2024年4月26日金曜日

第10回そらまどアカデミア開催しました! 「土地改良」は町のインフラ整備の強力な武器だった

第10回そらまどアカデミア開催しました。

今回のテーマは「大浦町の土地改良」ということで、とてもニッチな(?)ものでした。何しろ、「大浦町」と「土地改良」という、かなり狭い範囲のことを掘り下げるものですからね〜。

そんなわけで、事前にお申込みいただいた方は正直少なかったのですが、当日参加の方も含めて計11人にご聴講いただきました。思いのほかたくさんの方に聞いていただけてよかったです。

さて、改めて「土地改良」についてですが、実は、私も講演を聞く前は、表面的にしか理解していなかったんです。

「土地改良(農業農村整備事業)」とは、「田んぼや畑を効率的に耕作できるようにするため、地形や土地の条件を改善したり、道路や水路を造ったりして環境を整えること」です。つまり農業のインフラづくり。もちろんこれが「土地改良」の本筋です。

しかし、講師の山之口大八さんは、「土地改良」を
(1)生活が安定するように
(2)住みやすくするように
(3)安心して生活できるように
する事業だと言います。「土地改良」だからといって農業限定ではない…!? 

山之口さんは、旧大浦町役場でずっと「土地改良」を担当しており、「土地改良」の裏の裏までご存じ。例えば、そらまどの前の道路は、今でこそ普通の市道ですが、元々は「シラス対策事業」によってできた道だったそうです。

「シラス対策事業」とは、台風や大雨でシラスが崩れたり土壌が流亡したりするのを防ぐため、用排水路をつくる事業です。つまり、そらまどの前の道路は、元はシラスが崩れないようにする排水路で、その水路の管理のために付属して造られた管理道だったのです。知らなかった…!

もちろん、その事業で整備する前から道自体はあったはずですが、道路の拡幅やアスファルト舗装などをするにはとてもお金がかかります。大浦町は過疎の弱小自治体でしたので、そうした予算は捻出できないわけです。一方シラス対策事業は補助率95%の補助事業。たった5%の手出しで、生活道路の舗装などができたということになります。

こんな感じで、予算のあまりなかった大浦町にとって、「土地改良」の補助事業は、町のインフラを整える強力な武器となりました。山之口さんによれば、大浦の各集落を通っている幹線道路は、ほとんどが「土地改良」の補助事業を活用して整備したものだということです。

それどころか、大浦町では、宅地、水道、下水道、バス停(の待合所)、公民館、街灯、公園までもが「土地改良」の事業を活用してつくられました。例えば、有木交流館や榊交流館は農業の交流施設として建設されたものだそうです。「公民館そのものは補助事業では造れないけど、農業に使う交流館と位置付ければ土地改良事業で整備できる。でも実際は公民館として使えるわけだから」とのこと。バス停の待合所も「農業の休憩・準備施設」として整備したそうです。

山之口さん自身、そういうのは「屁理屈です!」とおっしゃっていましたが、それが税金の無駄遣いかというとそうではなく、「国庫補助事業は、ちゃんと国の会計監査を受けるし、費用対効果を計算して認められないとできないわけだから、市町村の独自事業よりかえってちゃんとしている」そうです。

全国的にも、「土地改良」事業は農村整備に大きく活用されており、ヘリポート、飛行場、温泉、プール、発電所、水族館、海水浴場までもつくられたそうです。長島の伊唐島(旧東町)では、伊唐島大橋まで含めて総工費130億円で農免農道が整備されました。この事業では橋が離島架橋だったため補助率が99.5%(!)あって、町としてはたった数千万円の負担で100億円以上の事業ができたのです。これは島の農産物を運ぶという名目で整備されたのですが、島の農地は200ヘクタールくらいしかなく、費用対効果の点で「よく説明できたなと感心する」とのことでした。

大浦町の顔である干拓直線道路も元は農免農道です。農免農道とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道」のことで、これはガソリン価格に上乗せされている「揮発油税」(道路特定財源)を活用した農林水産業のための道路でした。

こうしたことを考えると、「土地改良」事業は、都市から田舎への再配分として機能していた、ということができると思います。税収に乏しく、自前でインフラ整備ができない農村の自治体にとって、「農林水産業の振興のため」という大義名分で使える「土地改良」事業があったことは、町づくりにも大きく役立ちました。大浦町についていえば、「土地改良」がもしなかったら、今のような町にはなっていなかったでしょう。

しかし道路特定財源は2009年に一般財源化され、「土地改良」事業全体の予算も半減しました。都市から田舎への再配分があまり行われなくなったのです。また、大浦町の場合は、合併して南さつま市になったため、田舎のちょっとした生活インフラを含め農村整備する「土地改良」は優先度が低くなり、事業は激減しました。しかし大浦町の場合、合併前に積極的に「土地改良」を行ってきたため、町内のインフラがだいたい整ってきていた、ということも事実だと思います。合併のタイミングがよかったんですね。

このように、「土地改良」は田舎へお金を引っ張ってくる大事な手法だったのですが、実はお金を引っ張ってくる性格が全然なかったのが、今回のもう一つのテーマである大浦干拓です。

大浦では、安土桃山時代から干拓が始まっており、下田間の田んぼ(今、役場や農協があるところ一帯)は安土桃山時代の干拓でできたものです。江戸時代には島津直轄で干拓がたびたびおこなわれるなど、大浦は干拓の適地でした。

そこで戦時中に計画されたのが、今の広大な大浦干拓で、昭和17年に国営事業(農地営団開発事業)として採択されます。山之口さんによれば、「仮に事業を国が設けたとしても、それを採択しようとして計画し動く人がいなければ始まらない。この時代の大浦(当時は笠沙町)に手を挙げる人がいたことがすごい」とのこと。この時は、鹿児島県で8事業が手を上げましたが、採択されたのは大浦干拓を含む3事業でした。

ところが、戦争が激しくなってきて、国家予算のほとんどは軍事費になってしまいます。さらに労働力の中心である若い男性は徴兵され労働力もなくなり、事業の継続は不可能となりました。しかし大浦町では、労働力は地元でなんとかするからと事業継続を訴え、戦争中は小学生まで動員して手弁当で干拓を続けました。

なお干拓事業で問題になるのは漁業権の問題ですが、大浦では干拓のために漁業権を全て放棄しているそうです。

終戦後、工事はいったん中止されますが、なんと終戦からたった17日後には工事が再開されます。国が崩壊したのにすぐ工事が再開されているのは、地元の人が自らやっていた工事だったことを物語っています。ところが工事再開から1週間後、超大型台風「枕崎台風」が襲い、せっかく作った汐止めが破壊されます。それでも事業は継続されました。大浦干拓第一工区は、大浦や笠沙の人たちが自ら作り上げた干拓なのです。

昭和22年、大浦干拓は農林省の事業に改めて採択され、大浦干拓第二工区の工事が始まります。ここからは請負業者が入っての工事で、第一工区とは違って道路も計画的に作り、客土も行われました。こちらは昭和40年度に完成。その時にすでにヘリコプターでの農薬散布が行われていたというのは驚きです。大浦干拓は、大浦に農業機械の導入を促し、近代的農業をもたらしました。現在でも大浦干拓は耕作率100%で、大浦の農業の中心になっています。

しかし、他の地域の干拓も大浦干拓のようにうまくいったかというとそうでもなく、国営事業で整備された場所も、100%が田んぼとして使われているのはむしろ少数派。山之口さんは、「全国の干拓地を見てきたが、田んぼだけで100%耕作されているのは大浦干拓くらい。大浦干拓は地域の宝」と言っていました。

実は、鹿児島市でもみなさんのなじみ深い地域が干拓地なんです。それは谷山! 今ラ・サール高校があるあたりも実は元は海。ここは昭和のはじめまでに完成した和田干拓の場所です。さらに戦後に行われたのが谷山干拓で、200ha近くあり、以前木材団地になっていた場所です。これらはもちろん、元は農業用地として造成されたのですが、後に用途変更を行って、今は街になっているというわけです。

ということは、農地の造成「土地改良」がなかったら、谷山の街だってずいぶん違うものになっていたでしょう。イオンなんて建てる場所なかったでしょうね(笑)

講演を聞いて、今まで農業の話としか思っていなかった「土地改良」が、いかに農村のインフラ整備や都市的な発展に役立ってきたかが分かり、目からウロコでした。農業は、農村の生活と一体に行われるものであるからこそ、「土地改良」が大きな広がりを持って町作りに役立ってきたんですね。今般、「土地改良」の根拠法である食料・農業・農村基本法が改正されようとしていますが、それが農業の振興のみならず、農村の発展に役立つものになるように期待しています。


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