2023年10月10日火曜日

第8回そらまどアカデミア開催しました! 仮面は非日常の存在

第8回そらまどアカデミア「仮面による文化形成」開催いたしました。

今回は、募集開始後、なかなか申し込みがありませんでした。ちょうど鹿児島国体が始まっていろんなところでイベントが行われていたためかもしれません。しかし開催直前になって立て続けにお申し込みをいただき、最後は「定員いっぱいです」と断るハメに…。またの機会によろしくお願いいたします。

講師の漣(さざなみ)俊介さんは、南九州市頴娃で「ギャラリー蛇足」を運営する傍ら、グラフィックデザイナー、一コマ漫画家、お香製造(鳴音(めいおん))など、様々なことに取り組んでいらっしゃいます。そんな漣さんが、ご夫婦でやっている(やっていた?)活動が「仮面夫婦プロジェクト」という仮面作りワークショップです。

なんで仮面? と思っていましたが、 きっかけは、新婚旅行で海外に行ったときに、現地で買った仮面を夫婦でつけたら「意外と楽しい!」と感じたからだそうです。そして、旅先で仮面をかぶって写真を撮るという活動をやっているうちに、「やっぱり自分で作らないと」となって仮面を作るようになり、仮面作り(彩色)ワークショップをやるようになったんだとか。

また、漣さんは姫路の出身で、お祖父様が「姫路はりこ」のコレクターだった影響もあるんだとか。恥ずかしながら「姫路はりこ」って知りませんでした。姫路ではかつて張り子のお面作りが盛んだったそうです。

では、なぜ姫路で張り子お面が作られたのか。このあたりから本論に入っていきます。「姫路はりこ」は古くからの産業ではなく、明治以降に盛んになったとのこと。近代には、武士や農家の副業として各地でお面作りが行われるそうですが、姫路もそうしたものの一例です。

姫路は城下町だったので、張り子づくりに必要な材料が揃っていました。具体的には、(1)反故紙、(2)布海苔(海藻から作る糊)、(3)型(瓦で型をつくった)、(4)胡粉(貝を砕いた粉、表面処理に使う)、(5)膠(動物性強力接着剤。姫路は革製品が有名だったため)、といったものが集まっていたからこそ張り子が産業となったのです。

このように、「文化ができるにはワケがある」。つまり、文化は何もないところから生まれるのではなく、その材料や風土や習慣、社会情勢によって存立するということです。

ここで、漣さんは世界各地の仮面について紹介していましたが、画像がないとよくわからないのも多いのでそれについては割愛します。

さて、姫路の張り子は近代以降のものでしたが、近代のお面は、仮面がカジュアル化した、「再構築されたもの」だといいます。どういうことでしょうか。

世界最古の仮面は、約9000年前のイスラエルの石仮面だそうです。 ちなみに日本最古は縄文時代の土面。こういったものは何のために作られたかというと、もちろん、これらは精霊や神といった超自然的な存在を表象するものでした。

しかし世界の諸民族が全て仮面を持ったかというとそうでもなく、仮面を持つ民族と持たない民族がいました。諸説あるそうですが、その違いは、定住するのかしないのかだ、というのが文化人類学者らの考えだそうです。つまり、定住して農耕や狩猟生活を営む以上、自然災害などがあっても簡単に移動はできないので、人間を超えた存在に祈るしかない。その存在を可視化したのが仮面であったと言います。

このように仮面は元来、霊的・宗教的な意味を帯びていたのが、科学の発展によってそうしたものに頼らなくてもよくなると仮面は形骸化し、再構築されることになります。

ここでいう再構築とは、“「演者」と「観客」を作る装置”という仮面の機能を利用し、エンタメや芸術、調度品として新しい仮面の居場所が作られていった、ということを指しています。

例えば、大衆劇や伝統芸能、仮面ヒーロー、仮面舞踏会、コスプレといったものが近代以降の仮面活躍のフィールドとしてあげられます。これを漣さんは「広がっていった仮面」と表現していました。

そして現代では、SNSのアバターやアイコンも仮面の一種と捉えられます。仮面をかぶることによって、「顔を隠した人間」が生まれるのですが、SNSの匿名性はまさに仮面をかぶったことと相似しています。これは決して悪いことばかりではなく、人間は常にペルソナ(外的側面=社会的仮面)を使い分けているのですから、SNSと言う場に似つかわしい仮面に付け替えているだけとも言えます。

そして、バンクシーの落書きが、その匿名性・正体の謎さによってより魅力的なメッセージとして受け取られているように、正体不明さは時として人に力を与えます。漣さんは、バンクシーのメッセージは「政治など個人ではどうしようもない巨大な力に対して忠告を与えて去って行く」という点で、古代の「来訪神」と似たような性質があると感じているとのこと。

つまり、仮面をかぶることによって、普通にはできないことができるようになるのだ、というのがまとめでした。

ところで、漣さんの話し方は独特な間(ま)があって、その間にいろいろと考えさせられました。

例えば、日常生活で仮面をかぶっている人がいたらかなり異常なので、仮面をかぶるためには「顔を隠すことが了解されたシチュエーション」が必要です。例えば、祭りとか、遊びとか、演劇とかです。お祭りのテキヤさんが子どものお面を売っているのも、お祭りが「顔を隠すことが了解されたシチュエーション」だからですね。

逆に日常の生活の中では、仮面は異常性の表象ともなります。浦沢直樹のマンガ『20世紀少年』で、「トモダチ」が子どもの頃の回想で常に仮面をかぶっているのも一種の異常性を示すものですよね。

そう考えると、古代人が精霊や神を単に具象的に表現するのでは飽き足らず、それを仮面にして「演じる」ことができるようにしたのは意味がありそうです。仏像や神像でも十分にその神聖性を表現することはできると思いますが、精霊や神の面は、かぶること自体にただならぬ意味があるわけです。異常な世界、非日常の世界にいっちゃうということですから。これがお面と像との最大の違いだと思いました。

漣さんと奥さんが「仮面をかぶって意外と楽しかった」というのも、海外旅行という非日常の世界だったからでは? 

ちなみに「仮面夫婦プロジェクト」には、「外面的には夫婦だけど、実際には冷え込んだ関係」というマイナスの意味の言葉「仮面夫婦」を、プラスの意味に変えていこう、という意気込み(?)があるそうです。しかしやはり「仮面夫婦」はプラスの意味になったとしても、異常な存在、非日常の存在ではあり続けるでしょう。

もしそれが日常の存在になったとすると、「仮面をかぶることによって、普通にはできないことができるようになる」という古代以来の仮面のパワーが失われた時なのかもしれません。今のSNSでアバターやVtuberが、普通の人と別に変わらない存在として受け取られはじめているのは、その前触れかもしれません(笑)

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