2022年10月2日日曜日

「ブックトーク「儒学・国学・廃仏毀釈」小川景一×窪 壮一朗」を開催します!(10月9日(日)) 

10月9日(日)、ちょっと変わったイベントをします!

ブックトーク「儒学・国学・廃仏毀釈」小川景一×窪 壮一朗

長くなりますが、このイベントの企画趣旨など説明したいと思います。

発端は、もちろん拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』の刊行です。販促の意味も兼ねて、記念のイベントをしたいと思っていました。しかしただ本の出版を祝ったり販売したりするだけでは自分が面白くない。

そこで、儒学や国学に造詣の深い小川景一さんと対談すれば、拙著でボンヤリとしていた「思想的な部分」が自分でも見えてくるかもしれない、そう思って企画したのがこれなんです。

具体的には、小川さんと対談しつつ、互いに本を紹介して「こういうこともある」「このことも重要」などと放談し、「思想的な部分」に肉薄したいと思っています。

では、その「思想的な部分」とは何かというと、ズバリ「儒学と国学がどう接続して、廃仏毀釈や国家神道にどう繋がっていったか」ということです。ここから以降はかなり専門的な話になりますので、ご関心のある方のみお読みください(笑)

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さて、江戸時代の中頃から「国学」が勃興してきます。これは、日本古典に使われた言葉の意味を厳密に考証してその原意を明らかにし、古代日本のあり方に迫っていく学問です。特に国学を大成した本居宣長の主著『古事記伝』は、古事記の一言一句の凄まじいばかりの考証によって現代の古事記研究の基礎にもなりました。

その本居宣長は、古典研究にあたって中国風の概念「からごころ」を廃すことが重要だと考えました。というのは、日本の古典といっても実際には漢文(や変形した漢文)で書かれているので、古代人の語りそのままではなく、漢文(中国語)に翻訳された言葉を通じてそれに触れるということになるからです。なので宣長は、古典から「からごころ」を濾過して取り除き、古代日本人の生の声を再構成しました。

その結果宣長は、古代日本人には「からごころ」である儒教風の倫理秩序はなく、それどころかそういう人為的な規範がなくてもあるがままで国が治まっていたと考え、その点で日本は中国に優越していたと見なして儒学者と対立していきます。

これは宣長に始まったことではなく、その師・賀茂真淵から受け継いだ態度でもありました。儒学者・荻生徂徠の弟子・太宰春台の『弁道書』には、中国の聖人以前に「道」はない、と言う主張があり、これに真淵は反発します。真淵は著書『国意考』で、日本には日本の道「自然(おのずから)の道」があると主張。それどころか、戦乱が相次いだ中国よりも日本の方が神武天皇よりの皇統が連続しているから優れている、として儒教批判を繰り広げました。

さらに宣長も、『弁道書』への反論として『直毘霊(なおびのたま)』という本を書き、儒学の教えは欺瞞と虚飾に満ちたものであると否定しました。もちろんこういわれると儒学者としても黙ってはおれないので、「直毘論争」または「国儒論争」という論争が国学者と儒学者の間で巻き起こりました。

国学の方法論そのものには儒学と対立する要素はなく、むしろ国学は儒学の一派といってもよかったのに、こうして国学と儒学は仲違いしていきました。

ところが面白いことに、その主張内容は却って近接していきます。特に近接したのが水戸学です。水戸学は、水戸光圀の「大日本史」という日本史編纂プロジェクトを通じ、歴史観を中心とした思想を発達させた儒学の一派です。彼らは歴史の「正統」を考究する中で、皇統の連綿(=万世一系)や、その正統の証明である三種の神器など、神懸かりな領域に突入していきました。

藤田幽谷の弟子・会沢正志斎は、幕末に発表した『新論』の中で、国体論によって人心を統一して国防にあたろうという尊皇攘夷思想を喧伝します。そして具体的には、国家的な祭祀の体系を整備して人々に崇敬させることを構想しました。当然、そこではキリスト教はおろか仏教も胡神(外国の神)として不純物扱いされ、純粋な日本の「国体」のための神道が国家の中心におかれて祭政一致主義が打ち出されたのでした。これは後に述べる平田篤胤の「復古神道」とほとんど同じ主張だったのです。

「復古神道」について述べる前に、時間を遡って儒学のもう一つの一派について触れなければなりません。それが山崎闇斎の系統(闇斎学・崎門学)です。山崎闇斎は民間の儒者でしたが、とんでもなく厳しい指導によって宗教的なまでの儒学を作りあげ、やがて本当に宗教化して「垂加神道」という神道を創始しました。儒者が神道化していったこと自体が後の儒学の「神懸かり化」を予見しています。

闇斎がまだ神道化しないうちの弟子に浅見絅斎(けいさい)がいました。彼は朱子学の形式論を推し進め、現状の君臣関係を絶対化し、それを儒者らしく「道」だとします。そしてこれを突き詰めると徳川すら天皇の臣ということになり、将軍は「天子の御名代(代理人)」として統治しているに過ぎないと考えました。これは後に本居宣長が『玉くしげ』で主張する「大政委任論」とほぼ一致することになるのです。絅斎も宣長も、現状の秩序を肯定する立場でこのような主張をしたのですが、幕末になるとこれが倒幕の論理となっていくのはなんとも皮肉なことです。

さらに浅見絅斎は、『靖献遺言(せいけんいげん)』という本を書いて「殉忠の思想」を喧伝します。これは中国の「殉教者列伝」というような本ですが、命を犠牲にして忠義を貫いた人間を称揚することによって、幕末には尊皇のバイブルのような存在へとなっていきます。

国学の方に話を戻すと、本居宣長を師と仰いだ平田篤胤は、宣長が恬淡としていたその宗教観の方をどんどん発展させていきます。篤胤は死後の世界に強い興味を抱いていました。最初の妻が死んだ年に書いた『霊能真柱(たまのみはしら)』で死後の世界を語り、その後も厖大に叙述します。さらに神話を再編集し、国学を宗教化していきます。宣長の頃の国学はまことに地味な学問で、宣長をついだ本居家の学者たちも歌学を講じていた保守主義者だったのですが、篤胤は国学に強烈な宗教性を注入して、「日本古代にそうであったに違いない神道」=「復古神道」を興すことを目指していきます。当然のことながら、そこでは仏教は外来のものとして排斥され、日本古来の神を敬うことこそが重要だとしています。

ちなみに先ほどの太宰春台の『弁道書』でも、民間で祀られているものは禁じ、仏教や修験などの世話にはならない方がよいといった記載が見られます。春台は儒者らしく「天子」が統べるべきという考えから、雑多な宗教ではなく「天子」を中心とした祭祀へと人々の宗教を一本化した方がよいと主張していました。

このような思潮がぐるぐると渦巻いていたのが幕末という時代です。儒学と国学は、学者の間では対立していたのですが、それが幕末の志士たちにどう受け取られていたかというと話が別です。例えば薩摩の島津久光は『靖献遺言』を愛読書としたといいますが、平田篤胤の『古史伝』も読んでいます。西郷隆盛は陽明学(儒学の一派)を学んでいましたが、安政期には気吹舎(いぶきのや=平田篤胤の塾)をたびたび訪れ、同行者を入門させていました。これは薩摩藩だけのことではなく、多くの志士たちが国学と儒学の双方に影響を受けていました。

それは、その結論において儒学と国学がほとんど一致していたからです。日本の正統な統治者は将軍ではなく天皇であるという考え。仏教を外来のものと見なし、日本古来の神への国家的祭祀を行うべきとする祭政教一致思想。そして中国ではなく日本こそが世界の中心(中華)であるとする国粋主義、といった点においてです。

しかしそういった共通部分が、当の儒学者、国学者たちにどの程度親近感を抱かせたのかというと、どうもそこがよくわかりません。多くの共通点がある分、かえって細かい違いが対立を深める形になったような気がします。このあたりは私自身詳しくないのですが…。

そして明治維新を迎えると、まず政府が宗教政策を任せたのが国学者たちでした。特に津和野藩(長州藩の隣藩で政治力があった)の国学者と、平田系の国学者が重用されます。彼らはほとんど同じ思想を持っていたのですが細かい点で食い違い、何をするにも話がまとまらないので、明治4年に平田系の国学者が排除されます。

そしてこうした動きの背後で、宗教政策において儒学者が幅をきかせるようになってきます。特に長州藩出身の小野述信(のぶざね)は、国民教導政策において「小野神学」と呼ばれるような宗教的儒学思想による行政を進めました(述信は、系統的には儒学者ですが国学者と呼ばれることもあります)。

そして不思議なことに、あれほど「からごころ」を否定していた国学者たちは、いつのまにか儒学風の封建道徳を喧伝するようになりました。明倫、忠孝、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の彝倫(いりん)といったものです。これは、平田篤胤が復古神道の構想にあたってその倫理観に儒教道徳を据えたためと言われていますが、私はその点は原典で確認していません。仮にそうだとしたら、誇大妄想なまでに日本ナショナリズムを推し進めた篤胤が、なぜ道徳観を儒学から借りなければならなかったのか不思議です。

それはともかく、幕末から明治にかけて、儒学と国学が互いに思想的に近接していったということは間違いないことだと思います。そして儒学と国学の力が合わさることによって、廃仏毀釈が起こされ、また国家神道に繋がっていくと考えられます。明治23年の「教育勅語」は、後に国家神道の聖典のような存在になっていきますが、そこにはかつての国学の面影はもはやなく、忠孝、義勇、徳、修学といった儒教道徳で貫かれています。でもそれが完全に儒学的であるかというとそうでもなく、四書五経などの中国古典から切り離された宗教的な(教育勅語は各学校で奉安殿に安置された)ものであるのが特徴です。

儒学と国学が協力して国家神道を生んだというよりは、そのどちらもが変容することで時代を支配する思想が生まれていったようなのです。

というのは、——ここからは私の妄想も入って来ますが——儒学も国学も、どうも「宗教」を目指していたような感じがするんです。

儒学は元々「儒教」からその宗教性を排除して学問化したものです。では排除した宗教性は何かというと「礼楽」、つまり天地祖先を祀る儀式(礼)と音楽(楽)です。だから、儒学には宗教に必要な道徳や至高の存在(天)といったものはありますが、(儒には元来あった)祭祀の方法・儀式がなく、祀るべき対象(天)が抽象的でした。

一方、国学は古代の神々の世界を蘇生させましたが、宗教ならば備えていて当然の、道徳や人間としての規範は全くありませんでした。元々、本居宣長がそうしたものを人為的なものだと退けていたからです。

つまり儒学と国学は、どちらも単独で「宗教」となるには欠けたピースがあったわけです。それが、明治政府の宗教政策の結果、互いに足りないところを補い合うことになります。確かに、政府内では国学者と漢学者は対立し、例えば皇学所・漢学所というそれぞれの学校では互いに誹謗中傷を繰り返しました。しかし宗教政策全体を通じて見れば、それぞれの強みを採り、弱みを補うような取捨選択がされていった結果、儒学の道徳性と国学の神学性が政策的にハイブリッドされることによって、後に「国家神道」と呼ばれることになる国家宗教が生まれていったと考えられます。

と、言葉にするのは簡単ですが、思想の淵源を考えてみると、儒学と国学は水と油。簡単にはハイブリッドできないわけです。どこがどう接続し、誰によって思想が変容していったのか、具体的に述べよと言われると、特に儒学の知識が私に足りないこともあって、なかなか言語化できません。

というわけで、当日どこまでこうした内容に迫れるかはわかりませんが、小川さんの該博な知識を引き出して、自分なりにそのヒントを摑めたらと思っております。まだ若干定員の空きがあるので、こうした話にご関心のある方はどうぞご来場下さい。

↓お申し込みはこちらから(10月2日時点で残り7名)
https://forms.gle/zaoz8aAJXEgLRa3W9

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