武将、斯波氏経(しば・うじつね)です。ここで斯波氏経には、九州支配のため2つの権限が与えられました。1つ目が寺社本所領半済給付権、2つ目が闕所地預置権です。1つ目は、寺社領から年貢を半分徴収できる(=半済(はんぜい))権利、2つ目は敵方の土地(=闕所地(けっしょち))を恩賞として与えられる権利です。ところが、なぜかこの闕所地に薩摩・大隅が入っていました。これに貞久は激怒。貞久は「自分はずっと武家方として戦ってきたのに敵扱いされるとはけしからん」と長文の書状をしたためて抗議します。この書状は「薩隅日三か国すべてが「名字の地」である」というかなり盛った歴史認識が披瀝されている点でも重要です。ちなみにこの書状を受けた義詮(将軍、尊氏の息子)は「その件は斯波にお任せする」というよくわからない対応をしています。幕府の方でも、もはや敵と味方が誰なのかわかっていないくらい混乱していたのかもしれません。

ともかく、島津氏にとって薩隅日三か国すべてを手に入れる、ということは単なる支配領域の拡大のみならずアイデンティティに関わる問題だったようです。貞久は、二男の師久(もろひさ)に薩摩国守護を、三男の氏久に大隅国守護を相続させ、後にそれぞれ総州家・奥州家となります。この時点では島津氏は大隅国を完全に平定しているわけではありませんでしたが、氏久は積極的に大隅支配を進めます。その際注目すべきことは、自分の所領でない所、さらには何の権限もない日向国までも宛行(恩賞として土地を与える)を行っていることです。橋本紀昭氏はこれを幕府から与えられた所領や守護職の権限に基づかない「独自の知行制」としています。

どうして氏久はこんな勝手ができたのか。それは、懐良親王や足利直冬がその正統性はあやふやながらもスピード感を持って文書を発給し歓迎されたことが背景にありそうです。これまでの激動のほんの一部を書きましたが、これでたった30年しか経っていません。申請から発給まで数か月かかっていた「軍功認定のシステム」では遅すぎると武将たちが考えるのも無理はありません。こうして奥州家は独自の判断で恩賞を与えることで急速に成長し、これが島津本宗家を形成していくことになります。

以上が講演で説明があった時代の概要です。南北朝期はあまりにも複雑なので、参考文献も紹介されました。佐藤進一『南北朝の動乱』、亀田俊和『観応の擾乱』、そして森 茂暁『南北朝時代』です。佐藤進一さんの『南北朝の動乱』は名著と名高いですが、さすがに60年前の本で内容が古いので、最近出た『南北朝時代』が「読むのは大変そうだけどオススメ」だそうです。南九州では南北朝時代のことは断片的にしかまとめられていないので、ぜひ新名一仁先生に本を書いていただきたいと思っています。

ところで講演を聞きながら疑問に思ったことがあります。南北朝時代、加世田あたりはどうも権力の空白地域というか、めぼしい武将がいないような感じなんです。しかしこの時代、万之瀬川河口ではさかんに貿易が行われていました。貿易があったということは富があったということなのに、なぜ権力の空白地帯なのか……? ちなみにこの時代は倭寇が激しく活動しており、明の洪武帝は懐良親王に使節を送って、懐良親王を日本国王と認めて(!)国交を開こうとしています。対外関係とからめて南北朝時代を見てみるとどうなるのか、このあたりも興味深いですね。

非常に高度かつ他では聞けない貴重な講演をしてくださった新名先生に改めて感謝します。ありがとうございました。

2026年6月17日水曜日

第24回そらまどアカデミア「九州南部の南北朝内乱 ―南方国人の動向を中心に―」を開催します。

7月19日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回はなんと! 中世島津氏研究の第一人者、新名一仁先生にご講演いただきます。

新名先生は鹿児島で著名なので紹介の必要はないと思いますが、一般向けの本もたくさん出されています。例えば『「不屈の両殿」島津義久・義弘——関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(角川新書)は、戦国島津を語る上で外せない本です。また『島津四兄弟の九州統一戦』(志学社選書)は最近復刊されました。

鹿児島では長年「島津義弘(か四兄弟)を大河ドラマに」という声(運動)があるのですが、もしこのテーマで大河ドラマが作られるとすれば、新名先生の研究が第一に参照されることは間違いありません。

が、新名先生の研究はいわゆる「戦国島津」だけに収まりません。

むしろ、その前提となる室町期の南九州の研究を熱心にやってきたのが新名先生です。そして新名先生は、島津氏だけでなく「国人(こくじん)」と呼ばれる土着の勢力についても詳細に分析されてきました。そこで今回、特にゴタゴタしていてややこしく、敬遠する人が多い(!?)南北朝期の南九州についてご講演いただくことにしました。

南北朝期というと、天皇家が北朝と南朝に分かれ、幕府・武士もそれに応じて戦った…と理解されていると思いますが、これがなかなか複雑です。特に九州は南北朝の争いと国人の勢力争いが組み合わされて複雑な様相を呈します。

その台風の目の一つとなったのが懐良(かねよし)親王です。南朝の後醍醐天皇が皇子懐良親王を「征西将軍宮」として九州に派遣し、鹿児島に上陸するんですね。懐良親王は谷山に拠点を設けて勢力を糾合し、南朝の一大勢力が鹿児島に出来るのですが、同じ時期に幕府の内訌で九州に下ってきたのが足利直冬(ただふゆ)。彼は足利尊氏の非嫡出子で、幕府の権威をまといつつも幕府とは対立していました。そんなわけで南九州では幕府・南朝・直冬の三つ巴の戦いが繰り広げられます。しかも島津氏も国人も、寝返ってばかりで誰と誰が敵なのか味方なのかもよくわからない状態になっていきます。というか私もさっぱり分かっていません。

というわけで、新名先生にジックリと南北朝期の南九州についてご講演いただき、戦国島津氏が九州の覇者となっていくその前史を学んでみたいと思います。

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第24回 そらまどアカデミア

九州南部の南北朝内乱 ―南方国人の動向を中心に―

講 師:新名一仁

約60年にわたった南北朝の内乱は、九州南部にも大きな影響を与えました。特に薩摩半島の「南方国人」は、南朝方・征西将軍宮方として島津氏一族の支配に強く抵抗しました。この内乱の流れと南方国人の動向を解説します。

日 時:7月19日(日)14:00〜16:00(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込:申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。

<講師紹介>
1971年宮崎市生まれ。鹿児島大学法文学部人文学科卒業、広島大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。博士(文学、東北大学大学院)。専門は九州南部政治史。宮崎市教育委員会文化財課市史編さん室専門員。 

第23回そらまどアカデミア開催しました。「ヘタでも挑戦するのが大事」

第23回そらまどアカデミア開催しました。

今回お話しいただいたのは、南日本新聞で「鹿児島つれづれ小咄(こばなし)」を毎日連載している永田祥二さんです。

永田さんにご登壇いただくことになったきっかけは、約1年前に開催した画家の佳月優さんの講演です。佳月さんは若い頃、友達の「ナガタ君」と巨匠の絵画の分析を熱心に行います。この分析が佳月さんの話の中核だったのですが、その「ナガタ君」が永田祥二さんだというご縁で今回講演を依頼しました。

【参考】第18回そらまどアカデミア開催しました。「芸術には一致したものがある」
https://nansatz-kurashi.blogspot.com/2025/06/18.html

永田さんは、もともと絵描きになりたいという希望を持っていました。受験に失敗し、将来が見えない20代、同じ志を持つ佳月さんと切磋琢磨します。永田さんが特にこだわったのが構図です。

永田さんは、巨匠たちの絵画がいかに巧妙な構図で構成されているかを力説します。雲や背景の樹木など何気ないものが画面を黄金比(1:1.618...、最も安定した美しい比率とされる)で分割しているそうです。一方、障害のある子どもたちはそんな計算はしていないはずなのに、すばらしい絵を描いています。それは「生きる」「障害を克服する」という強い気持ちが画面に現れ、最も安定する配置に落ち着くからなのかもしれません。絵画について語る永田さんはとにかく熱い!

ところが、残念ながら永田さんは画家にはなれませんでした。そこで実家の稼業だった建設コンサルの仕事に従事します。この他、「環境商材を取り扱う会社の社長もしたし、居酒屋を2軒経営していたこともあります。友人とデザイン事務所をやっていたことも。でも全部廃業してしまいました。自分にはマネジメント能力がなかったんだと思います」。

そんなうまくいかない仕事のストレス発散をしようと、永田さんは文章を書き始めます。絵を描くには画材などお金がかかりますが、文章ならお金がかからないから、ということだったそうです。そして「南日本文学賞の賞金30万円に目がくらんで応募しました」。その時の作品は、子供時代のことや自分の人生の失敗を題材にしたものだったそうですが、これが「まぐれで最終審査に残りました」。しかし! 南日本文学賞の最終審査は観客も集めて公開で行われるのですが、ここで「僕の作品がボロクソに言われました」。

その時に大賞だったのが岡村知鶴子さんの小説「かなくそ坂」でしたが、岡村さんの親類がやっている居酒屋に行ったら「ここでやめたら男じゃない」とさんざんそこの人に言われます。人生に必要な叱咤激励って、意外なところから飛んできますよね。

そこで永田さんは発奮してまた小説を書きます。測量の仕事で行っていた喜界島で聞いた、一度も島から出たことがない人が持つ霊感と狐の嫁入りを組み合わせて書いた「狐の行列」という小説でした。これが翌年(2009年)の南日本文学賞を取ります。しかもこの年は5年に一度の南日本文学大賞の年でした(賞金100万円!)。

でも永田さんは、その小説をよくできたものだったとは言いません。むしろ「ヘタなのを開き直って書いた」と言います。「前年、ボロカスに言った遠慮があって賞をくれたのかもしれない(笑)」。ただ、審査員の佐々木幹郎(みきろう)さんに「文章が絵画的だ」と言われたのは嬉しかったそうです。「今読んでも、光や色のイメージが自然に書けていたと思う」。

これに気をよくした永田さんは、いろんな賞に応募してそれなりに受賞します。「このころは純粋な気持ちで書けていたと思います。でも次第に調子に乗ってしまって、かえっていいのが書けなくなった。ヘタでもいいから、自分の書きたいものを素直に書くということができなくなっていたんですよね」。結果、賞には落ち続けます。それでも書くことはやめなかったそうです。

しかし事業も行き詰まり、お父様の介護もやらなくてはなりませんでした。「南さつま市のゴミ出しカレンダーの広告を取る仕事もしたんですよ。その時に病院と葬儀屋の広告を並べて配置するという大失態も犯しました」。それにしてもいろんな仕事をしてますね。そしてついに、手掛けた事業を畳まざるをえなくなり、50代で失業します。

「ハローワークに行ったら、介護職なら働けると言われました。南日本文学賞を取ったとか全然関係ない」。これが転機になります。老人ホームでは、幽霊を見るなど不思議な体験もあり、また日々いろんなトラブルが起こります。そういうことを書き留めておいたところ、新聞で『メーター検針員テゲテゲ日記』(川島 徹)の広告を見て、「テゲテゲといえば鹿児島の人だろう。鹿児島の人が出しているんなら、介護の話で自分も書ける」と思い、出版社の「三五館シンシャ」にメールを出します。

ちなみに「三五館シンシャ」は、いわゆる一人出版社で、社長がいけると思えばすぐに本が出せるというスピード感のある会社でした。社長が「じゃあ5本送って」というので永田さんが10本送ったところ、「あと5本送って」と言われ、その次には契約書が送られてきたそうです。こうして世に出たのが『非正規介護職員 ヨボヨボ日記』です。

永田さんが本を出した「日記シリーズ」では、最初に出た『交通誘導員ヨレヨレ日記』(柏耕一)も7、8社から断られたそうです。しかし「三五館シンシャ」がこれを出したところ大ヒット。「日記シリーズはこれまで26冊出ていますが、人生に失敗した人がキツい仕事をしているのをウソなく書いているから面白い」と永田さん。永田さんも当時勤めていた施設について言いたい放題書いていて、施設にバレたらまずいため真山剛というペンネームで書きました(笑)。

この『非正規介護職員 ヨボヨボ日記』が「まあまあ売れて、これのおかげで借金が返せました」。そして介護職のリアルが書いてあるということで共同通信社(新聞社等にニュースを配信する会社)の目に留まり、永田さんは約30紙に掲載されるコラムを連載します。

そして南日本新聞で「鹿児島つれづれ小咄」を毎日連載することになります。これまで(=講演当日まで)に約520本書いているそうです。「よくネタに困らないねと言われますが、上手に書こうと思わないから書けている。割り切って思ったままを書くんです。くだらないことばかり書いていてすみません」と永田さんは笑います。

ここから、永田さんの書くコツの話になりました。結構たくさんあるので簡潔にまとめます。

  • 自分の職業の話を書くのはよい。他の人が知らない業界の話は面白い。「日記シリーズ」に挑戦することも勧める。文学賞でも、私は土木業界で働いていたからそれが他の人にはない視点となって評点が高くなった。
  • 小説を書くときは、カレンダーの裏紙のような大きな紙に時代背景・登場人物・いきさつなどを書き、線で結んだり色分けしたりしてまとめていくのがいい。一枚の紙だから破綻があったらすぐわかる。そしてそれを自分で面白いと思ったら作品にする。面白いと思えなかったら無理に作品にしない。
  • 小説は最初の4、5ページで面白くなかったらもう読まれない。最初からどうなるかわかるようではだめ。調べて書いても面白くないので実体験に基づいたものがよく、しかも予定調和にならないように書く。
  • 規定枚数60枚の小説を書くなら、まず80枚書いてみる。そしてそれをどんどん削っていく。少なく書いて足すのは絶対に面白いものにならない。
  • 書いたら必ず誰かに見てもらう。私のエッセイの最初の読者は妻。「つれづれ小咄」は30本出したら10本は妻からボツを食らう。読んでくれる友達もいる。そういう人から手厳しい批判をもらった方がいい。
  • とにかく挑戦する。全国に文芸作品のコンテストがたくさんある。自分が好きな作家が審査員をやっているコンテストに出してみては。

他にもいろいろありましたがこのあたりで。そして短編やエッセイの参考になるオススメの作品もたくさん紹介されました。例えば、向田邦子『思い出トランプ』。宮本輝『五千回の生死』、三浦哲郎『短編集モザイク』(シリーズ)、堀江敏幸『雪沼とその周辺』、川端康成『掌の小説』(特に「バッタと鈴虫」「男と女の荷車」「金糸雀」)、東海林さだお「丸かじりシリーズ」、写真家の武田花さんのエッセイ、マンガではつげ義春がおすすめだそうです。

そして文章を書いて生きていく、ということについて「僕が若いころに比べて、比べものにならないくらい機会がある」と言います。「(ブログサービスの)noteに書いていて出版された人もいますし、鹿児島でも40代のオバさんなのに美少年のふりをしてBL小説(ボーイズ・ラブ)を書いて生活できるほどお金を稼いでいる人もいます。あまり人には言えないような文筆代行をしている人も。鹿児島でも文章を書いて飯食ってる人ってけっこういるんですよね。最近は自分で本の形にするのも結構簡単にできます。作家の穂村弘さんは、自分で300万円かけて本を作って何十社かに送って、それが高橋源一郎さんの目に留まって成功しました。やっぱりチャレンジすることって大事。僕の挑戦が50歳からだから」。

そんな永田さんの次なる目標は。

「もう一回、文学の勉強をしたい。大正・昭和の作家は文章がしっかりしている。ああいうのを見直してみたい。それから、一度はあきらめた絵もまた勉強したい。そのためには石膏デッサンからかな。そしてマンガも描いてみたい。今はYouTubeでも書き方指南の動画がたくさんあるので挑戦したい」。

最近、私はだんだん加齢を感じてきて「もう新しいことへの挑戦はなかなか難しいなあ」と思っていたのですが、永田さんのこの姿勢を見習いたいと思います。

ところで、永田さんは「つれづれ小咄」などご自身の文章について「くだらなくてすみません」とか「ヘタな文章」と何度も言っていました。最初は謙遜かなと思っていたのですが、実は深い意味があるのではないかと思わされたのが絵の話との対比から。割愛しましたが、永田さんの話には「例えば絵画だと…」のように絵の話が差し挟まれ、その時にはすごく饒舌になります。巨匠の絵がいかに巧妙な構図に基づいているかという話を聞いていると「絵はヘタでもいい」というような感じは一切しませんでした。なのになぜ文章になると「ヘタでもいいから書いたらいい」と言っているのか……⁉

私はむしろ、永田さんは「ヘタな文章」に積極的な意味を見出している感じがしました。永田さんはAIが書く文章について「すごく上手だと思う。でも文章に”遊び”や無駄がない。AIにヘタな文章を書けといっても多分書けないんじゃないか」と言います。「だから僕みたいなヘタな文章を書く人間がいた方が面白い」。

私自身、長く文章を書いてきて思うのですが、そつのない文章はそれなりに書けるようになります。しかしそつのない文章を書くために削ぎ落とされるものも多い。以前、山口文憲さんの『読ませる技術』という本を読んだときに、作者が実際にエッセイ教室で行った添削の事例が掲載されていました。これがなんと、添削前の作品の方がずっとよかったのです。添削後の作品は、そつのないものになっていて、今でいえばAI的なのです。エッセイ教室は書く技法を教える場所なので、その添削は需要に応えるものだったのだと思います。しかし読者として見ると、添削前のみっともない作品の方がよかった。補正して作った美女の顔より、深いシワが刻まれた素顔の方がすっと面白いのと一緒です。

永田さんが自分を「ヘタ」と「開き直って」いるのはこれに通じるものがあります。もしかしたら、永田さんは「上手に書くこと」が目的にならないように自戒されているのかも? それが永田さんがいろいろな経験をしてきて体得した文章技法なのかもしれません。

2026年6月12日金曜日

今年は田んぼの草取りに難儀しています

南薩では、今年の5月は平年の半分しか降雨量がなかったそうです。

そのため、なかなか田んぼに水が溜まらない区画があったのです。そのうちの一区画は、全く水が干上がってカラカラに乾いてしまいました。別の区画は、水が入ったり入らなかったりでした。

カラカラに乾く場合は意外と雑草は生えないのですが、水が入ったり入らなかったりする時に一番雑草が生えます。そんなわけで、冒頭の写真のように草だらけになってしまった場所があります。そんなに広い面積ではなくても、これを手で草取りしようと思うとかなり大変!

しかしこれを放置していると、稲がなかなか伸びないのです。化学肥料を入れていたら、雑草が多少生えていても生育はします(もちろん、生育は悪いですよ)。ところがうちの場合は化学肥料は全く入れておらず、今年は前作のレンゲのみです。非常に肥料分を少なくする栽培法をしているので、雑草が生えていると生育自体しないのです。

そこで、この2週間ほど手で草取りしています。この3年ほどは田んぼの草取りにあまり苦労していませんでしたが、今年はなかなか大変です。びっしり草が生えているのですごく時間がかかります。

それにしても、このびっしり生えた草、なんという草だろう。……と思って調べてみたら、「タケトアゼナ」という植物のような感じ。北米からの外来種だそうです。こんな草、以前生えていたかなあ……?

ちなみに、本当は5月中に草取りしないと生育の遅れが大きいのですが、田んぼに水が入っていないと草取りはできないのです。結局、田んぼは水がないとダメ!

ちゃんと収穫できるよう、しばらく草取りを続けます。