この本棚、知人の伝手でいただけることになったのですが、なかなか歴史ある代物です。
この本棚は、元々「床次文庫(とこなみぶんこ)」という蔵書が保管されていたものです。昭和10年頃に特注で作られたものとのことでした。
では「床次文庫」とは何かというと、これがちょっと長い話になります。でもここで書いておかないと私も忘れてしまいそうなため、しばらくお付き合い下さい。
さて、戦前の政友会の幹部で、新照院町(ホテル城山があるところ)出身の衆議院議員に床次竹二郎という人がいました。
床次竹二郎は、明治23年に東京帝国大学政治学科を卒業後、徳島県知事、秋田県知事、内務次官、鉄道院総裁等を歴任しました。さらに大正3年には衆議院議員に初当選し、内務大臣(原内閣)、鉄道大臣(犬養内閣)、逓信大臣(岡田内閣)に就任しました。
昭和10年、心臓病にて享年70歳で死去しますが、郷党有志に懇請によってその蔵書を郷土に寄贈することとなり、「床次文庫」が創設。その蔵書保管の為に作られたのがこの本棚というわけです。
「床次文庫」は、最初は県立図書館で保管してもらう希望だったようですが、県図書では独立保管することに難色を示し、やむを得ず鹿児島新聞社がこれを管理します。ところが昭和17年に鹿児島新聞社・鹿児島朝日新聞社が統合合併(→今の南日本新聞)すると、新聞社での蔵書管理が難しくなり、「床次文庫」は「敬天舎」に移管されました。
この「敬天舎」とは何かというと、岩崎行親(ゆきちか)と岡積(おかづみ)勇輔が中心になって大正14年に設立した青年の勉強会です。
岩崎行親は安政4年生まれ。讃岐国(香川県)出身で、鹿児島の一中(現鶴丸高校)の校長、第七高等学校造士館(現鹿児島大学)の校長を歴任した教育者でした。
もう一人の岡積勇輔は、明治15年生まれ。千石馬場の豪商の息子で、従軍の後、岡積度量衡店を経営、技術者として頭角を現しました。「敬天舎」は、岩崎行親に私淑傾倒していた岡積が世話人になって、岩崎の思想を青年に伝えるために創設されたもののようです。
「敬天舎」は、岩崎行親の没後にその著書を公刊するとともに、政治的な教育団体(松下政経塾みたいなものでしょうか?)として発展していきます。会員(同人)数も大変多かったそうで、独自の屋舎を持っていました。勉強会が独自の建物を持っているなんてすごいですね。
屋舎は何度か変転していますが、現在残っている屋舎は磯の尚古集成館のすぐ隣にあります。この立地は、岡積家の本宅が磯にあったことによるものだそうです。
ところで「敬天舎」は、城山の環境保全運動にも取り組んできました。古くは昭和5年頃に城山に自動車道路を開削する計画に反対しており、翌年城山は史蹟名勝天然記念物に指定されています。
また昭和30年代には、城山観光株式会社が保護区であることを知りながら、駐車場の造成のために史跡の土塁を崩したりクスノキを伐採したことを問題視して反対運動を起こしました。運動の結果、文部省文化財保護委員会から城山観光株式会社に原状復帰の行政命令あり、文化財保護法違反の有罪判決があったということです。
さらに、昭和30年代末には、城山観光株式会社が照国神社からホテルまでロープウェイを架設する計画を立てたそうですが、これにも「敬天舎」は反対して施工が中止となっています。
そんな「敬天舎」ですが、近年は会員数の減少や高齢化によって活動が低迷していました。そのため屋舎の維持を断念することとなり、土地建物の返納が決議されました(要するに取り壊し)。ただし舎の勉強会は場所を変えて引き続き続けていくことになったそうです。
そこで、床次文庫の本棚(計5つあったようです)を急に処分しなくてはならず、そのうちの一つをうちがいただくことになったわけです。
この本棚、不思議な構造になっていて、両面にガラス戸がついています。図書館では両面本棚は普通ですが、両面ガラス戸の本棚は珍しいです。ちなみに幅が60センチもあります。早速古民家ブックカフェの本棚スペースに配置してみたらすごい迫力でした! 歴史ある本棚を分けていただいて本当に有り難いです。
ちなみに、床次文庫の本の方ですが、昭和の終わり頃に自治大学地方自治資料センターに寄贈されているとのことです。
ところで今回の話を聞いて「うちも使ってない本棚あるんだけどいらない?」という方がいらっしゃるかもしれません。そういう場合は有り難くいただきます! …と言いたいところですが、「合板が使われていない」のを条件とさせてください。贅沢なようですけど、古民家は梅雨時期の湿気がすごくて、合板がカビだらけになっちゃうんですよね…。
合板が使われていない本棚というと、概ね昭和30年代以前のものになると思います。基本的に本棚はDIYで作り付けする予定ですが、そういう古い本棚があればご連絡下さい。
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