2023年11月14日火曜日

第9回そらまどアカデミア開催しました! 地誌に収まらない存在『三国名勝図会』

第9回そらまどアカデミアを開催いたしました。

当日11月12日は、いろんなところでイベントが開催される賑やかな日でした。近くでは、津貫蒸留所の「蒸留所祭り」、川辺の「磨崖仏まつり」などがありましたし、鹿児島市内でもイベントが目白押し。おそらくその影響で、今回は集客に苦労しました(それでも13名が参加しました)。

そんな中でも、講師の川田達也さんはフルスロットルで講演。始まる前は「時間持つかな…」と言ってましたが、結局、約30分延長して2時間の講演となりました。

今回の演題は「『三国名勝図会』という世界」です。川田さんは、ご自身のライフワークである古寺跡巡りの参考資料として『三国名勝図会』を手に入れ、今では「鹿児島で一番楽しんで『三国名勝図会』を読んでいる人」と言っても過言ではない方。

さて、『三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)』とは、江戸時代の後期に薩摩藩によって編纂された薩摩国・大隅国・日向国の地誌です。

これは各郷(今の市町村くらいの単位)で製作された『名勝誌』などを元にまとめられたもので、江戸時代には刊行はされておらず、島津久光が所蔵していたものが明治38年に刊行されて一般人の目に触れるようになりました。その序文によると、失われた「風土記」をもう一度作りたい、という思いが編纂者たちにあったそうです。

この『三国名勝図会』ですが、今回川田さんが紹介してくれた見所は、次の7つ。
1.絵図
2.さまざまな事柄の由来・由緒
3.失われた文化
4.編者たちの熱意
5.編者たちの考察
6.編者たちの怒り
7.トンデモばなし

当日はいろんな記事が参照されましたが、以下適宜ピックアップして内容をご紹介します。

1.絵図

『三国名勝図会』 は、絵図と文章で構成されており、当時の風景が写実的な大和絵で表現されています。特に、桜島は『三国名勝図会』の中でも一番多くの絵図に登場するそうです。やはり桜島は昔から鹿児島のシンボル!

そこでは、桜島が「天に挟み込まれている」とか「青漆の盤上に香炉をおいたようである」とか、地誌とは思えないくらい文学的な表現で賞翫されています。こういう文学的な表現も『三国名勝図会』の魅力の一つだということ。なお桜島の絵図には、噴煙が描かれているものが多いそうです。「江戸時代には桜島はあまり噴火してなかった」と言われますが、やっぱり江戸時代の人も灰には苦労してたのかも知れません。

2.さまざまな事柄の由来・由緒

『三国名勝図会』には、故事来歴がこれでもかと書かれています。例えば横川にある安良大明神社の項には、この地域では炭を焼かないとか、門を立てないとか、紺染めの着物を着ないといった不思議な風習が書かれています。これは古代の安良(やすら)姫の悲劇(貴人の着物を誤って川に流してしまい、門にくくりつけられて焼かれた)に基づくものだったとか。ところが、この風習(禁忌)は、『三国名勝図会』編纂の時点で失われつつあった模様。いつの時代も、風習や伝承を継承し続けていくって難しいですね。

3.失われた文化

『三国名勝図会』は、今では失われた文化を伝えてくれています。例えば鹿児島市の荒田八幡には、マムシがいないという伝説があり、マムシの御守り(蝮蛇の鎮符)があったそうです。これは本殿下の砂で、これをマムシに投げつけると痛がって退散するとのこと。そしてなんと、これはほぼ「失われた文化」ではありますが、このマムシの御守りの砂自体は、今でも社務所に言えば分けてくれるそうです! 川田さんは実際にこの砂を持ってきてくれました。

4.編者たちの熱意

3までは、江戸時代の地誌として当然の見所になりますが、ここからは川田さんなりの楽しみ方が入ってきます。まずは編者の熱意が溢れた項目。例えば「桜島大根」! 当時は「桜島萊菔」と書いたそうですが、『三国名勝図会』の編者はこれを激賞しています。しかも「有名な尾張大根なんかメじゃない!」という調子で、桜島大根を激賞するあまり有名な他地域のものを下げているのが面白い。 そんなに美味しいのに世に知られていないのは「薩摩が僻地であるせいだ」。言ってることが今と変わらないですね(笑)

「栄之尾温泉」(霧島温泉の中のひとつ)の項では、妙に隣の硫黄谷温泉を下げています。そして霧島温泉は霧島の霊秀(霊峰)から出ているのだから、有馬温泉とか道後温泉なんてのは相手にならないのだ! と、ここでも有名なものを下げています。それでも全国的に知られていないのは「薩摩が僻地であるせいだ」。うーん、自虐的ナショナリズム!

5.編者たちの考察

『三国名勝図会』には歴史や伝説が豊富に掲載されていますが、それらには筋の通らないものも多いわけです。例えば隈之城の百次(ももつぎ)村には「寶昌山善応寺」がありましたが、ここには開山(寺をつくった人)に3つの言い伝えがありました。どれが正しいのか? 『三国名勝図会』の編者は、いろいろと考察してもっともらしい説を提示します。「こういう説がある」だけで終わらず、それに対して考察を加えていくのが『三国名勝図会』流です。

ちなみに、川田さんが寶昌山善応寺跡に行ったら、『三国名勝図会』に書かれていた開山関係の墓石が残されていたそうです。しかし! 墓石に刻まれた文字が、その記載と微妙に異なっていました。「こういう脇の甘さも魅力」とのこと(笑) 『三国名勝図会』に記録されている石造物や遺物が実際に残されている場合、記事と実物を照合できることはとても楽しいそうです。

6.編者たちの怒り

時には、熱意や考察を飛び越えて、編者たちの怒りがほとばしることも! それが山川の「海雲山正龍寺」の項。ここでは、怒りの矛先が藤原惺窩(せいか)へ向かっています。藤原惺窩は戦国末期の儒者で、儒学を学ぶため明に渡ろうとして鬼海島に漂着。結局、明には渡れなかったのに、その後儒者として大成することになります。

それは、『三国名勝図会』の編者によれば、惺窩は鬼海島=硫黄島から山川港へ行き、正龍寺を訪れて桂庵禅師や南浦文之が訓点(漢文の返り点)をつけた四書朱註を写し取って盗作したからだ! そうです。そのころはまだちゃんとした訓点がなかったので、正龍寺で研究されていた儒学の研究、特に訓点は惺窩にとって画期的なものだったに違いありません。これで「わざわざ明に行かなくても済むじゃん!」と惺窩が思った可能性は高い。

この盗作について編者は相当怒っていたらしく、「このことはみんな知らないから事の始末を記録する」と述べ、9ページにわたって藤原惺窩が桂庵禅師などの儒学の成果を剽窃したことを延々と論証しています。ってどんな「地誌」だよ!

ちなみに桂庵禅師は藤原惺窩から約200年前の人。「本藩では200年も昔から訓点がつけられていたのに、それが広まらなかったのは本藩が僻地だからだ」と、ここでも僻地を強調しています。

ところで、(川田さんは言ってませんでしたが)戦国時代には薩摩人は自分たちが僻地にいるとはあまり思っていなかった節があります。薩摩は東南アジアや中国に近く、「玄関口」と思っていたような。それが近世幕藩権力の確立によって「江戸」という中心が明確になり、そこから「薩摩=僻地」観が出来ていったような気がします。どのあたりで「薩摩=僻地」観が確立したんでしょうかね。

7.トンデモばなし

『三国名勝図会』には、時々編者自身も「なんじゃそりゃ?」と思っていそうな荒唐無稽な話が記載されています。例えば、鹿児島市の山下小の隣あたりにかつてあった萩原天神社には、「天神池蛙闘」の伝説がありました。宝暦の頃(←編纂時よりそんなに昔ではないのがポイント)、萩原天神社にあった池と、南泉院(照国神社のところにあった寺)の池の蛙数千匹が、4日間、それぞれの池に遠征して死闘を繰り広げたそうです。

中国の史書にも似たような蛙の戦いが記録されているそうで、編者は「そういう類の話だろうか」と述べていますが、それにしても、とても事実とは思えないようなトンデモ話が、藩が製作する地誌に大まじめに述べられているとはすごいですよね(笑)。こういうトンデモエピソードが突然展開されるのも『三国名勝図会』の魅力だそうです。

なお、この蛙の闘いがあった萩原天神は、場所が移って天文館の「千石天神」として残っているそうですので、蛙の闘いを思い浮かべつつ参拝されてはいかがでしょうか。

このように、『三国名勝図会』の世界の面白さが縦横無尽に語られた2時間でした。薩摩国・大隅国・日向国の地誌……なんて枠組みに収まりきれないエネルギーがある本ですねー。『三国名勝図会』を学術的に読み込んでいる方は他にもいるかもしれませんが、こんなに面白おかしく読んでいる人は川田さん以外にはいないように思います。しかも、『三国名勝図会』を読むだけでなく、そこに記載された場所に実際に足を運び、遺物と照合しているのは川田さんならでは。

今回ご紹介いただいた内容を核に、ぜひ書籍にまとめてもらいたいですね!川田さん、ありがとうございました!

****お知らせ****

12月10日(日)、毎年恒例になりつつある、川田達也さんと南薩の田舎暮らし窪のトークイベント「鹿児島磨崖仏巡礼」を開催します。今年は鹿児島大学名誉教授の大木公彦先生を講師に招いて講演していただきます。ぜひお申し込み下さい。

鹿児島磨崖仏巡礼vol.6 —石材と磨崖仏—
大木公彦先生の「鹿児島の磨崖仏と石造物は火山の恵み?」の特別基調講演の後、磨崖仏についてのフリートーク。>>詳しくはこちら
日時 2023年12月10日(日)16:00〜18:00
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)
要申込:定員20名
参加料:1000円
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89



2023年11月6日月曜日

大浦祭りが盛大に開催されました!

11月3日(金・祝)、第15回大浦祭りが開催され、南薩の田舎暮らしも出店しました。

コロナ禍で3年間開催が中止になっていたので、4年ぶりの開催です。

この祭りは、神事はない、いわゆる「産業祭り」で、旧大浦町が南さつま市に合併した際に、元々あったお祭りを合併して開催することになったのが始まりだそうです。

そういう経緯から、祭りの実行委員会は市役所大浦支所が中心になってきました。ところが、この数年の間に大浦支所は人員が半分くらいに減らされて、市役所の人たちだけでは運営が難しくなりました。そこで今回は、民間からの実行委員もいろいろと役を担っての開催となりました。私も数年前から実行委員になっていますが、初めてする作業がたくさんありました。

合併によって役場の人が減るのはしょうがないこととはいえ、金峰支所や坊津支所は建て替えすら行われているというのに、どうも大浦支所は切り捨てられる側にあるような気がして仕方ありません…。

それはともかく、当日は快晴。これ以上ないほどのいい天気で、11月にしては暑いくらいの気候でした。南薩の田舎暮らしは、未だに町内で認知度が低い「そらまど」の広報を兼ね、本も並べて出張カフェ営業をしました。

すると、かなり暑かったためもあり、開店直後からたくさんのお客様がアイスコーヒーを注文。11月でこんなにアイスコーヒーが売れたのは初めてかも。途中で氷と水を買い足したのですがそれでも足らず、16時くらいには売り切れてしまいました。来て下さったのに「もう売り切れです〜」と断ってしまったお客様、申し訳ありませんでした。

大浦祭りは毎回必ず出店していますが、うちの店はこれまでで一番賑わったような気がします。また、久しぶりの開催ということで、大浦出身で県外に出られている方がたくさんお越しになり、祭り自体もかなり多くの人出があったのではないかと思います。

大浦町の人口は約1500人となって、かなり寂しい地域になってきてはいますが、こうして多くの人が集まって楽しく過ごす機会が1年に1度でもあるといいなと改めて思いました。

ちなみに、写真を撮り忘れてしまいましたが三六板(サブロクバン=90×180cmのベニヤ板)に「そらまど」のCMをデカデカと書いて広報しました。これを見て「そらまど」に来ていただけるようになるといいのですが。

最後には、恒例の花火も盛大に打ち上がり、久しぶりに間近で見る花火の迫力と、山からの反響音の大きさに改めて感激しました。素晴らしい一日に感謝です。みなさま、ありがとうございました。

2023年10月12日木曜日

第9回そらまどアカデミア「『三国名勝図会』という世界」を開催します!

11月12日、第9回そらまどアカデミアを開催します!

皆さんは、『三国名勝図会』って聞いたことありませんか? 

これは江戸時代後期に薩摩藩によって編纂されたもので、鹿児島の伝説、特産品、名所、そしていろんなエピソードがてんこ盛りに書かれた本です。鹿児島で歴史に興味がある人は、必ずぶち当たる史料ですよね。

が! 『三国名勝図会』は、有名な割には意外と読まれていません。

というのは、あまりに大部すぎるからでしょう…。国会図書館デジタルコレクションでも見ることができますが、やっぱり紙の本でないと通読は困難。そして、紙の本は、全5巻セットで二万円くらいしますから、これまたちょっとハードルが高い。私自身、通読していません。

というわけで、多くの人が気になりながらも全貌が明らかでない『三国名勝図会』について、今、鹿児島で一番『三国名勝図会』を愛読しているといっても過言ではない、川田達也さんに語っていただくことにしました。

下の説明を読んでみて下さい。「笑いあり涙ありの文学作品集なのである」 なんて、愛読している人からしか出てこない言葉だと思います。どんな笑いや涙があるのか、興味津々です。

ぜひ一緒に、『三国名勝図会』の世界に遊びに行きましょう!

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第9回 そらまどアカデミア

『三国名勝図会』という世界

講 師:川田達也

薩摩藩が残してくれた地誌『三国名勝図会』。豊富な絵図と記述をもって、江戸時代の鹿児島の姿を現代に伝える重要史料だ。しかしその正体は、史料という枠を飛び越えた、笑いあり涙ありの文学作品集なのである。そんな『三国名勝図会』が描き出す魅惑の世界をご案内する。

日 時:11月12日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:1000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
1988年鹿児島市生まれ。古寺跡写真家。大学在学中に廃仏毀釈を知り、卒業後に帰郷。以来鹿児島の古寺跡を撮り続けている。著書に『鹿児島古寺巡礼』(南方新社)。毎週金曜日、あいらびゅー FM に出演中。

2023年10月10日火曜日

第8回そらまどアカデミア開催しました! 仮面は非日常の存在

第8回そらまどアカデミア「仮面による文化形成」開催いたしました。

今回は、募集開始後、なかなか申し込みがありませんでした。ちょうど鹿児島国体が始まっていろんなところでイベントが行われていたためかもしれません。しかし開催直前になって立て続けにお申し込みをいただき、最後は「定員いっぱいです」と断るハメに…。またの機会によろしくお願いいたします。

講師の漣(さざなみ)俊介さんは、南九州市頴娃で「ギャラリー蛇足」を運営する傍ら、グラフィックデザイナー、一コマ漫画家、お香製造(鳴音(めいおん))など、様々なことに取り組んでいらっしゃいます。そんな漣さんが、ご夫婦でやっている(やっていた?)活動が「仮面夫婦プロジェクト」という仮面作りワークショップです。

なんで仮面? と思っていましたが、 きっかけは、新婚旅行で海外に行ったときに、現地で買った仮面を夫婦でつけたら「意外と楽しい!」と感じたからだそうです。そして、旅先で仮面をかぶって写真を撮るという活動をやっているうちに、「やっぱり自分で作らないと」となって仮面を作るようになり、仮面作り(彩色)ワークショップをやるようになったんだとか。

また、漣さんは姫路の出身で、お祖父様が「姫路はりこ」のコレクターだった影響もあるんだとか。恥ずかしながら「姫路はりこ」って知りませんでした。姫路ではかつて張り子のお面作りが盛んだったそうです。

では、なぜ姫路で張り子お面が作られたのか。このあたりから本論に入っていきます。「姫路はりこ」は古くからの産業ではなく、明治以降に盛んになったとのこと。近代には、武士や農家の副業として各地でお面作りが行われるそうですが、姫路もそうしたものの一例です。

姫路は城下町だったので、張り子づくりに必要な材料が揃っていました。具体的には、(1)反故紙、(2)布海苔(海藻から作る糊)、(3)型(瓦で型をつくった)、(4)胡粉(貝を砕いた粉、表面処理に使う)、(5)膠(動物性強力接着剤。姫路は革製品が有名だったため)、といったものが集まっていたからこそ張り子が産業となったのです。

このように、「文化ができるにはワケがある」。つまり、文化は何もないところから生まれるのではなく、その材料や風土や習慣、社会情勢によって存立するということです。

ここで、漣さんは世界各地の仮面について紹介していましたが、画像がないとよくわからないのも多いのでそれについては割愛します。

さて、姫路の張り子は近代以降のものでしたが、近代のお面は、仮面がカジュアル化した、「再構築されたもの」だといいます。どういうことでしょうか。

世界最古の仮面は、約9000年前のイスラエルの石仮面だそうです。 ちなみに日本最古は縄文時代の土面。こういったものは何のために作られたかというと、もちろん、これらは精霊や神といった超自然的な存在を表象するものでした。

しかし世界の諸民族が全て仮面を持ったかというとそうでもなく、仮面を持つ民族と持たない民族がいました。諸説あるそうですが、その違いは、定住するのかしないのかだ、というのが文化人類学者らの考えだそうです。つまり、定住して農耕や狩猟生活を営む以上、自然災害などがあっても簡単に移動はできないので、人間を超えた存在に祈るしかない。その存在を可視化したのが仮面であったと言います。

このように仮面は元来、霊的・宗教的な意味を帯びていたのが、科学の発展によってそうしたものに頼らなくてもよくなると仮面は形骸化し、再構築されることになります。

ここでいう再構築とは、“「演者」と「観客」を作る装置”という仮面の機能を利用し、エンタメや芸術、調度品として新しい仮面の居場所が作られていった、ということを指しています。

例えば、大衆劇や伝統芸能、仮面ヒーロー、仮面舞踏会、コスプレといったものが近代以降の仮面活躍のフィールドとしてあげられます。これを漣さんは「広がっていった仮面」と表現していました。

そして現代では、SNSのアバターやアイコンも仮面の一種と捉えられます。仮面をかぶることによって、「顔を隠した人間」が生まれるのですが、SNSの匿名性はまさに仮面をかぶったことと相似しています。これは決して悪いことばかりではなく、人間は常にペルソナ(外的側面=社会的仮面)を使い分けているのですから、SNSと言う場に似つかわしい仮面に付け替えているだけとも言えます。

そして、バンクシーの落書きが、その匿名性・正体の謎さによってより魅力的なメッセージとして受け取られているように、正体不明さは時として人に力を与えます。漣さんは、バンクシーのメッセージは「政治など個人ではどうしようもない巨大な力に対して忠告を与えて去って行く」という点で、古代の「来訪神」と似たような性質があると感じているとのこと。

つまり、仮面をかぶることによって、普通にはできないことができるようになるのだ、というのがまとめでした。

ところで、漣さんの話し方は独特な間(ま)があって、その間にいろいろと考えさせられました。

例えば、日常生活で仮面をかぶっている人がいたらかなり異常なので、仮面をかぶるためには「顔を隠すことが了解されたシチュエーション」が必要です。例えば、祭りとか、遊びとか、演劇とかです。お祭りのテキヤさんが子どものお面を売っているのも、お祭りが「顔を隠すことが了解されたシチュエーション」だからですね。

逆に日常の生活の中では、仮面は異常性の表象ともなります。浦沢直樹のマンガ『20世紀少年』で、「トモダチ」が子どもの頃の回想で常に仮面をかぶっているのも一種の異常性を示すものですよね。

そう考えると、古代人が精霊や神を単に具象的に表現するのでは飽き足らず、それを仮面にして「演じる」ことができるようにしたのは意味がありそうです。仏像や神像でも十分にその神聖性を表現することはできると思いますが、精霊や神の面は、かぶること自体にただならぬ意味があるわけです。異常な世界、非日常の世界にいっちゃうということですから。これがお面と像との最大の違いだと思いました。

漣さんと奥さんが「仮面をかぶって意外と楽しかった」というのも、海外旅行という非日常の世界だったからでは? 

ちなみに「仮面夫婦プロジェクト」には、「外面的には夫婦だけど、実際には冷え込んだ関係」というマイナスの意味の言葉「仮面夫婦」を、プラスの意味に変えていこう、という意気込み(?)があるそうです。しかしやはり「仮面夫婦」はプラスの意味になったとしても、異常な存在、非日常の存在ではあり続けるでしょう。

もしそれが日常の存在になったとすると、「仮面をかぶることによって、普通にはできないことができるようになる」という古代以来の仮面のパワーが失われた時なのかもしれません。今のSNSでアバターやVtuberが、普通の人と別に変わらない存在として受け取られはじめているのは、その前触れかもしれません(笑)

2023年10月1日日曜日

「南薩の田舎暮らし」が、10周年を迎えました!

「南薩の田舎暮らし」が、10周年を迎えました!

これは、多くの方にご支援いただき、たくさんのお客様に恵まれ、応援いただいているおかげです。改めてありがとうございます!

統計によると、90%以上の会社が創業10年以内に廃業するそうです。うちは法人ではなく「南薩の田舎暮らし」は屋号ですから単純には比べられませんが、一応10年続けて来られたのは誇らしいです。

実際、「南薩の田舎暮らし」が活動している間にも、いろいろな人たちが活動を始め、そして辞めていきました。別に長続きするのが偉いわけではないですし、時には撤退するのも重要です。私たちも、もしかしたら大浦町で細々と農業や食品加工をするより、都会で働いた方がよりよい暮らしがあったかもしれません。

でも、私は今の暮らしが気に入っています。そして、今やっている農業や食品加工やカフェの経営といったものは、それなりに地域に貢献できているような気がします。10年やってきても華々しい活躍といったものはないですが、やろうと思ったことを実現し、続けられていることに感謝したいです。本当にみなさんのおかげです。

というわけで、感謝の気持ちを込め、2023年10月は、南薩の田舎暮らしのジャムとシロップを10%offで販売することにしました。対象は「南薩の田舎暮らし」のショップサイトと、「books & cafe そらまど」での販売、それから「石蔵ブックカフェ」(10月28日)の販売です。 ぜひご利用ください。

↓南薩の田舎暮らし
http://nansatsu.shop-pro.jp/

そして、何を基点に10周年なのか、ということについて説明します。

実は、大浦町に移住してきた時に「南薩の田舎暮らし」というタイトルでブログをしていました(現「南薩日乗」)。そして最初に始めた農業のポンカンを販売するのに、そのブログタイトルを流用して「南薩の田舎暮らし」ショップサイトをつくりました。ここまでは「南薩の田舎暮らし」前史で、10年の期間の前になります。

そして2013年8月に小さな食品加工所を建設し、「南薩の田舎暮らし」を冠してジャム(南薩コンフィチュール)を製造販売しました。ここが「南薩の田舎暮らし」という屋号での活動が実体化した時と判断しております。なので2023年8月で10周年を迎えたというわけです。

なので、本当の10周年は8月でしたが、8月は農繁期で忙しく準備ができないため、10周年記念の10%offセールを行うのが2023年10月というわけです。そして農産物が対象になっていないのは、農業はそもそも「南薩の田舎暮らし」を冠する前からやっていて10周年とは言えないためです(もう11年)。

話は変わりますが、10周年ということで過去の記録を見直してみました。

初めて5年間くらいは、自分でも驚くほど、夫婦二人でいろんな仕事をしていました。まさに生きるために必死だった感じです。各地のマルシェでの出張販売も精力的にやっていました。その後、コロナ禍になって活動が制限され、マルシェもなくなり、3年ほどは活動が停滞していました。その中で「books & cafe そらまど」をオープンしたのですが、初めの方に比べると、ずいぶん低空飛行になっています。10歳年をとったから、というのもあります。

確かに、だんだん無理はきかなくなりますが、20周年を目指して、もうちょっと頑張っていきたいですね。皆さん、あらためてよろしくお願いいたします。

2023年9月15日金曜日

温暖化の影響で、柑橘の日焼け被害が深刻になってきています

この写真の柑橘、何がどうなってるんだと思います?

実はこれ、ブンタンの日焼け被害なんです。もちろんこうなってしまったら、もう収穫はできません(この写真を撮った後に落としました)

柑橘って日焼けするの? と思うかもしれません。なにしろ柑橘はもともと亜熱帯の植物です。強い日差しには強いはず。

実際、柑橘(特に中晩柑類)の日焼け被害は近年になるまでほとんどありませんでした。

ところが、ここ数年で柑橘の日焼け被害がかなり広がってきています。初秋に収穫を迎える温州ミカンが日焼けの被害を受けるのは仕方ないとしても、最近では皮が厚くて丈夫なブンタンまでも日焼け被害を受けるようになってきました。

なお、これは日焼けといっても、紫外線ではなくて高温による障害なのです。

夏場の気温が高い時、直射日光を受けた柑橘果皮の表面温度が45~50℃くらいまで上がってしまい、このような症状になると言われています。ともかく、夏が暑すぎるのが原因。そして、温暖化が進むことで、柑橘の日焼け被害はさらに拡大することが予想されています。

今年はただでさえブンタンの着果が悪くて不作なのに、結構な数が日焼け被害を受けてしまいました。ガムテープを張るなど、対策できないことはないのですが、油断していました。

温暖化って、思わぬところに影響を及ぼすんですね。亜熱帯の植物である柑橘には、温暖化はむしろ追い風かもしれないと思っていたのですが、単純ではありません。

2023年9月13日水曜日

第7回そらまどアカデミア開催しました! 知られざる「絵本の戦争責任」

第7回そらまどアカデミア「戦前・戦中・戦後の絵本〜移りゆく子ども観〜」を開催しました。

講師の四元誠さんには、ちょうど一年前にもそらまどアカデミアで絵本の近代史について講演していただきました。

その時は予定の1時間半を超えて、3時間近くになる大講演をしていただいたのですが、 今回はその講演の中の戦争前後にフォーカスして話してもらいました。

ですが、話は明治時代から始まります(笑)

日本で、初めての子ども向けの本は巌谷小波(いわや・さざなみ)の『こがね丸』(明治24年)だと言われています。巌谷小波といえば、『日本昔噺』全24冊、『日本お伽噺』全24冊、『世界お伽噺』全100冊、『世界お伽文庫』全50冊などを編集し、昔話を広めた人。

『こがね丸』は今で言う創作童話ですが、当時は「童話」という言葉もないので、巌谷は「少年文学」という言葉を使っています。しかし文語体で子どもにはちょっと難しく、また子犬を主人公にするという工夫はあるものの、キャラクターにも子どもらしさは全く無いそうです。明治時代には、子どもは「小さな大人」と見なされていました。

『こがね丸』から4年後、画期的な雑誌が創刊されます。それが『少年世界』。これには読者投稿欄があり、これが言文一致を進める一助となりました。

なお、初めての子ども向けの本は小川未明の『赤い船』(明治43年)ではないかという説も。こちらはキャラクターに深みがあり、ちょっと陰影のあるストーリーです。

大正時代になると、第一次世界大戦による好景気で生活に余裕が出てきて教育が近代化し、主体性の重視、個性の尊重、体験の重視など、今につながるようなテーマがこの頃出てきます。いわゆる「大正自由教育運動」ですね。この風潮の中で、子どもの芸術面を伸ばそうということで絵を中心にした「絵雑誌」が次々と創刊されます。

『子供之友』は、「近代的な人間育成」を目指した教育的な雑誌。これにも読者投稿欄があって、読者の絵も投稿されています。しかもただ掲載されるだけでなく、けっこう辛辣な評が併せて載りました。「教育してやろう」という意志がはっきりした雑誌です。

『コドモノクニ』は、それとは違ってアート系の雑誌。竹久夢二が絵を描いています。

『赤い鳥』は夏目漱石の弟子、鈴木三重吉が創刊した子ども雑誌。鈴木は創刊の辞で「今の子供雑誌は俗悪だ!」として、高尚な雑誌を目指します。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」はこの雑誌が初出です。『赤い鳥』では、善良な主人公、無垢なキャラばかりで、子どもの弱さや純粋さをバリエーション豊富に描きます。資本主義の進展によって生き馬の目を抜く競争が行われる中、その揺り戻しとして子どもの世界が無垢さを強調されて描かれたのではないか、というのが四元さんの考えです。

大正15年創刊の『キンダーブック』は、いろんな話ではなく一冊で一テーマ、写実的な絵が主役で、子ども自身の観察を引き出す雑誌(というより定期配本)。創刊号のテーマは「お米」ですが、出来たお米は軍人さんに食べてもらうというラストで、既に戦争賛美が見え隠れしています。

昭和に入ると、戦前になっていきます。昭和4年の世界恐慌で景気が冷え込み、日本は帝国主義による力の論理で経済圏をつくろうとします(「満洲は日本の生命線」)。そんな中、昭和11年に講談社が創刊したのが『講談社の絵本』というシリーズ。これは、社長が「皇太子殿下(←現上皇陛下)にお見せできる絵本を!」という意気込みで出し、毎月4冊も出した上、40銭という雑誌としては高い価格にもかかわらず講談社の資本力によって大量に売りました。ちなみに第1号は『乃木大将』。最初から国家主義を鮮明にしています。

昭和13年には国家総動員法が制定され、内務省の統制が強力になります。絵本も「こんな内容の絵本をつくりなさい」という指導の下、プロパガンダ絵本以外は認められないという状況になっていきました。こうして絵本でも戦争の美化、権力への絶対服従が教え込まれていきます。『キンダーブック』はタイトルが外来語でけしからんとされ、『ミクニノコドモ』に変わります。もちろん内容も激変です。

こんな中、講談社のシリーズをパクって(!)軍事絵本刊行会が出版した『皇軍大勝利』は、のっけから「中国人兵士を叩っ切る」など、もはや絵本としてあるまじき内容になっています。業界も苦慮はしたのですが、この状況は、逆に言えばプロパガンダに協力するなら国のためと言う大義名分で絵本が出版できる、というわけで、先述の講談社などは戦争美化絵本を売りまくります(ひどい!)。

ところで、そういう戦争美化絵本は、どうしてもストーリーが「敵を倒す」しかありませんし、内容が全部似たり寄ったりで飽きないのかな? と思いますよね。四元さんによれば、絵の力、つまりビジュアルによって飽きさせない工夫が見られるそうです。現代の少年マンガでも、決めポーズや技のビジュアルで魅せる工夫がされていますが、おんなじですね。

ともかく、戦中は「国のために役に立ち、死んでくれる子どもを育てる」ということで、絵本はそのためのものばかりになってしまいました。 

戦後は、そうした狂った出版への反省がなされ、児童文学の協会も出来、国のためではない、子どものための本が出てきます。特に「岩波の子どもの本」がその嚆矢となりました。

そして1956年(昭和31年)には福音館書店『こどものとも』が創刊。これは編集長の松居直(ただし)の「教育のための絵本にはしたくない」との考えの下、常識や教養を身につけるためではなく、「子どもが面白いと思うものをつくる」という、画期的な方針のシリーズでした(現在も継続中)。

ただ、教育的なものがなかったかというとそうでもなく、『だるまちゃんとてんぐちゃん』で有名なかこさとしさんは科学をテーマにした絵本をたくさん手がけています。とはいえ、それは上から目線で物事を教えるのではなく、子どもの目線で社会を見る手法がとられているのが特徴。

このように、戦前「国のため」だった絵本は、戦後は「子どものため」の絵本へと変わったのですが、四元さんは、「子どもという存在を大人の都合のよいように解釈して、社会の求める「子ども像」を当て嵌めるという意味では、本質的には変わってないのでは?」と感じているそうです。

そこで、現在の教育基本法(昭和22年制定)を見てみると、教育は「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とあります。これは素晴らしい理想ではあるのですが、やっぱり「押しつけなんじゃないの?」と言えなくもない。

さすがに就学前教育とか小学校くらいまではあまり言われませんけど、教育というとすぐに「社会に有用な人材を!」とかになってしまいますからね。四元さんは、そういう「子ども観」=「教育観」はうまくいってないと感じているとのこと。たくさんの保育園や学童の仕事に携わっている実感なのだと思いました。

明治から始まり、戦前・戦中・戦後という長いスパンでの話でしたが、やはりみなさんの関心が集中したのは戦中の絵本です。なにしろ、この時期の絵本は内容が内容なだけに復刊されず、闇に葬られているからです。そして、それらを見てみると、「絵本の戦争責任」はやっぱりあるんじゃないか、と考えざるをえません。

「天皇陛下のために命を捨てる」という、狂信的な思想を身につけるためには、子どもの頃からの入念な教育が必要とされたのは言うまでもありません。今以上に「教育」が重要だったのが戦中なのかもしれません。その一翼を担ったのが絵本です。

四元さんには、知られざる「絵本の戦争責任」の世界を垣間見せてもらいました。貴重な絵本はコレクションするのにもかなりのお金がかかっているみたいです。惜しげもなくその知識を披露してくださったことに対し、この場を借りて改めて御礼申しあげます。ありがとうございました。