2025年6月17日火曜日

第18回そらまどアカデミア開催しました。「芸術には一致したものがある」

第18回そらまどアカデミア開催しました。

今回お話しいただいたのは、吹上町野首(のくび)の画家・佳月 優(かづき・ゆう)さんです。

佳月さんと知り合ったのは10年以上前ですが、芸術に真摯に向き合うその姿勢に感銘を受け、「いつかどこかでお話してほしい」と思い続けてきました。今回ようやく、そらまどアカデミアの場を使ってその思いを実現することができました。

佳月さんは、ご自身の人生を絡めつつ「人は、いったいどのような絵を美しいと感じるのだろうか?」ということについて語ってくれました。

佳月さんは、愛媛県今治市生まれ。お父様は造船の仕事をしていたそうです。小学生から剣道を始め、高校までは剣道漬けの生活を送ります。工業系の高校を卒業後、家族で鹿児島に引き上げてきて、電気工事の仕事に就きました。

ところが、絵に関する仕事がしたいという思いが次第に強くなっていきます。高校までは剣道ばっかりだったのに、絵に関する仕事がしたいとなっていったのが面白いです。生まれながらのものなんでしょうか…⁉ そして就職話を断って大谷画材に勤めます。大谷画材は、2024年に惜しまれつつ閉店した鹿児島の古い画材屋さんです。

佳月さんは、ここで「ルフラン(絵具)の、メーカーしか見られない資料を見ることができたり、画材の勉強ができた」そうです。そして大谷画材の2階でやっていたデッサン教室に通います。お父様が油絵を描いていたことから油絵を独学で始め、100号の作品を書いたところ県美展に入選。この作品、すでに高い完成度に達していました。そして次の年の県美展でも入選します。

ところが次の年は落選。スランプになります。そんな時にお母様が「ちゃんとした仕事に就きなさい」といって、今度は京セラの工場に勤めることになります。ここはとってもハードな仕事で、残業が月120時間あったとか。帰ってきて玄関で倒れこんじゃうような暮らしでしたが、その中でも100号の作品を描いて南日美展(南日本美術展)で入選したりもしていました。

が! 無理がたたって、佳月さんはくも膜下出血で倒れてしまいます。

くも膜下出血は、当時は助かる可能性が低かったそうですが一命をとりとめ、その中で思ったのが「絵が描きたい」ということ。そして1年後に京セラを辞め、鹿児島市内で絵画教室をオープンさせます。思い切った人生の選択ですよね。

当然、実績のない若者がやっている絵画教室では生徒さんは集まらなかったそうですが、ここが学生や画材屋時代の仲間のたまり場となります。この仲間でグループ展をしたり、お金を出し合って飲んだり食べたりしたりという、楽しい場所になります。「私は大学は行ってないですが、まるで大学時代みたいな感じでした」。

そんな仲間の一人に「ナガタ君」がいました。「彼は雑学王で、とにかく毎日美術のことを調べていたんです。そして彼と美術の巨匠たちの絵を分析していろいろ議論しました。ある時は私が不在だったんですが、わざわざ絵の分析を丁寧に書き残していったこともあります」

ナガタ君がゴーギャンの《ポン=タヴァンの水車小屋》について書き残したスケッチブック

当時の佳月さんの絵は、私から見ると十分魅力的ですが「上手に描いているつもりでも、上手に描くだけでは展覧会には入選しない」のだそうです。ナガタ君と佳月さんは、巨匠の絵の分析をする中で、画面に描かれるものが、じつに巧妙に配置されているということに気づいていきます。

そしてその配置の秘訣が、「黄金比」や「黄金分割(黄金比による分割)」でした。黄金比とは、1:1.618...のことで、最も調和がとれて美しい比率されています。ピラミッドやパルテノン神殿にも黄金比が使われていますが、この比は工学的に安定した形でもあります。

また、フィボナッチ数列という、1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, …という数列がありますが、これは隣り合う数の比が黄金比に近づいていくという数列で、この数列を矩形の分割に使うことで巻貝の断面のような螺旋が現れます(黄金螺旋)。絵画作品にはこの螺旋も多用されているそうです。

そして、1:√2、1:√3、1:√5のような比率も重要で、これらと1:1(つまり正方形)と1:1.618...(黄金矩形)の5つの矩形が絵画作品の中にはちりばめられているんだそうです。佳月さんは、画集に掲載されている絵に5つの矩形を表すたくさんの補助線を引き、一見何気なく描かれた雲や木々や山、服のシワのようなものが、その補助線の上にぴったり載ってくることを確かめていきました。

そんな中でも、黄金分割や螺旋が巧妙に多用されているのが、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」だそうです。「ホントに黄金分割に基づいて画面構成をしていたのか? と思うかもしれないが、スーラは意図的にしていたらしい」。

ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』

佳月さんはナガタ君とこういう研究を1年半くらい行い、その研究に基づいて黄金分割を画面構成に使った絵を描きます。面白いことに、その絵を描く前に「(断面が黄金螺旋になっているという)オウムガイの怪獣が2匹飛んでる夢を見た」そうです。

そして、その絵が白日展(白日会展)で賞をもらいます! 佳月さんによれば、この展覧会は「どうして私なんかが賞をもらえたんだろうと思うくらい、すごい作品ばかり」。さらに佳月さんは、日展でも特選を2回も受賞します。どこの派閥にも属していないのに特選を取ったことは驚異的です。

「私にとって色彩は難しい。だから黄金分割にこだわった構成を一生懸命やった」。それが評価されて、美術界でも佳月さんのスタイルとして認知され、日展の審査員、そして会員まで務めることになりました(日展の会員というのは、日展に無審査で作品が展示される特別の立場)。

「日展の審査はすごかった。17人の審査員が、たった何秒か作品を見て入選か落選かを挙手で判断するんですが、それが17人全員一致している。みんな手を挙げるか、みんな手を挙げないか。これにはビックリした」ということです。つまり、絵の良しあしは、個人の好き嫌いとか感性の以前に、万人一致した部分があるということです。「ただ、上の賞になってくると、そりゃ人間社会だからいろいろあるので、一致というわけにはいかないですが…(笑)」

しかし佳月さんは、会員になった次の年に会員を辞めて展覧会から遠ざかります。日展の会員というのは芸術の世界での大きな権威なので、事務局からは「会員になってすぐやめる人は、これまで一人もいないですけどホントにいいんですか?」と言われたそうです。ですが、日展と白日展のために継続的に作品をつくっていると、どうしても同じような絵ばかりになり、そもそも「これを表現したい」という内的な衝動が枯渇してしまったのでした。

そうして、佳月さんは「いろんなストレスから解放されて、今は近所の風景などを描いています」とのこと。この10年くらいは、「死ぬまでに完成すればいいかな」と3枚組の5mくらいの巨大な絵を描いているということでした。スケールがでかい!

ただ、制作の方法論が変わったわけではなく、黄金分割を使った画面構成が基本になっています。でもそれはもはや計算というより、体に染みついたものになっているように思いました。そもそも黄金比(や√2や√3を使った比率)は自然界にもたくさん存在しています。有名なのはヒマワリの種の配列(正確にはフィボナッチ数列)ですが、葉っぱの縦横比や大きさの比などもそういう比率が見られます。それはもちろん、人が見て美しく感じるようになっているのではなく、逆に人が自然の美しい形に囲まれて生きてきたからこそ、そういう比率を美しく感じるようになったのでしょう。

広告デザインや企業のロゴにも黄金比は多用されています。特に「くまモン」は巧妙に計算されたデザインだそうです。みんなに受け入れられるものには理由がある、ということですね。

講演後には、会場から「画面構成より、作家が作品に込めた想いを受け取って感動するんだと思っていたが…?」という質問がありました。佳月さんは「作家の表現したいという気持ちが作品の核にあることは大前提」としつつも、「描きたいものを感性のままに描いても、それが見る人には伝わらないかもしれない。それを伝えるために、黄金分割などが必要になってくる」ということでした。

それに、「美術評論なんかを見ても、私の作品に対して私の考えとは全く違うことが書いてある(笑)。それも毎回。評論のプロでも、作家とは感じ方が違う」として、作家の想いを受け取るというより、「作品を見てそれぞれ違う感じ方をする、ということでいいのだと思う」と述べていました。

ところで、黄金分割の研究を共にやっていた「ナガタ君」はどうなったのか? というのが気になりますよね!?

「ナガタ君は、絵を見る目が確かでアドバイスなんかもすごく的確なんですけど、絵では成功しなかったです。それで小説家になって今南日本新聞でエッセイを書いています。皆さんご存知だと思いますが永田祥二さん。西日本の文学賞もたくさんとったすごい小説家なんですよ」とのこと。「ナガタ君」が南日本新聞の2面に毎日載ってる「鹿児島つれづれ小咄(こばなし)」の永田さんだったとはびっくりしました!

「いい絵とは何か? どういうものを人は美しいと感じるのか? 」

というと、「いろんな好みがある」とか「人それぞれ好きな絵は違う」と思っていましたが、「日展の審査員17人全員一致していたように、いい絵とは何か、素晴らしい芸術には一致したものがある。見る人が見たら、いい絵かそうじゃないか一瞬でわかってしまう。ある意味恐ろしい世界」なのだということです。その「一致したもの」の一つが黄金分割なんですね。なお、色彩にも同じような調和する比率があるそうです。

私は鋭敏な感性を持っていないので、「一致したもの」を感じる目はないです。それでも、美術の巨匠の作品と、ジョイフルに飾ってある作品は全然違うことはわかります(私はジョイフルに油絵が飾ってあるのが好きです)。でも具体的に何がどう違うのかは説明はできません。特に花の絵なんてほとんど似たようなものなのに。その違いは、もしかしたら黄金分割にあるのかもしれません。

2025年5月18日日曜日

南さつま市にゆかりある人に広く読んでいただきたい本=『南さつまを歩く』を刊行しました

このたび、私=南薩の田舎暮らし代表(窪 壮一朗)が執筆した本が刊行されました。

『南さつまを歩く——福元拓郎さんのふるさと語り(加世田編)』(南さつま市観光協会)です。

この本は、南さつまの「名物ガイド」である福元拓郎さんのお話をまとめたものです。なので、私が執筆といっても、内容は福元さんによるもの。福元さんは、ふるさとの歴史や変転にずっと関心を持ち続けてきた方です。

福元さんは、「武将の〇〇が××の戦いで…」というような大文字の「歴史」だけでなく、例えば井川(井戸として使われた小川)がどうであったかとか、小学生がどうやって遠くの学校に通ったかといったような、人々の生活の場の歴史にも詳しいのです。

その上、福元さんの語りはとっても軽妙! 単に知識を伝えるだけでなく、面白おかしく、飽きさせずにしゃべるというのはなかなかできることではありません。時々織り交ぜられるギャグもいい味だしてます。

そんなわけで、南さつま市の観光と言えば福元拓郎さん! という状態が続いてきました。

福元さんは「加世田いにしへガイド」というガイドの団体も組織し、ガイドの育成にも取り組んできました。ですが、だんだん福元さんも高齢になってきたため、「福元さんのガイド知識を後世に伝えるために協力してほしい」という依頼がガイド団体の母体(NPO法人南からの潮流)から、南さつま市観光協会に相談がきたのが2017年ごろです。

その頃、私といえば南さつま市の一大イベント「吹上浜 砂の祭典」に協力していて、聞き書きのインタビュー記事をいくつか書いていました(ボランティアです)。2017年の「砂の祭典」がちょうど30回記念大会だったことで作った記事でした。

【参考】おかげさまで30回記念 - 【公式】吹上浜 砂の祭典 in 南さつま
https://www.sand-minamisatsuma.jp/30th/
※上のサイトの中の「「砂の祭典」にかける想い」という記事群が私が書いたものです。

一方、私は南さつま市観光経協会の広報部会では名前だけの(=時々部会に出るだけの)部員だったんですが、「砂の祭典」のインタビュー記事を書いていた関係上、「窪さん、協力してよ」とお願いされたんだったと思います。NPO法人南からの潮流は、当時「砂の祭典」でかなり大きな存在感があって、「砂の祭典」の会議などで関係者と同席する機会が多く、顔見知りになっていたからでしょう。

ただ、向こうからのお願いが具体的にどんなものだったのかは、どうにも思い出せません……。内容はともかく、私は安請け合いしたような形だったと思います。

ところが、実際に福元さんの話をまとめようとすると、さっきの「砂の祭典」のようなちょこっとしたインタビュー記事のようなものでは全く不十分だということがわかりました。何しろ、とんでもなく話題が豊富で、要点だけまとめればいいというようなものではなかったんです。

そこで腰を据えて聞き書きをすることを決意し、結局、約2年かけて27回のインタビューを行いました。1回あたり3〜4時間はかけたので、聞き書きのためのインタビューだけで100時間くらいかかっています。文字起こしとその確認・修正の時間も同じくらいかかっているので、原稿の元になる聞き書き原稿を完成させるのに200時間くらいかかった計算になります。

さらにその後、実際に南さつま市の各地を巡って写真撮影をしました。夏場は草ボウボウになって写真が撮れない場所が多かったので、1ヶ月に1回を基本として冬を中心に2年間かけて回りました。 そんなわけで、インタビューと写真撮影だけで4年間もかかったのですが、さらにそれを原稿として整理する作業がありました。これは鹿児島の出版社「燦燦舎」にご協力いただきました。

そうしてやっと完成したのが今回の本です。しかもこれで終わりではなく、「金峰・大浦・笠沙・坊津編」という、旧4町の分もこれから編集して刊行します。2017年に引き受けたときは、まさかこんな長丁場のプロジェクトになるとは思ってもみませんでした。

結果として出来上がった本は、当初の目的の「ガイドの知識」を伝えるだけのものではなくて、「南さつまを知る」ための本になったと思います。実際、これは観光ガイドのようなものではなくて、南さつま市にはどんな歴史・名所・旧跡があるのか、どんな場所だったのか、 各地域の特徴はどんなものなのか、どんな産業がどうやって発展し衰退していったのか、人々はここでどう生活していたのか、といったことを縦横無尽に語っている本なのです。

特に、自治体が作る郷土誌のようなものとは全く違うのは、「あそこには昔こんな店があって…」「ここの道路が改修されたのは…」というような、生活者視点の現代史が語られていることです。こういうことは、意識的に遺していかないと忘れ去られていくことなので、この本でその一端が残せたことは価値があるのではないかと思っています。

というわけで、観光ガイドとか関係なく、南さつま市にゆかりある人に広く読んでいただきたい本です。なお一般の書店には流通していないので、
きやったもんせ南さつま (加世田)
books & cafe そらまど (大浦)
books & cafe そらまど のオンラインショップ
でお買い求めください。どうぞよろしくお願いします。

 

2025年5月13日火曜日

第17回そらまどアカデミア開催しました。鹿児島市立美術館はいかにして設立されたか?


第18回そらまどアカデミア開催しました。

今回ご講演いただいたのは、鹿児島市立美術館の前館長、大山直幸さんです。

まず驚いたのは、大山さんが館長として市立美術館の歴史を調べるまで、誰も市立美術館の設立の事情を本格的に調べた人がいなかったということ。良くも悪くも、あるのが当たり前の施設になっているのかもしれませんね。

大山さんは市立美術館の歴史を調べるため、同館が70周年を迎えることもあって、毎日県立図書館に通って古い新聞に全部目を通したそうです。

古い新聞って縮刷版なので、見るのがすっごく大変なんですよね。記事がありそうな年の新聞に目を通すというのは私もやったことがありますが、全部に目を通すのはまさに執念! そのせいで「目がおかしくなっちゃった」とか。新聞のコピー代だけで数万円になったということでした。でもそのおかげで、市立美術館がどのように設立されたのか、実証的に解明することができたのです。

そもそも、鹿児島市立美術館は、自治体立美術館としては全国的にかなり早い時期に設立されています。同館が開館したのは昭和29年。これに先行した美術館は、東京府美術館や京都市立美術館などわずかしかありません。市立美術館は当時、西日本では唯一の美術館だったんです。福岡より先行しているとはびっくり。

しかも東京府美術館(現東京都立美術館)は、開館こそ大正15年と早いですが、これは貸会場としての美術館でした。つまり美術品を収蔵するのではなく、エキシビジョンのための施設。同じく京都市美術館も貸会場。美術品を収蔵する美術館は、昭和26開館の神奈川県立近代美術館を待たなくてはなりません。

鹿児島市立美術館はどうかというと、最初から美術品を収蔵してるんです。市立美術館は、美術品を収蔵する美術館としてかなり早い設立!(日本で二番目?) どうして鹿児島には、そんなに早くに美術館ができたのか⁉

キーになったのは黒田清輝の存在。明治の始めに薩摩閥はいろいろな面で近代化をリードしていますが、最初期の西洋画壇の中心となったのが黒田清輝です。

黒田清輝が亡くなったのは、鹿児島市立美術館が開館する30年前の大正13年。

彼の死後、その弟子たちなどが東京で黒田の顕彰のために美術館(黒田記念館)をつくります。ちなみにその建物は黒田の遺産で建設されました。この美術館は現在の東京文化財研究所につながっています。

一方、鹿児島では黒田の顕彰活動をしようという話はあるのですが今一つ具体化しなかったところ、昭和9年頃に当時の岩元市長が美術館設立の検討を始めました。

ここで、ほぼ同じ時期に「歴史館」という施設の設立も検討されます。こちらは比較的スムーズに設立までの動きが進み、昭和14年に開館します。これには藤武さん(鹿児島の有名な豪商)の寄附があったそうです。

黒田の弟子たちは、この歴史館で、当然黒田の顕彰も行われるだろうと期待したのではないか? というのが大山さんの考え。歴史館と美術館をそれぞれ独立して設立するのは費用がかさむので、歴史館に近代洋画史も含めたら合理的だというわけですね。そういえば今の黎明館はその考えで美術品も収蔵されています。

一方、当時、南洲神社の墓地の一角に「教育参考館」というものがあって、そこにあった明治維新の史料が歴史館に移管されることになります。こうなると、歴史館には美術品を展示するスペースがなくなり、結果として歴史館は美術なしになったのではないかと考えられます。というのは、歴史館の開館直前になって、鹿児島にいた黒田の弟子たちが急に顕彰活動を訴え始めているからです。これは「歴史館に黒田清輝の作品が展示されないなら、別に美術館をつくらないと!」という焦りを示唆しているようです。

そしてついに、昭和17年に久米鹿児島市長を会長とする黒田の顕彰会が設立されます。さらに同年、黒田夫人の照子さんが鹿児島市に黒田の作品を寄贈します(この時寄贈されたのが『アトリエ』だと特定したのも大山さんの研究成果!)。照子さんは、有名な作品『湖畔』のモデルとなった人ですが、『アトリエ』の寄贈が黒田清輝顕彰運動の大きな弾みになります。

ここで、照子さんが鹿児島市にこの名画を寄贈したのはなぜ? ということが問題になります。というのは、黒田清輝は鹿児島出身といっても6歳くらいの時に東京に移住しているんですね。ちなみに照子さんも鹿児島出身ではない。にもかかわらず、鹿児島に肩入れしたのはなぜなのか。

そこで黒田清輝の手紙に注目してみると、黒田はお父さん(黒田清綱(養父))には候文で手紙を書いているのですが、お母さんには鹿児島弁を交えて手紙を書いていました。つまり黒田家は鹿児島弁が話されていたらしい。さらには、黒田は高見馬場(鹿児島市の地名)の「高見学舎」にずっと所属しているのです。「学舎(がっしゃ)」というのは、郷中教育を行うグループが明治後に団体として発展したもので、鹿児島県ではいくつかの学舎が活発に活動していました。今でいうと、地元の青年会議所みたいなものでしょうか。これに東京在住の黒田がずっと参加しているわけです。黒田は東京育ちではありますが、間違いなく鹿児島にアイデンティティを感じていたのです。だからこそ照子さんは「鹿児島に黒田の作品を里帰りさせたい」と望んだのでしょう。

ちなみに、黒田の顕彰会の東京側の代表に手を挙げたのが、川内出身の山本実彦です。山本は、『改造』という雑誌で論壇をリードし、また円本(一冊一円の全集類)を生み出した出版業界の風雲児でした。この山本の下で奔走するのが、後に初代の鹿児島市立美術館長となる谷口午二(ごじ)です。このように黒田の顕彰運動=美術館設立運動がにわかに動き出します。

しかし、昭和17年といえば太平洋戦争がもう泥沼になっている時期。美術館の設立の話は当然ながら進みません。鹿児島には大正15年から「南國美術展」という洋画の作品発表の場があり、谷口もこれに関わっていましたが、これが昭和15年の第17回で最後となります。絵の具などの画材も不足し、画家は国家への貢献が審査されて画材が配給されるという翼賛体制になり、自由な芸術は不可能になっていたのでした。ちなみに昭和18年には、黒田の顕彰活動を応援していた藤島武二も亡くなりました。

空襲で鹿児島市街地は灰燼と化し、戦後を迎えます。しかしびっくりするのは、昭和21年に第1回南日本美術展が開催されていること。まだ鹿児島市街地はバラック小屋という時代に、美術展が開催されているのはすごい。

昭和23年、照子さんがまた黒田縁の絵画を鹿児島市に寄贈します。これが黒田の顕彰運動の新規蒔き直しになったものと考えられます。この頃はまだ戦後復興が重要な時期で、美術館どころではないはずなのですが、昭和25年頃には、鹿児島市の勝目市長を中心とし、南日本新聞社など官民が一体となった美術館設立運動が行われました。

ちなみに、空襲で先述の歴史館は焼けていたのですが、外郭は残っていました。美術館は、この歴史館の外郭を使って作られることになります。なので設立当初の鹿児島市立美術館は、旧歴史館と見た目は同じ! これも大山さんの発見でした。改修費用は1000万円の見積もりでしたが市は500万円しか準備できず、県から予算を引き出そうとしますが難航。結局、昭和26年に500万円の予算で着工します(昭和28年に県から300万円の予算がつけられた)。

そして昭和29年が黒田清輝没後30年であったことから、7月に東京で大規模な回顧展が開催されます。そして鹿児島市立美術館は、この回顧展をほとんどそのまま転用して開館記念の黒田清輝展を開催するのです。これは巡回ではなく転用! 「今だったら絶対に許されない」ものだそうです。しかもこの時、黒田清輝の重要な作品がこぞって鹿児島にやってきます。現代ではなかなか外部に貸さない重要文化財や重要美術品が”転用”の展覧会で鹿児島にわんさかやってきたのはなぜなのか? それは、黒田清輝の弟子たちが東京にも鹿児島にもいて、「鹿児島には融通してやらないと」という声がたくさんあったからに違いありません。

こうして開館した鹿児島市立美術館は、(1)開館が早かった、(2)鹿児島にゆかりある画家(特に黒田清輝の弟子筋)が多かった、ということもあり、貴重なコレクションを多数所蔵しているということです。大山さんはこのことを「鹿児島市立美術館は特別待遇されていた」と表現していました。

また、大山さんが強調していたのは「鹿児島市立美術館の設立にあたっては照子さんの力が非常に大きかった。なのに照子さんの功績は忘れられている」ということ。こういう歴史って、意識的に残していかないとすぐ消えてしまうものですよね。

ところで、戦後復興もまだ進んでいない時期に美術館を設立することに対して、市民はどんな感情を抱いていたんでしょうか? 

大山さんによると「当時の新聞を見ていると、”文化国家”という言葉が頻繁に出てくる。日本は戦争に負けたから、これからは”文化国家”でいかないとダメだ、という気持ちが非常に強かったようだ。美術館設立運動は、官民挙げての運動で、ちょっとプロパガンダ的なところもあるので、実際は反対があったとしても新聞には全然書いていないし、”文化国家”へ異論を唱えづらい雰囲気もあったのかもしれない。しかし当時の人は生活もままならない中なのに、芸術に飢えていたというのも確かで、美術館ができるまでの熱気は本物。例えば、昭和22年に松方コレクションが鹿児島にきて展覧会があるんだけど、これには九州中から人が来て、なんと10万人来たらしい。当時の鹿児島市の人口が24万人。ひもじい思いをしても芸術に触れたいという人がたくさんいたからこそ、政財界の人や画家が美術館設立運動を展開できたのだと思う」とのことでした。

明治維新後の薩摩閥のおかげで画壇の重鎮には鹿児島の人が多く、それで美術館が早く設立されたのだろうと単純に思っていましたが、やっぱり一般の人たちも芸術を求める気持ちがあったからこそ美術館が早くにできたんですね。

ところで、私の先祖(曾祖母)が昭和29年の先述の黒田清輝展に行って、黒田のデッサンのレプリカを買っています。そしてその足で画材屋に行って額装した、と聞いています。つまりその時、すでに鹿児島市には画材屋があるんです。ということは、鹿児島市では昭和29年当時に、画材屋が経営していけるだけの需要があったことになります。そういえば鹿児島市って、人口規模の割には妙に画材屋が多い街だったような気もします。なんだか、今の鹿児島って芸術に疎い感じがしますが、元々は割と芸術への感受性が高かったのかもしれません。

講演ではこのほか、鹿児島市立美術館の目玉収蔵品の紹介もありましたがここでは割愛します。また、このメモでは省略した、設立運動の中で活躍した黒田清輝に連なる人たちの話なども興味深かったです。詳しく知りたい方は大山さんが書いた本『鹿児島市立美術館ができるまで』をご参照ください。

2025年5月12日月曜日

第18回そらまどアカデミア「絵を描くこと」を開催します!

6月15日(日)、そらまどアカデミア開催します。

今回登壇してくださるのは、日置市吹上町の野首(のくび)の画家、佳月優(かづき・ゆう)さんです。

佳月さんは廃校になった野首小学校の校舎を「Gallery 野月舎(やがっしゃ)」として、絵画教室を主宰されています。ここは、街の中心部からは離れたところにあり、「そらまど」と似たような奥まった場所です。

【参考】Gallery 野月舎
https://yagassya.my.canva.site/

そういう奥まった場所で静かに絵を描いている佳月さんですが、2006年までは日展会員・審査員等の要職にあったそうです。私は芸術の世界に疎いですが、日展会員というのは日展に無審査で作品を展示できる特別な立場。日展で入賞することだけでもすごいのに、その審査員というのは、いわゆる業界の「権威」です。

佳月さんは、そういう「権威」に自ら別れを告げた方なんです。なんだか、田中一村みたいですよね。

詳しい話を聞いたことはありませんが、佳月さんがこんな田舎で絵を描いているのは、「業界」と距離を取って素直に芸術の道を歩みたかったからではないかと想像しています。

そんな佳月優さんに、人はなぜ絵を描くのか、人はなぜ美しいと感じるのか、といった根源的な話を語っていただきます。これはめったに聞けない講演になりそうです。

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第18回 そらまどアカデミア

絵を描くこと

講 師:佳月 優

人はなぜ絵を描くのか、人は絵を鑑賞しなぜ美しいと感じるのか、美しいと感じるのは何かの理由があるのか、多くの人々が芸術を求めるのはなぜなのか。芸術に携わった 45 年間の短時間の経験の中で感じたもの、また、一般にはあまり知られていない美術の専門的な分野などをなるべく分かりやすく話せれば思います。

日 時:6月15日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:2000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
独学 日展特選2受賞、審査員など、
現在は、上海万博など、海外のイベント等に招待出品
無所属

 


2025年5月6日火曜日

「砂の祭典」はかなりきつかった! けどよかったです。

5月3-5日の3日間は、加世田の「砂の祭典」に出店でした。

今年は3日目の夕方に雨が降った他はお天気に恵まれました。こういうイベントは天気が一番ですよね。

「南薩の田舎暮らし/そらまど」としては、2回目の出店です。これまでも、砂の祭典実施推進本部広報部会の仕事、観光協会のお手伝いなどをしてきたので、GW中は慌ただしいことが多かったのですが、今年はこれまでで一番きつかったです!

というのは、(1)GW直前に家内が体調を崩して、準備はもちろん当日もほとんど働けなかったこと、(2)かぼちゃの生育が遅れてGW中も受粉作業をしなくてはならなかったこと、の2点から、3日連続で連続13時間休憩無しの労働でした。

それでもなんとかこなせたのは、中1の娘のお陰ですね。やっぱり完全に一人だと難しかったと思います。3日間、連続13時間休憩無しにつきあってくれた(といっても途中スイッチで遊んだりしていたので、娘は休憩無しではなかったですが)だけで心強かったです。

ちなみに、当店のメイン商品はジンジャーエールでしたが、天気がよかったこと、競合商品があまりなかったことから売れ行きがよく、それなりにお客さんが来たのも乗り切れた要因です。こういう出店の時、忙しすぎても暇すぎても疲れるんですよね。

結果として、単体のイベント出店としては過去最高の売上がありました(もちろん3日間合計で)。頑張った甲斐がありました。きつかったですが、こうして結果が伴うと嬉しいです。お越しいただいたみなさま、ありがとうございました。

反省点としては、「石蔵ブックカフェ」のお知らせチラシを配るのを忘れていたことがあります。せっかくの機会だったのに惜しいことをしました。「石蔵ブックカフェ」も多くのお客様で賑わってほしいものです。最近、告知がないがしろになっていましたが、地道に取り組んでいかないとですね!

2025年4月30日水曜日

第16回そらまどアカデミア「筆で線を書くのが好き」のゆくえ


 第16回そらまどアカデミア開催しました。

今回の講演は、元々は4月13日に開催予定でした。ところが主催者(私たち)の一身上の都合で、急遽直前に延期し27日に再設定しました。そのため、13日に申し込まれていた方の多くが参加できなくなりました。大変申し訳ありませんでした。この場を借りて改めてお詫びいたします。

講演していただいたのはYoko Wataseさん。フランスで書家として活躍されている方です。講演は、まず作品の制作過程を語った動画から始まりました。

講演の内容は、Yoko Wataseさんの作品を少しでも見たことがないとピンとこないものだったと思います。それは、Yokoさんは「書家/美術家」を名乗っていますが、Yokoさんの作品は普通の書道の作品とは全く違うものだからです。この動画で、その片鱗が窺えるのではないかと思います。

Yokoさんはどうしてこういう「コンテンポラリー作品」を作るようになったのでしょうか。

Yokoさんが書道を始めたのは7歳の時。テレビか何かで書の作品を見て「かっこいい!」と思ったことがきっかけだそうです。ちなみにYokoさんはそらまどがある大浦町の出身。当時、「日本習字」の教室が干拓(地元地名)であって、半年お願いして通わせてもらうことになります。ところが、この教室は2週間で辞めたくなってしまった! それは、お母さまがYokoさんを「ピアノの発表会にでも行くような格好」で教室に行かせて、その恰好をからかわれたから…! しかし幼心に「半年もお願いしていかせてもらったのに、すぐ辞めたいとか言えない…」というわけで続けることになります。ここで辞めてたら人生変わってましたね。

Yokoさんは、「字を書くのが好き」ではなく、「筆で線を書くのが好き」と一貫して言っています。それは、この教室の時に縦や横の線を書く練習があり、先生が「習字の基礎がこの線の練習に詰まっている」とおっしゃったことがきっかけだそうです。

ちなみに、Yokoさんは子供の頃、なかなか自分の気持ちを言葉で伝えられなかったそうです。「頭の中ではいろいろ考えているのにそれがなかなか言葉にならない」という鬱屈した気持ちが、書道と結びついて後の創作につながったのかもしれない、とYokoさんは言います。

Yokoさんは中学生の時に「日本習字」で師範を取って、純心高校に進学。書道部に所属します。ここのレベルがすごく高く、書道漬けの生活を送ります。「私も地元では字がうまいと言われていたけど、純心は県知事賞とか取るような子たちがウヨウヨいるところだった」。書道部なのに朝練や昼練、合宿もあるような部活生活だったそうです。すごい!

しかし、Yokoさんは大学進学では書道を選びませんでした。「書道の世界はピラミッド社会だし、すごく男性社会だった」から。進学したのは系列校である長崎純心大の比較文化学科。ここで第二外国語としてフランス語を選択。面白いのが寮で同室の女の子がドイツに一年留学していて、「この子がドイツなら私はフランスかな」ということでフランス語を選択したそう。私なら絶対「この子からドイツ語教えてもらえるからドイツ語にしよう」と思うところです。このあたりがYokoさんならではの発想かもしれません。

そして、英語以外の言語は、使える人が少ないから仕事にもつながりやすいということで、本格的に勉強したいと思い始め、21歳の時にマルセイユの隣のトゥーロンという街でホームステイします。しかしホームステイ程度ではフランス語は上達しないことを逆に痛感し、大学卒業後の1999年、フランス語の習得を決意してフランスのアンジェという街にあるアンジェ・カトリック大学に留学します。

同大学の卒業後は、日本に帰ってフランス語の教員になるか、逆にフランスで日本語の教員になるといった道も考えたそうですが、ちょうど「フランスで3週間の通訳アルバイトをやってみない?」と誘われてやったその仕事を、結果的に15年続けることになります。いやあ、人生ってわからないものですね。

その仕事の内容は、フラワーアレンジメントの学校の日仏通訳。ここは、生け花のようなものではなくて、教会や店舗の装飾といった、もう少し大規模な花の装飾を手掛けるところでした。ここで通訳をするうち、構造・テクスチャ―・配置などがちゃんとした理論に基づいていることを学び、「美しいものには理由がある」ことがわかったそうです。「感性」ではなく「理論」を学んだんですね。

この仕事をしながら、翻訳や別の通訳の仕事もたくさん手掛けます。そんな中、高校時代の書の作品を飾っていたのを見た人からの「書道も教えられるんじゃない?」という一言がきっかけとなり、気軽な気持ちで生徒を募集したところ、12人集まって教室がスタート。自然と自身の創作活動も行うようになりました。

しかし翻訳・通訳の仕事と書道を両立するのが大変になっていきます。翻訳・通訳のためは、様々な分野の専門用語をその都度学ぶ必要があるからです。でも日本からフランスにまで来て何かをやろうという人は情熱のある人ばかりで、そういう人たちと仕事できたことはよい人生経験だったとか。しかし結局、翻訳・通訳の仕事を全て辞めて書道に専念することになりました。それが10年前だそうです。

では、Yokoさんはどんな作品を創るようになったのか。書道というと、白い紙に墨で字が書いている、というのをイメージしますが、現在のYokoさんの中心的な創作である「コンテンポラリー作品」は、ちょっと違います。

まず「フラワーアレンジメントで学んだ理論から、作品が自然と立体的になっていった」そう。書道なのに立体的! 壁に平面的な作品を張り付けるのではなく、会場と調和するように立体的に作品を配置していきます。そして、パリッとした白い和紙……ではない、テクスチャーにこだわった画面が作品の特徴にもなっています。あえてデコボコした面をつくったり、墨で塗った紙の上に白い紙を重ねて灰色にしたり、あるいは多くの紙を屏風状に連ねたり、そしてそれらの紙はカットするのではなく手でちぎって成形したり……。さらに、反復が多用されていることも特徴。Yokoさんは反復の多用を「無限への志向」だと言います。

……じゃあ肝心の字はどうなってるの? と思いますよね。

これに関し、講演の中でYokoさんが面白いことを言っていました。紙に字を書いてそのままだと「文字を読みたくなるので」、「その上にもう一枚紙を重ねています」と言ってたんです。えっ? 「文字って読むために書くんじゃないの⁉」って思いませんか? ただ、これに文字を読めなくする意図はなく、「言葉を「奥に持っていく」「過去や思い出の中の景色に委ねる」ために、上から紙をかぶせた」そう。

また、Yokoさんがこれまでの中で一番気に入っている「壁抜け」という作品。これは、帯状に切った紙に文字を書いて、それを縒り合わせて作られていますが、縒り合わせる過程で当然文字は読めなくなります。というか、もはやそこに文字があったことさえ、わからない。

つまりYokoさんの作品では、文字は読まれることよりも、文字を紡ぐという行為を通じて世界観を表現することに重点が置かれています。これは、「達筆すぎて読めない」という書道あるあるではありません。読まれる前提ではなく、文字が「解体」されて再構成されているのです。デリダの概念を使えば「文字の脱構築〈déconstruction〉」というべきでしょう。

…と私は理解しましたが、Yokoさんには「文字を解体しよう」というつもりは全くないみたいです(笑) 。ただ、文字自体が主役ではないのは確か。

ちなみに、作品のテキスト(文字)はYokoさん自身が書いた詩。わざわざ詩を書いているのに、それを解体して読めなくするって、なんか不思議だなと思いました(作品によっては必ずしも読めなくなるわけではないですが)。読める読めないは関係なく、やっぱり詩は必要!!

でも、どうせ読めなくなるなら「最初から字じゃない線を書いたら?」と思って質問してみたのですが、「その質問予想してました! 字じゃないと線の表現がうまくできないんです」とのこと。たしかに「線」だけだとあまりに抽象度が高くてかえって表現しづらいかも。文字って数千年かけて培われた線表現の凝縮ですもんね。表情のある線を生み出すために文字の力を借りているのがYoko作品なのかも? 文字のために線があるのではなく、線のために文字がある!

今後の活動について、Yokoさんは「ただ作るのみ」と言ってました。そして、これまでは規則正しい生活の中で徐々に作品を創っていくというタイプの活動がメインだったそうですが、これからは「アーティスト・イン・レジデンス」で一気に仕上げるタイプの創作も取り組んでみたいとのことです。

「アーティスト・イン・レジデンス」とは、最近日本でもよく言われる「どこかに滞在して集中して2週間くらいで作品をつくる」みたいなやり方。戦前の文豪は温泉宿に逗留して作品を書いてますが、あれと一緒ですね。

Yokoさんは現在、2年間限定で日本に滞在していますが、これも一種の「逗留創作(アーティスト・イン・レジデンス)」かもしれません。そんな日本滞在ももうそろそろ終わりです。フランスに帰ったら、日本での経験も作品に昇華されることでしょう。「そらまど」での講演も作品につながる経験になっていたらいいのですが。これからYokoさんがどんな「線」を生み出すのか楽しみです。

2025年4月22日火曜日

田植え終了。「便乗値上げ」の予定です。

4月16日に今年の田植えが終わりました。

といっても、私はそんなに面積はないので、たった一日で終わったんですけどね。(でも機械のトラブルなどで一日で終わらない年も多い。)

それに、田植え自体は一日ですが、その前の耕起・代掻きなど含めると半月ほどの作業があります。苗作りまで含めるともっとですね。ですから、田植え自体は1日でも、やっぱり「ようやく田植えが終わったな」という感慨があります。

栽培方法自体は、今年も例年と同じです。肥料は投入せず、緑肥(レンゲ)のみです。ただし非常に少量ですが堆肥は入れています。微量元素を補給する必要があるためです。もう少し堆肥は入れた方がよかったかもしれません。

ところで、「米が高い!」というのは、みなさんからすると困ったことですが、 米農家としてはもちろん有り難い。しかし米の値段は上がりすぎだろうと思います。これまでの約2倍とはこれ如何に。

というのは、昨年の収穫後の卸価格はこのあたりでは平年より2割高くらいではありましたが、普通作の地域でも2倍も高かったところはないんじゃないでしょうか。集荷の頃の価格よりずいぶん上がってます。

それに、政府備蓄米もまだ本格的に流通しているわけではないとはいえ、備蓄米だから安いということはないようです。

つまり、「安く仕入れた米を高く売っている人(業者)がいる」ことは間違いありません。 米の高騰については政府の政策を批判する声が大きいですが、今回の高騰については民間業者の流通の中に大きな問題があります。お米の絶対量が足りないのではなく、お米の流通量を調節することで儲けている人がいそうです。少なくとも、今回の高騰で儲かっているのは農家ではありません。

というわけで、今後は「農家に恩恵がある形」のお米の価格になっていけばと思っています。 うちはそもそもインターネットで直販しているので市況とは直結していませんが、うちでもこの米高騰に便乗(!?)してお米の価格を上げたいと思っています。便乗値上げですみません。しかし市場価格程度の値段にするものですので、どうかご理解ください。

 豊作になりますように!