今回の講師は、福岡を拠点に活躍している古墳写真家のタニグチダイスケさんです。福岡からバイクでお越しいただきました。しかし当日は土砂降り。バイク移動には厳しい天候でした…。
さて、今回のテーマは「九州の古墳における横穴式石室とその特徴」。薩摩半島には古墳がほとんどないので、身近なテーマではなかったかもしれません。また、古墳といえば、「大山(だいせん)古墳」のような巨大な前方後円墳をイメージされる方が多いので、「九州の古墳」なんてたいしたことないんじゃないの? という先入観もあるかも。
しかし! 今回の講演で、タニグチさんは、九州の古墳の面白さと美しさを存分に伝えてくださいました。ここまで奥深い世界だったとは…!
そんなタニグチさんが古代に興味を持ったのはなんと2歳半。ツタンカーメンが入り口だったとか。やがて日本の古代に関心を向け、小学生の頃から古墳を追いかけるようになったんだそうです。すごいですね。
古墳は、日本全体に16万基以上もあると言われており、コンビニの3倍もあります。古墳時代に先行する時代にも、甕棺墓といったお墓はあったわけですが、古墳でも最初は竪穴を掘って、そこに遺体・棺を納めるという形になっています。ここでは石室、つまり遺体を納める部屋はありませんでした。
そして3世紀半ば、竪穴式ではあるのですが、壁を割石積みで作ってまるで部屋のような構造を持つ墓が徳島で登場。これは竪穴式石室と呼ばれています(これは石室ではなく石槨であるという主張もあります)。なお、この割石積みは、徳島で産出する緑泥片岩(層状に割れやすい緑の石)を板状にして、それを大量に積み上げて作ったものでした。
さらに佐賀県の唐津にある「谷口古墳」では、同様に精緻な割石積みによって、合掌造りのような形で部屋がつくられています。古代ローマでは石積みが発達してアーチ状構造が生まれたのですが、日本ではブロック状の石を積むアーチ状構造は生まれず、不規則に板状(棒状)に割った石を細かく層状に積み上げ、天井に向かって徐々に壁を狭めるという合掌構造によって石積みの部屋を造りました。この石積みの美しさはもはや官能的ですらあります。
谷口古墳 [撮影タニグチダイスケ] |
注目すべきことに、この「谷口古墳」には、その合掌の頂点の部分(つまり天井部分)に横口が設けられていました。これは出入りに使うのは困難なため実用的ではなさそうですが、「横口を設けるという思想」が入ってきたようです。それまでの竪穴から、横穴をつけるというのがイノベーション!
そして福岡の「老司(ろうじ)古墳」では、ちゃんと出入りできる横穴が設けられており、追葬(追加での埋葬)が行われていたらしき形跡があります。なぜ横穴になっていったかというポイントはこの追葬にあります。一人きり・埋めっきりの墓ではなく、一族が死亡するたびにそこに埋葬することを前提として、出入りする横穴が必要になったわけです。
こうして畿内ではまだ竪穴式が続いていた時代に、九州北部では横穴式が発達していきました。古墳の埋葬施設が、まず竪穴で地下にもぐり、そこから横穴を潜って玄室に至る、という2段階構造になっていったのです。
一方で熊本でも石室が発達していったのですが、面白いのが「小鼠蔵(こそぞう)1号墳」。この古墳は小島につくられています(今は陸続きになっている)。石室はやはり割石積みで、コの字型に3体の遺体を並べるようになっていました。石室下部は石障(せきしょう)という板状の石がめぐらされています。これは横穴式なのかどうか判然としませんが(横穴なのか、単なる破壊なのかどうかわからない穴が開いている)、タニグチさんは横穴説を採っていました。だとすれば熊本で最古の横穴式石室(肥後式石室という)ということになり、小さな小島から新しい動きが始まっていることが面白いです。
「小鼠蔵1号墳」には、もう一つ新しいことがあります。それが石棺の装飾。小さな円がたったひとつだけですが石棺に刻まれているのです。石棺の装飾は、大阪の「安福寺石棺」や福井の「足羽(あすわ)山山頂古墳」の石棺に直弧文(ちょっこもん:直線と曲線を組み合わせた幾何学模様)が刻まれている例があります。しかしなぜか畿内では古墳内の装飾は普及せず、これらとは無関係に熊本の小島の古墳に突如として装飾が登場したのです。
直弧文 [撮影タニグチダイスケ] |
では、この円の線刻は何を意味しているのか? それは銅鏡ではないのかというのが有力な説。豪華な副葬品が準備できないので、それを絵に描いたというわけですね。これから石棺には多重の円や直弧文が彫刻されることになります。6世紀初めの「千金甲(せごんこう)1号墳」では彩色が登場。多重の円とともに靫(ゆぎ)という矢を入れる道具が、石障に線刻と彩色(青・赤・黄)で描かれました。
古墳の装飾は始めは石棺から始まりましたが、やがて石室全体に広がっていきます。もはや「豪華な副葬品が準備できないので、それを絵に描いた」などというものではなく、石室の装飾に独立した意味が託されていたことは間違いありません。そのような中でもものすごいのが6世紀中頃の「桂川(けいせん)王塚古墳」。デザイン性の高い具象・抽象の文様で石室全体が埋め尽くされている様子は圧巻です! これは古墳では3つしかない国の特別史跡に指定されています(他は高松塚古墳、キトラ古墳)。
桂川王塚古墳 [撮影 タニグチダイスケ] |
桂川王塚古墳の靫紋様 [撮影 タニグチダイスケ] |
こうした装飾で面白いなと思ったのが、正面から見たときにしっかり見えるように計算して描かれているということです。先述のとおり、古墳は基本的に成形されない石を積み上げているため、壁面の石はデコボコです。そこに文様を描くのですが、例えば円の場合、真正面から見た時にきれいな円になるように工夫しているのです。石室は当然ながら真っ暗なのに、そこに豪華な装飾を施した人々は何を狙っていたのでしょうか。
ところで、先ほどから「石棺」と書いてきましたが、九州の石棺には、畿内にはない著しい特徴があります。それは、蓋がなく遺体が丸見えであること。肥後式石室の場合は、地面にベタ置きになっています。石棺っていうより「遺体置き場」と考えた方がよい…? そして、横穴式石室では追葬するわけです。つまり追加の遺体を安置する際には、腐敗したり白骨化したりした遺体が丸見えなわけです。なんだかおどろおどろしいのですが、当時の人はどう考えていたんでしょう…⁉
さらに九州の横穴式石室のもう一つの特徴は、「羨道」と「玄室(遺体を置く部屋)」の間に「前室」という部屋があることです。葬送儀礼がこの部屋で行われたのでしょう。つまり九州の横穴式石室の古墳は、個人の墓ではなく、一族の墓・祭祀の場でした。後の世の寺院や神社にあたるものだったのです。
なお、南九州では地下式横穴墓(古墳のような上部構造はなく、地下に埋葬)が広まったのですが、先述のように薩摩半島には古墳はほとんどありません。一方、一人用の狭い石積みの部屋のような「板石積石棺墓」は薩摩川内やさつま町にたくさん分布しています。その工法は明らかに北部九州の影響を受けていますが、どうも北部九州と鹿児島では様子が違うようです。装飾古墳は鹿児島には一つもありません。古墳時代から鹿児島はちょっと変わっていたのでしょうか…?
それにしても、どうして古墳時代の人々は、とんでもない労力をかけて古墳を造り、またそこに装飾を施したのでしょうか。講演が終わった後での懇談でタニグチさんに聞いてみたところ、まず古墳の造営については、強制労働だけでは説明できず、ピラミッドと同じような公共事業的な側面があったのではないかということでした。かつてはピラミッドは奴隷による強制労働で作ったと考えられてきましたが、今ではちゃんと「給料」が出ていたことがわかっています。農閑期に人々に仕事を与えるという一種の再配分政策でもあったのがピラミッド。それと同じように、古墳も公共事業として造られたと考えられるそうです。
では装飾についてはどうでしょう。古代エジプト人は死後も現世と似たような「死後の世界」があると考え、そこで安楽な暮らしを行うために副葬品を詰め込んだピラミッドを造営したのですが、古墳の場合は「死後の世界での暮らし」という観念が希薄だそうです。それよりも感じられるのは、「死者の蘇り」を恐れる気持ちなんだとか。石棺に刻まれた直弧文も、死者が蘇らないように封じ込める意味があるのでは? と推測されるそうです。「死者の蘇り」を願うのは世界中に見られますが、「死者の蘇り」を阻止しようというのは珍しい。
古墳はある種の「死後の家」ではあったのですが、「絶対にここから出てこないでね」という結界の意味も込めた「死後の家」だったのかもしれません。一方で、死者を恐れる気持ちばかりでなく、そこには祖先祭祀の意味も当然含まれていました。先述の通り、九州の横穴式石室は追葬が前提であり、何代にもわたって遺体が埋葬されましたが、それは父系親族に限られるそうです(つまり夫婦墓はない)。古墳は、父系親族の継承を神聖化するものだったのかもしれません。古墳には、死者への「怖れ」と「神聖化」という相反する観念が同居しています。
しかしながら、実際当時の人が古墳にどんな思いを込めていたかは謎に包まれています。それは、古墳には一切文字が残っていないからです。古墳時代に文字がなかったわけではありません。例えば有名な江田船山古墳の鉄剣など、副葬品には文字が残っている場合があります。ところが華麗な装飾を施しながら、なぜか古墳そのものには一文字も字が書かれませんでした。どんな死後の観念があったのか、まだまだ謎だらけなんですね。
そして古墳時代が終わると、当たり前ですが古墳は造られなくなりました。「寺院」が古墳に置き換わっていったのです。古墳は、日本最古の石造構造物ですが、その工法もあっさりと失われ、日本では長く石造構造物は造られない時代が続きます。今ではどうやって造ったのかよくわからない古墳もあるそうです。
ところで講演では、タニグチさん自ら撮影した美しい写真を次々と繰り出しつつお話してくださいました。講演では理屈とは別に、古墳の美しさにもびっくりさせられましたねー。タニグチさんの写真には古墳への愛があふれています。写真を見るだけでも新しい世界に目を開かされる講演でした。
しかし90分では足りないくらいの情報量でしたので、タニグチさんには、また場を改めてご講演いただきたいなと思っています。次回は大雨の中でないといいのですが!!
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