第18回そらまどアカデミア開催しました。
今回ご講演いただいたのは、鹿児島市立美術館の前館長、大山直幸さんです。
まず驚いたのは、大山さんが館長として市立美術館の歴史を調べるまで、誰も市立美術館の設立の事情を本格的に調べた人がいなかったということ。良くも悪くも、あるのが当たり前の施設になっているのかもしれませんね。
大山さんは市立美術館の歴史を調べるため、同館が70周年を迎えることもあって、毎日県立図書館に通って古い新聞に全部目を通したそうです。
古い新聞って縮刷版なので、見るのがすっごく大変なんですよね。記事がありそうな年の新聞に目を通すというのは私もやったことがありますが、全部に目を通すのはまさに執念! そのせいで「目がおかしくなっちゃった」とか。新聞のコピー代だけで数万円になったということでした。でもそのおかげで、市立美術館がどのように設立されたのか、実証的に解明することができたのです。
そもそも、鹿児島市立美術館は、自治体立美術館としては全国的にかなり早い時期に設立されています。同館が開館したのは昭和29年。これに先行した美術館は、東京府美術館や京都市立美術館などわずかしかありません。市立美術館は当時、西日本では唯一の美術館だったんです。福岡より先行しているとはびっくり。
しかも東京府美術館(現東京都立美術館)は、開館こそ大正15年と早いですが、これは貸会場としての美術館でした。つまり美術品を収蔵するのではなく、エキシビジョンのための施設。同じく京都市美術館も貸会場。美術品を収蔵する美術館は、昭和26開館の神奈川県立近代美術館を待たなくてはなりません。
鹿児島市立美術館はどうかというと、最初から美術品を収蔵してるんです。市立美術館は、美術品を収蔵する美術館としてかなり早い設立!(日本で二番目?) どうして鹿児島には、そんなに早くに美術館ができたのか⁉
キーになったのは黒田清輝の存在。明治の始めに薩摩閥はいろいろな面で近代化をリードしていますが、最初期の西洋画壇の中心となったのが黒田清輝です。
黒田清輝が亡くなったのは、鹿児島市立美術館が開館する30年前の大正13年。
彼の死後、その弟子たちなどが東京で黒田の顕彰のために美術館(黒田記念館)をつくります。ちなみにその建物は黒田の遺産で建設されました。この美術館は現在の東京文化財研究所につながっています。
一方、鹿児島では黒田の顕彰活動をしようという話はあるのですが今一つ具体化しなかったところ、昭和9年頃に当時の岩元市長が美術館設立の検討を始めました。
ここで、ほぼ同じ時期に「歴史館」という施設の設立も検討されます。こちらは比較的スムーズに設立までの動きが進み、昭和14年に開館します。これには藤武さん(鹿児島の有名な豪商)の寄附があったそうです。
黒田の弟子たちは、この歴史館で、当然黒田の顕彰も行われるだろうと期待したのではないか? というのが大山さんの考え。歴史館と美術館をそれぞれ独立して設立するのは費用がかさむので、歴史館に近代洋画史も含めたら合理的だというわけですね。そういえば今の黎明館はその考えで美術品も収蔵されています。
一方、当時、南洲神社の墓地の一角に「教育参考館」というものがあって、そこにあった明治維新の史料が歴史館に移管されることになります。こうなると、歴史館には美術品を展示するスペースがなくなり、結果として歴史館は美術なしになったのではないかと考えられます。というのは、歴史館の開館直前になって、鹿児島にいた黒田の弟子たちが急に顕彰活動を訴え始めているからです。これは「歴史館に黒田清輝の作品が展示されないなら、別に美術館をつくらないと!」という焦りを示唆しているようです。
そしてついに、昭和17年に久米鹿児島市長を会長とする黒田の顕彰会が設立されます。さらに同年、黒田夫人の照子さんが鹿児島市に黒田の作品を寄贈します(この時寄贈されたのが『アトリエ』だと特定したのも大山さんの研究成果!)。照子さんは、有名な作品『湖畔』のモデルとなった人ですが、『アトリエ』の寄贈が黒田清輝顕彰運動の大きな弾みになります。
ここで、照子さんが鹿児島市にこの名画を寄贈したのはなぜ? ということが問題になります。というのは、黒田清輝は鹿児島出身といっても6歳くらいの時に東京に移住しているんですね。ちなみに照子さんも鹿児島出身ではない。にもかかわらず、鹿児島に肩入れしたのはなぜなのか。
そこで黒田清輝の手紙に注目してみると、黒田はお父さん(黒田清綱(養父))には候文で手紙を書いているのですが、お母さんには鹿児島弁を交えて手紙を書いていました。つまり黒田家は鹿児島弁が話されていたらしい。さらには、黒田は高見馬場(鹿児島市の地名)の「高見学舎」にずっと所属しているのです。「学舎(がっしゃ)」というのは、郷中教育を行うグループが明治後に団体として発展したもので、鹿児島県ではいくつかの学舎が活発に活動していました。今でいうと、地元の青年会議所みたいなものでしょうか。これに東京在住の黒田がずっと参加しているわけです。黒田は東京育ちではありますが、間違いなく鹿児島にアイデンティティを感じていたのです。だからこそ照子さんは「鹿児島に黒田の作品を里帰りさせたい」と望んだのでしょう。
ちなみに、黒田の顕彰会の東京側の代表に手を挙げたのが、川内出身の山本実彦です。山本は、『改造』という雑誌で論壇をリードし、また円本(一冊一円の全集類)を生み出した出版業界の風雲児でした。この山本の下で奔走するのが、後に初代の鹿児島市立美術館長となる谷口午二(ごじ)です。このように黒田の顕彰運動=美術館設立運動がにわかに動き出します。
しかし、昭和17年といえば太平洋戦争がもう泥沼になっている時期。美術館の設立の話は当然ながら進みません。鹿児島には大正15年から「南國美術展」という洋画の作品発表の場があり、谷口もこれに関わっていましたが、これが昭和15年の第17回で最後となります。絵の具などの画材も不足し、画家は国家への貢献が審査されて画材が配給されるという翼賛体制になり、自由な芸術は不可能になっていたのでした。ちなみに昭和18年には、黒田の顕彰活動を応援していた藤島武二も亡くなりました。
空襲で鹿児島市街地は灰燼と化し、戦後を迎えます。しかしびっくりするのは、昭和21年に第1回南日本美術展が開催されていること。まだ鹿児島市街地はバラック小屋という時代に、美術展が開催されているのはすごい。
昭和23年、照子さんがまた黒田縁の絵画を鹿児島市に寄贈します。これが黒田の顕彰運動の新規蒔き直しになったものと考えられます。この頃はまだ戦後復興が重要な時期で、美術館どころではないはずなのですが、昭和25年頃には、鹿児島市の勝目市長を中心とし、南日本新聞社など官民が一体となった美術館設立運動が行われました。
ちなみに、空襲で先述の歴史館は焼けていたのですが、外郭は残っていました。美術館は、この歴史館の外郭を使って作られることになります。なので設立当初の鹿児島市立美術館は、旧歴史館と見た目は同じ! これも大山さんの発見でした。改修費用は1000万円の見積もりでしたが市は500万円しか準備できず、県から予算を引き出そうとしますが難航。結局、昭和26年に500万円の予算で着工します(昭和28年に県から300万円の予算がつけられた)。
そして昭和29年が黒田清輝没後30年であったことから、7月に東京で大規模な回顧展が開催されます。そして鹿児島市立美術館は、この回顧展をほとんどそのまま転用して開館記念の黒田清輝展を開催するのです。これは巡回ではなく転用! 「今だったら絶対に許されない」ものだそうです。しかもこの時、黒田清輝の重要な作品がこぞって鹿児島にやってきます。現代ではなかなか外部に貸さない重要文化財や重要美術品が”転用”の展覧会で鹿児島にわんさかやってきたのはなぜなのか? それは、黒田清輝の弟子たちが東京にも鹿児島にもいて、「鹿児島には融通してやらないと」という声がたくさんあったからに違いありません。
こうして開館した鹿児島市立美術館は、(1)開館が早かった、(2)鹿児島にゆかりある画家(特に黒田清輝の弟子筋)が多かった、ということもあり、貴重なコレクションを多数所蔵しているということです。大山さんはこのことを「鹿児島市立美術館は特別待遇されていた」と表現していました。
また、大山さんが強調していたのは「鹿児島市立美術館の設立にあたっては照子さんの力が非常に大きかった。なのに照子さんの功績は忘れられている」ということ。こういう歴史って、意識的に残していかないとすぐ消えてしまうものですよね。
ところで、戦後復興もまだ進んでいない時期に美術館を設立することに対して、市民はどんな感情を抱いていたんでしょうか?
大山さんによると「当時の新聞を見ていると、”文化国家”という言葉が頻繁に出てくる。日本は戦争に負けたから、これからは”文化国家”でいかないとダメだ、という気持ちが非常に強かったようだ。美術館設立運動は、官民挙げての運動で、ちょっとプロパガンダ的なところもあるので、実際は反対があったとしても新聞には全然書いていないし、”文化国家”へ異論を唱えづらい雰囲気もあったのかもしれない。しかし当時の人は生活もままならない中なのに、芸術に飢えていたというのも確かで、美術館ができるまでの熱気は本物。例えば、昭和22年に松方コレクションが鹿児島にきて展覧会があるんだけど、これには九州中から人が来て、なんと10万人来たらしい。当時の鹿児島市の人口が24万人。ひもじい思いをしても芸術に触れたいという人がたくさんいたからこそ、政財界の人や画家が美術館設立運動を展開できたのだと思う」とのことでした。
明治維新後の薩摩閥のおかげで画壇の重鎮には鹿児島の人が多く、それで美術館が早く設立されたのだろうと単純に思っていましたが、やっぱり一般の人たちも芸術を求める気持ちがあったからこそ美術館が早くにできたんですね。
ところで、私の先祖(曾祖母)が昭和29年の先述の黒田清輝展に行って、黒田のデッサンのレプリカを買っています。そしてその足で画材屋に行って額装した、と聞いています。つまりその時、すでに鹿児島市には画材屋があるんです。ということは、鹿児島市では昭和29年当時に、画材屋が経営していけるだけの需要があったことになります。そういえば鹿児島市って、人口規模の割には妙に画材屋が多い街だったような気もします。なんだか、今の鹿児島って芸術に疎い感じがしますが、元々は割と芸術への感受性が高かったのかもしれません。
講演ではこのほか、鹿児島市立美術館の目玉収蔵品の紹介もありましたがここでは割愛します。また、このメモでは省略した、設立運動の中で活躍した黒田清輝に連なる人たちの話なども興味深かったです。詳しく知りたい方は大山さんが書いた本『鹿児島市立美術館ができるまで』をご参照ください。