2024年7月15日月曜日

第12回そらまどアカデミア開催しました。新聞が無くなって困るのは…

第13回そらまどアカデミア開催しました。

今回は、南日本新聞の編集局長、平川順一郎さんにお越しいただき「これからの地方紙」について語っていただきました。

現在、新聞だけでなく報道機関は厳しい状況にあります。平川さん曰く「テレビの方がもっと厳しいかも。テレビ局の記者なんか昔の3分の1くらいになってる」。インターネットの普及や人口減少によって、これまでのビジネスモデルが通用しなくなっているんです。

南日本新聞の発行部数は公称25万部。記者は150人いるそうです。うち、編集部に40人いるとのことで、実際外に出て取材をしている方は100人ちょっと。鹿児島+宮崎の一部を100人で担当しているということになります。私は思ったより多いなと思いました。

全国の多くの地方紙は各県域を配布対象範囲としていますが、中日新聞や西日本新聞など県を超えた範囲を区域とするブロック紙もあります。それに準ずるものとして河北新報や信濃毎日新聞など10社があり、南日本新聞もこれに属します。これらの会社は、発行部数や歴史も似たような部分があるそうで、南日本新聞は地方紙としては割とよい位置にいる新聞とのことでした。

南日本新聞が非常に特徴的なのは、全株式が社員保有であること! これは「全国で唯一かも?」。だから、社員になると株式を「買わされちゃう」そうですが、これは南日本新聞の報道が誰の指図も受けない基盤となっています。新聞は、地元の大企業が大株主だったり、創業家の社主がいたりするのが一般的で、ある種の記事が書けなかったりします。大手紙でも読売新聞の主筆はいまだに渡辺恒雄さん。ナベツネさんが社論を定めているので、それと違った論調の記事は書けません。

ところが、南日本新聞の場合は社員自身が株主なので、平川さんも「今まで、そんな記事は書くな、といわれたことが一度もない」。ただ、社員が強いということは、逆に「自分は編集局長という立場だが、こういう記事を書け、と現場の記者に指示することもできない」とのこと。現場の記者が強く、記者の個性が出るのが南日本新聞です。

これは「新聞社としての健全性」を示すものではありますが、平川さんとしては「今の時代、トップダウン的でないことが変革を阻んでいる部分もある」と感じてもいるそうです。難しいですね。

当日は、7月12日付の南日本新聞が配布され、どんなことを考えてこの紙面にしたのか、ということが解説されました。

この日の1面トップは、徳田虎雄さんの死去。「郷土出身の人で、死去がトップニュースになるのは、たぶんこの人が最後」だそう。ですが、ご存じの通り、毀誉褒貶の甚だしい人ですから、郷土の偉人、みたいな扱いではなく、「多角的に取り上げたかった」ということで、20‐21面には功罪織り交ぜた記事が並びました。

この日の肩(1面の左上の記事)には、水俣病患者と環境相との再懇談の最終日という記事。水俣病患者との懇談の際、環境省職員がマイクを切った問題を初めて報じたのは南日本新聞と熊本日日新聞(だけ)でした。その場には全国紙の記者も来ていたのにもかかわらず、なぜ彼らは報じなかったのか? それは、全国紙の記者の場合は、やはり東京からの視点でものを見ていて、「こういうのが普通」と慣れっこになっていたのではないか、とのこと。一方、地方紙記者の場合は患者からの視点に立って「これはおかしい」と感じたから記事にした。この感覚があるのかどうかが、地方紙の存在意義の一つ。両紙の報道がきっかけになり、環境相が謝罪し、再懇談が設けられることになったわけです。

この記事の最後には「塩田康一知事は参加しなかった」と一言だけ書いてあります。鹿児島県にも被害者はいるのに、鹿児島県では「もらい公害」という認識で、当事者意識が希薄です。平川さんは、記者のこの指摘により「南日本新聞も同じだったのでは」と気づかされたそうです。鹿児島(と都城)以外が中心のことは、どこか他人事っぽくなってしまうのは、地方紙の弱点かもしれません。

それでは、これからの地方紙はどうなるか?

南日本新聞は、昔に比べてだいぶ薄くなってきました。購読者数の減少に加え、紙のコストが1.5倍くらいになっているからです。でも社長としては「できるだけ値上げしたくないので、薄くなっても現行価格でいきたい」との考え。個人的には、薄くなってるのに写真を多くして文章を減らしているのは腑に落ちないですが…。

配達コストの問題も大きいです。かつて新聞販売所は記者以上に儲かる商売でしたが、収益のメインを担ってきた「折込チラシ」が激減したことで、やっていけない販売所も出てきました。県本土全域での当日朝配達体制が維持できなくなるのは、「早ければ5年後くらいかも」。もうすぐそこの話です。

これを補うのがWEB版ですが、南日本新聞の主要購読者層は60代以上。30代でもほとんど読まれていないそうです。最近の若い人は新聞取りませんからねー。なのでWEB版があっても、高齢の購読者は「やっぱり紙がいい」と思っていて、そこに需給のミスマッチがあります。ちなみに、Yahoo! ニュース等に配信してタダで見られるようにするのは、「自分の首を絞めるようなものだから、今後は改めていかないと」。

「もしかしたら10年後、紙の新聞はなくなってるかもしれない」と仰っていましたが、その時に地味な地方紙が本当に読まれるのか、大きな分水嶺になりそうです。

なお講演後の意見交換では、県警問題が関心を集めました。平川さんは「県警が悪いのは間違いない」としつつも、「個人的な考えでは、100%の悪人も100%の善人も存在しない」のだから、「(野川本部長が県警の問題を隠蔽しようとしたと告発した)前生保部長を善、野川本部長を悪とするような単純な構図では報道しない」とし、全国紙が、表面的な理解だけで県警を断罪するような論調になっていることに違和感を抱いているそうです。

そして、「前生保部長はそういう立場にありながら、南日本新聞含め、報道機関と一切の付き合いをしてこなかった。なのに退職後にいきなり面識のない記者に、それだけでは記事の書きようがない資料を送付するのは不可解」とのこと。これはよくも悪くも県警と長く付き合ってきている南日本新聞ならではの見方だなあと思いました。

では真実はどこにあるのか。「南日本新聞は、警察と同じくらい、ちゃんと調査して裏付けがあることを書いている自負がある。県警問題は南日本新聞がやらないかぎり「真実」は明らかにならないと思う。だが、これが真実だ、というようには書かないし書けない。一つずつ「事実」を積み重ねるという地道な報道をやっていくことで、結果的にそれが明らかになると思っている」ということでした。「事実」を積み重ねる、とは、「塩田康一知事は参加しなかった」と一言だけ書く、みたいなことですよね。

南日本新聞のそういう姿勢は心強いですが、心配なのはやはり経営です。平川さんは冗談っぽく「これからの時代の報道には、ものを言わない“パトロン”が必要なのかも?」と苦笑いしていました。大手紙やテレビ局も「もはや新聞やテレビでは利益がなくて、不動産の利益でなんとかやっている」という現状があります。MBCもそんな感じだったような。

「記事にはどんどん反応してほしい。南日本新聞のパトロンは県民のみなさんしかいません」だそうですよ!

新聞社の方と率直に意見交換する機会ってなかなかないですが、実際にやってみて本当に面白いなと思いました。南日本新聞には、こういう機会をたくさん設けていただいて、読者と対話しつつ変革の時代を乗り切ってほしいです。地方紙こそ、昏迷の時代に必要なメディアではないでしょうか? 新聞が無くなって困るのは、新聞社の人…ではなくて、他ならぬ県民なのは間違いありません。

2024年7月13日土曜日

第13回そらまどアカデミア「海をわたってきた儒学とその周辺・・そして明治維新までの物語」を開催します!


8月4日、そらまどアカデミア開催します!

今回ご登壇いただくのは、絵師の小川景一さん。

小川さんと言えば、鹿児島デザイン界を牽引してきた人であり(←天文館のロゴマークの製作者!)、中国桂林で12年間デザインを教えた中国通でもあり、またランナーであり、そして最近は水墨画家として個展を開催したのも記憶に新しいところです。

そんな小川さんが(趣味で?)やっていらっしゃるのが、思想や歴史の流れの「図像化」。実は、小川さんは儒学にもとっても詳しいんですが、特に儒学の歴史を図像化するという取り組みをしてきています。

儒学って何? 儒教とは違うの? 孔子がつくったのが儒教でしょ? その歴史っていったい…?

という方もいるかもしれませんね。しかし、儒学の歴史は中国の国家の在り方を根底で規定し、また日本では明治維新に大きな影響を与えました。知名度はいまいちですが、すっごく重要な思想が儒学なんです。

儒学とは、孔子の教えを中心としてまとめられた生き方の教えや歴史哲学・政治思想ですが、これが孟子に受け継がれます。これをミクロレベル(個人の行動)からマクロレベル(宇宙論)まで一貫統合した理論に作り替えたのが朱熹(朱子)。中国ではこれが官吏登用試験(科挙)の学科になりました。

日本に儒学が入ってきたのは戦国時代末。日本では儒学は統治の学としては採用されませんでしたが、江戸時代には、儒学の教養がかなり広い範囲でいきわたります。そして明治維新を成し遂げた英傑と言われる人たちは、大なり小なり儒学の教養を武器としていました。そもそも、「天皇中心の中央集権体制」という構想自体が、儒学による「皇帝専制政治」の応用であったわけです。

……というような話をしても、なかなかわかりづらいのが儒学。なにしろ「思想」ですから、形があるものではないですし、耳慣れない人の名前もたくさん出てきます。

そんな、重要だけれどもなかなか手を付けづらい儒学に、小川さんの「図像化」を通じて親しんでしまおうというのが今回のアカデミア。ややこしい話が図になっていると、理解度が段違いになるな、と小川さんの「図像化」を見て依頼しました。

明治維新を理解する上でも非常に重要な儒学の世界に、楽しく入門してしまいましょう!

ちなみに、冒頭のチラシも小川さんにご作成いただきました。チラシの上の方にある図が、小川さんの力作の一部です。

***************

第13回 そらまどアカデミア

海を渡ってきた【儒学とその周辺...
そして明治維新】までの物語。

講 師:小川 景一

古代中国から、儒学・朱子学・陽明学。
海を渡り、日本儒学・水戸学・国学、そして明治維新。
複雑に絡み合った思想史を図像で丁寧に紐解きます。

日 時:8月4日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:1000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
絵師・唐通事。武蔵野ミュージアム選書スタッフ。中国桂林にてデザイン教師、鹿児島大学非常勤を経て、現在庭師修行中。

2024年6月17日月曜日

「無農薬」って言ってるのに、農薬を使ってしまいました

今年の4月はとても雨が多く、5月もそれなりに降りました。

なので、田んぼの水の心配を全くしないですみました。いつも田んぼに水がしっかり入っていたので雑草も少なく、この数年間のうちで、一番草取りの労力が少ない年だったかもしれません。

ところが!

今年は別の苦労がありました。田んぼの稲をモシャモシャ食べてしまう、ジャンボタニシという害虫(巻き貝)が大発生したのです。

ジャンボタニシ(正確にはスクミリンゴガイという)は、冬の低温は苦手なので、昨冬が暖かかったことが一番の要因でしょう。稲が小さいうちは、こいつらに食べられて稲株が全くなくなってしまい、放っておくと田んぼがスカスカになってしまいます。

稲が大きくなってくると無くなりはしないのですが、分蘖(ぶんけつ)といって、葉っぱが増えていく部分を食べてしまうため、やはり一つひとつの株がスカスカになります。

なお、「ジャンボタニシは雑草を食べてくれるから除草剤がいらなくなる(デマ)」ということで、一部にはジャンボタニシを田んぼにわざわざ放流する人がいるそうですが、絶対にしてはいけません。雑草だけじゃなくて稲がなくなります!

というわけで、このままだと稲がなくなり収穫がなくなるため、うちのお米は「無農薬・無化学肥料」を標榜しているのですが、今年は農薬を使ってしまいました。

「スクミンベイト3」という農薬です。 

【参考】スクミンベイト3 
https://www.oat-agrio.co.jp/product/スクミンベイト3/

これは天然成分由来の農薬で、有機栽培でも使え、特別栽培農産物でも農薬としてカウントされないという、とっても自然に優しい農薬です。回数制限もありません。なので、厳密には「無農薬」ではなくなりますが、お目こぼしいただければと思います。申し訳ありません。

しかしながら、自然に優しい農薬なので、効いているんだかいないんだか、どうもわかりません。何もしないよりはマシ……というくらいの効き目です。

というのは、これはジャンボタニシが食べることで効き目を発揮する薬剤なのですが、観察していても食べている感じがしないんです。農薬の説明書きには「本剤はスクミリンゴガイの好む殻粉を最適に調合した高い喫食性を持つ製剤です。」と書いているものの、薬剤を素通りしてますけど…?

まあ、有機栽培にも使えるジャンボタニシニの駆除剤があってよかった…とは思います。なかったらどうしようもないですからね。

今年は、いろんな農作物が不作なので、せめてお米くらいは豊作にしたいものです。

2024年6月15日土曜日

第12回そらまどアカデミア「これからの地方紙」を開催します!

7月14日、そらまどアカデミアを開催します。

今回のテーマは新聞です。

みなさん、新聞って購読していますか? かつて、新聞を購読することが社会人として当然と思われていた時代もありました。今では、「ネット記事で済むから」ということで新聞を購読しない人がどんどん増えています。

そんなことで、新聞業界の見通しは明るくなく、特に地方紙の廃刊・休刊が相次いでいる現状があります。

一方で、大手マスコミは政権に籠絡され、テレビは視聴率のためにくだらない内容になり、ネットでは扇情的な記事に溢れています。そんな中「今、一番まともなマスメディアは地方紙なんじゃないか」と思うのは私だけでしょうか? この、一番まともなマスメディアが一番の苦境に陥っているわけです。

地方紙は今後どうなるのか。それは、日本のジャーナリズムの在り方を占う論点だと私は思います。

というわけで、今回特別に南日本新聞の編集局長、平川順一郎さんをお呼びして、「これからの地方紙」について語っていただきます。平川さんは、みなさんとの意見交換も楽しみにしているとのことでした。

通常、こういった場に新聞社幹部が出向くことはないのですが、今回はお忍び的に(←といってもこうしてブログに書いちゃってますが(笑))講演いただくことになりました。

皆さんの参加をよろしくお願いいたします。

***************

第12回 そらまどアカデミア

これからの地方紙

講 師:南日本新聞編集局長 平川 順一郎

新聞業界は苦境にあります。しかし、各新聞は地域社会、日本の民主主義にとってなくてはならない存在と信じ模索を続けています。南日本新聞の歴史や、新聞記者の仕事、デジタルでやろうとしていることなど今描きつつある将来像をお話しします。みなさんの意見も聞かせてください。

日 時:7月14日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:1000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
1966年鹿児島市生まれ。鶴丸高校から早稲田大学法学部を卒業後、南日本新聞社に入社。社会部、文化部、政経部、日置支局長、奄美総局長、編集委員などをへて2023年から現職。

2024年5月13日月曜日

第11回そらまどアカデミア開催しました。古墳の謎と美しさ!

第11回そらまどアカデミア開催しました。

今回の講師は、福岡を拠点に活躍している古墳写真家のタニグチダイスケさんです。福岡からバイクでお越しいただきました。しかし当日は土砂降り。バイク移動には厳しい天候でした…。

さて、今回のテーマは「九州の古墳における横穴式石室とその特徴」。薩摩半島には古墳がほとんどないので、身近なテーマではなかったかもしれません。また、古墳といえば、「大山(だいせん)古墳」のような巨大な前方後円墳をイメージされる方が多いので、「九州の古墳」なんてたいしたことないんじゃないの? という先入観もあるかも。

しかし! 今回の講演で、タニグチさんは、九州の古墳の面白さと美しさを存分に伝えてくださいました。ここまで奥深い世界だったとは…!

そんなタニグチさんが古代に興味を持ったのはなんと2歳半。ツタンカーメンが入り口だったとか。やがて日本の古代に関心を向け、小学生の頃から古墳を追いかけるようになったんだそうです。すごいですね。

古墳は、日本全体に16万基以上もあると言われており、コンビニの3倍もあります。古墳時代に先行する時代にも、甕棺墓といったお墓はあったわけですが、古墳でも最初は竪穴を掘って、そこに遺体・棺を納めるという形になっています。ここでは石室、つまり遺体を納める部屋はありませんでした。

そして3世紀半ば、竪穴式ではあるのですが、壁を割石積みで作ってまるで部屋のような構造を持つ墓が徳島で登場。これは竪穴式石室と呼ばれています(これは石室ではなく石槨であるという主張もあります)。なお、この割石積みは、徳島で産出する緑泥片岩(層状に割れやすい緑の石)を板状にして、それを大量に積み上げて作ったものでした。

さらに佐賀県の唐津にある「谷口古墳」では、同様に精緻な割石積みによって、合掌造りのような形で部屋がつくられています。古代ローマでは石積みが発達してアーチ状構造が生まれたのですが、日本ではブロック状の石を積むアーチ状構造は生まれず、不規則に板状(棒状)に割った石を細かく層状に積み上げ、天井に向かって徐々に壁を狭めるという合掌構造によって石積みの部屋を造りました。この石積みの美しさはもはや官能的ですらあります。

谷口古墳 [撮影タニグチダイスケ]
 

注目すべきことに、この「谷口古墳」には、その合掌の頂点の部分(つまり天井部分)に横口が設けられていました。これは出入りに使うのは困難なため実用的ではなさそうですが、「横口を設けるという思想」が入ってきたようです。それまでの竪穴から、横穴をつけるというのがイノベーション!

そして福岡の「老司(ろうじ)古墳」では、ちゃんと出入りできる横穴が設けられており、追葬(追加での埋葬)が行われていたらしき形跡があります。なぜ横穴になっていったかというポイントはこの追葬にあります。一人きり・埋めっきりの墓ではなく、一族が死亡するたびにそこに埋葬することを前提として、出入りする横穴が必要になったわけです。

こうして畿内ではまだ竪穴式が続いていた時代に、九州北部では横穴式が発達していきました。古墳の埋葬施設が、まず竪穴で地下にもぐり、そこから横穴を潜って玄室に至る、という2段階構造になっていったのです。

一方で熊本でも石室が発達していったのですが、面白いのが「小鼠蔵(こそぞう)1号墳」。この古墳は小島につくられています(今は陸続きになっている)。石室はやはり割石積みで、コの字型に3体の遺体を並べるようになっていました。石室下部は石障(せきしょう)という板状の石がめぐらされています。これは横穴式なのかどうか判然としませんが(横穴なのか、単なる破壊なのかどうかわからない穴が開いている)、タニグチさんは横穴説を採っていました。だとすれば熊本で最古の横穴式石室(肥後式石室という)ということになり、小さな小島から新しい動きが始まっていることが面白いです。

「小鼠蔵1号墳」には、もう一つ新しいことがあります。それが石棺の装飾。小さな円がたったひとつだけですが石棺に刻まれているのです。石棺の装飾は、大阪の「安福寺石棺」や福井の「足羽(あすわ)山山頂古墳」の石棺に直弧文(ちょっこもん:直線と曲線を組み合わせた幾何学模様)が刻まれている例があります。しかしなぜか畿内では古墳内の装飾は普及せず、これらとは無関係に熊本の小島の古墳に突如として装飾が登場したのです。

直弧文 [撮影タニグチダイスケ]
 

では、この円の線刻は何を意味しているのか? それは銅鏡ではないのかというのが有力な説。豪華な副葬品が準備できないので、それを絵に描いたというわけですね。これから石棺には多重の円や直弧文が彫刻されることになります。6世紀初めの「千金甲(せごんこう)1号墳」では彩色が登場。多重の円とともに靫(ゆぎ)という矢を入れる道具が、石障に線刻と彩色(青・赤・黄)で描かれました。

古墳の装飾は始めは石棺から始まりましたが、やがて石室全体に広がっていきます。もはや「豪華な副葬品が準備できないので、それを絵に描いた」などというものではなく、石室の装飾に独立した意味が託されていたことは間違いありません。そのような中でもものすごいのが6世紀中頃の「桂川(けいせん)王塚古墳」。デザイン性の高い具象・抽象の文様で石室全体が埋め尽くされている様子は圧巻です! これは古墳では3つしかない国の特別史跡に指定されています(他は高松塚古墳、キトラ古墳)。

桂川王塚古墳 [撮影 タニグチダイスケ]

 
桂川王塚古墳の靫紋様 [撮影 タニグチダイスケ]

こうした装飾で面白いなと思ったのが、正面から見たときにしっかり見えるように計算して描かれているということです。先述のとおり、古墳は基本的に成形されない石を積み上げているため、壁面の石はデコボコです。そこに文様を描くのですが、例えば円の場合、真正面から見た時にきれいな円になるように工夫しているのです。石室は当然ながら真っ暗なのに、そこに豪華な装飾を施した人々は何を狙っていたのでしょうか。

ところで、先ほどから「石棺」と書いてきましたが、九州の石棺には、畿内にはない著しい特徴があります。それは、蓋がなく遺体が丸見えであること。肥後式石室の場合は、地面にベタ置きになっています。石棺っていうより「遺体置き場」と考えた方がよい…? そして、横穴式石室では追葬するわけです。つまり追加の遺体を安置する際には、腐敗したり白骨化したりした遺体が丸見えなわけです。なんだかおどろおどろしいのですが、当時の人はどう考えていたんでしょう…⁉

さらに九州の横穴式石室のもう一つの特徴は、「羨道」と「玄室(遺体を置く部屋)」の間に「前室」という部屋があることです。葬送儀礼がこの部屋で行われたのでしょう。つまり九州の横穴式石室の古墳は、個人の墓ではなく、一族の墓・祭祀の場でした。後の世の寺院や神社にあたるものだったのです。

なお、南九州では地下式横穴墓(古墳のような上部構造はなく、地下に埋葬)が広まったのですが、先述のように薩摩半島には古墳はほとんどありません。一方、一人用の狭い石積みの部屋のような「板石積石棺墓」は薩摩川内やさつま町にたくさん分布しています。その工法は明らかに北部九州の影響を受けていますが、どうも北部九州と鹿児島では様子が違うようです。装飾古墳は鹿児島には一つもありません。古墳時代から鹿児島はちょっと変わっていたのでしょうか…?

それにしても、どうして古墳時代の人々は、とんでもない労力をかけて古墳を造り、またそこに装飾を施したのでしょうか。講演が終わった後での懇談でタニグチさんに聞いてみたところ、まず古墳の造営については、強制労働だけでは説明できず、ピラミッドと同じような公共事業的な側面があったのではないかということでした。かつてはピラミッドは奴隷による強制労働で作ったと考えられてきましたが、今ではちゃんと「給料」が出ていたことがわかっています。農閑期に人々に仕事を与えるという一種の再配分政策でもあったのがピラミッド。それと同じように、古墳も公共事業として造られたと考えられるそうです。

では装飾についてはどうでしょう。古代エジプト人は死後も現世と似たような「死後の世界」があると考え、そこで安楽な暮らしを行うために副葬品を詰め込んだピラミッドを造営したのですが、古墳の場合は「死後の世界での暮らし」という観念が希薄だそうです。それよりも感じられるのは、「死者の蘇り」を恐れる気持ちなんだとか。石棺に刻まれた直弧文も、死者が蘇らないように封じ込める意味があるのでは? と推測されるそうです。「死者の蘇り」を願うのは世界中に見られますが、「死者の蘇り」を阻止しようというのは珍しい。

古墳はある種の「死後の家」ではあったのですが、「絶対にここから出てこないでね」という結界の意味も込めた「死後の家」だったのかもしれません。一方で、死者を恐れる気持ちばかりでなく、そこには祖先祭祀の意味も当然含まれていました。先述の通り、九州の横穴式石室は追葬が前提であり、何代にもわたって遺体が埋葬されましたが、それは父系親族に限られるそうです(つまり夫婦墓はない)。古墳は、父系親族の継承を神聖化するものだったのかもしれません。古墳には、死者への「怖れ」と「神聖化」という相反する観念が同居しています。

しかしながら、実際当時の人が古墳にどんな思いを込めていたかは謎に包まれています。それは、古墳には一切文字が残っていないからです。古墳時代に文字がなかったわけではありません。例えば有名な江田船山古墳の鉄剣など、副葬品には文字が残っている場合があります。ところが華麗な装飾を施しながら、なぜか古墳そのものには一文字も字が書かれませんでした。どんな死後の観念があったのか、まだまだ謎だらけなんですね。

そして古墳時代が終わると、当たり前ですが古墳は造られなくなりました。「寺院」が古墳に置き換わっていったのです。古墳は、日本最古の石造構造物ですが、その工法もあっさりと失われ、日本では長く石造構造物は造られない時代が続きます。今ではどうやって造ったのかよくわからない古墳もあるそうです。

ところで講演では、タニグチさん自ら撮影した美しい写真を次々と繰り出しつつお話してくださいました。講演では理屈とは別に、古墳の美しさにもびっくりさせられましたねー。タニグチさんの写真には古墳への愛があふれています。写真を見るだけでも新しい世界に目を開かされる講演でした。

しかし90分では足りないくらいの情報量でしたので、タニグチさんには、また場を改めてご講演いただきたいなと思っています。次回は大雨の中でないといいのですが!!

2024年5月6日月曜日

「砂の祭典」に初めて出店しました

5月3〜5日の3日間、「吹上浜 砂の祭典」に出店しました!

これまで、「砂の祭典」にはいろいろな関わり方をして来ましたが、出店するというのは実は初めてです。

場所は、メイン砂像がある場所とは違う、本町(ほんまち)の公園のそばでした。私たちがいたのは地元出店者枠のコーナーで、公園では「モジョピク」という、キッチンカーやハンドメイドショップなど外部の参加者によるマルシェが開催されていました。

私たちはコロナ以前からイベントへの出店を控えていたので、本格的なイベント出店は本当に久しぶりでした。不特定多数の人に訴える商売は数年ぶりといってもいいくらいだったかもしれません。

その点、「モジョピク」の方の飲食店の皆さんはさすがに慣れていて、売上の方も私たちの数倍はあったと思います。そんな皆さんのやり方を見て、とても勉強になりました。そんなわけで、今後に活かすために感じたことを記録しておきたいと思います。おそらく、皆さんにとっては「そんなの当たり前。むしろこれまで分かってなかったの!?」ということばかりですが…。

第1に、店はわかりやすさが大事。いろんな店がありましたが、繁盛しているのは、何が売っているか一目見て分かる店ばかりでした。「レモネード屋さん」「チュロス屋さん」といった調子です。テーマカラーをはっきりと打ち出した大きなサインを掲げ、遠くから見ても何を売っているか分かるようにするのが大事だと思いました。

第2に、商品は絞った方がよい。これは第1の点から派生することです。 普通のお店ではいろいろ商品がある方がよくても、こういうイベント出店の場合は商品数の多さはアダになると思いました。例えばマフィンとケーキとクッキーを売っているお店より、マフィンだけの店の方がわかりやすくて売れ行きがいい。お客さんはいろいろな店の商品を比較した上で購入するので、一店舗の中にマフィンとケーキとクッキーがある場合、その商品間の比較まで考えてしまい、結局購入に至らない場合がありますよね。むしろマフィンの種類を増やして、プレーン/チョコ/バナナマフィンにした方がわかりやすく、「選ぶ楽しみ」になります。

第3に、地元産はアピールすべき。これは考えてみれば当たり前ですが、いつも地元相手に商売しているのですっかり忘れていました。「砂の祭典」には地域外からたくさんのお客様が来ます。そしたら、「何かひとつくらい、南さつまのものをお土産に買って帰ろう」と思うのが人情。しかも、今回はいつもの特産品販売のブースがなかったので、お土産に飢えていた人が多かったようです。うちの南薩コンフィチュールなんか、いいお土産だったのに、「地元産」を全くアピールしていなかったのでほとんど売れませんでした(涙)。一方、ジンジャーエールシロップは「南さつま市産」を後から貼り付けたところ、売れ行きが格段によくなりました(でもその時はその効果だとわかっていませんでした!)。

第4に、飲み物350円は安すぎた(笑)。うちでは、「石蔵ブックカフェ」でジンジャーエールやコーヒーを300円で提供しています(あまり儲けを考えていません)。それじゃああまり安いよね(出店料も高いのに)、ということで「砂の祭典」では1杯350円にしました。ですが、出てみてビックリ。ほとんどの飲食店の飲み物は500円〜じゃあないですか! 物価が上がってるなー。大浦からほとんど出ていないので最近の相場がわかっていませんでした。400円にすればよかった。あんまり安いのは他の飲食店にも迷惑がかかりますからね。

これら4点は、3日間出店している間、徐々に分かってきました。なので、うちの店構えも徐々に変えていきました。1日目の最初の方は、あんまり売れ行きが悪いので「自家製ジンジャーエール350円」を大きく表示したところ、ちょっと売れ行きがよくなりました。2日目には、その文字を「そらまど」のテーマカラーの水色の台紙に書いたところもっとよくなりました。3日目には、そこに「南さつま市産」をつけたところ、シロップもどんどん売れるようになりました。最初からいろいろ工夫してやればよかったですね…!

いろいろ反省点はありますが、でも一番何がよかったかって、雨が降らなかったことです。ちょっと風が強かったとはいえ、3日間、お天気に恵まれました。イベント出店で一番大事なことは、天気ですよね!

初めて「吹上浜 砂の祭典」に出店してみて、本当にいい勉強にもなりました。また来年も出店できたらいいなと思っています。来て下さったお客様、スタッフのみなさん、どうもありがとうございました!

2024年4月30日火曜日

風の強い年

はっきりとしない天気が続いています。4月半ばから、まるで梅雨のような天候…。GW前のこの時期が、かぼちゃの受粉期なんですが、雨が降っていると当然受粉ができませんので、とても困るのです。

それでも、雨の合間に受粉作業を行い、徐々に着果してきました。実のついていないツルはあと2割ほど。4日連続で晴れてくれれば何もしなくても全部着果するのですが…。

ところで、今年はかぼちゃについていうと、あまり天候に恵まれていません。特に、風が強くて困りました。

3月半ばには、台風のように風の強い日が2日もあって、トンネルの支柱が合計で60本ほども折れ曲がってしまいました(当然、復旧作業も2回やりました…)。平年であれば、強風で折れ曲がるとしてもせいぜい5本くらいなのですが…。

しかも、3月の強風といえば春一番(南風)、なのに、今年は北風が強かったんですよね。どういうわけだ。

かぼちゃのようなつる植物は風に弱いのです。風がなければスクスクと成長するはずのところ、風のせいで成長も遅れ、それどころか根元から折れてしまったものも散見されます。

天候に恵まれさえすれば、農業ほど楽しい仕事はないと私は思います。

が、天候に翻弄されると、これほど徒労感のある仕事もないですね…。人間の努力など自然の前ではあってないようなものなので。

これからは穏やかな天候が続いてほしい。一番の願いです。