講師の四元誠さんには、ちょうど一年前にもそらまどアカデミアで絵本の近代史について講演していただきました。
その時は予定の1時間半を超えて、3時間近くになる大講演をしていただいたのですが、 今回はその講演の中の戦争前後にフォーカスして話してもらいました。
ですが、話は明治時代から始まります(笑)
日本で、初めての子ども向けの本は巌谷小波(いわや・さざなみ)の『こがね丸』(明治24年)だと言われています。巌谷小波といえば、『日本昔噺』全24冊、『日本お伽噺』全24冊、『世界お伽噺』全100冊、『世界お伽文庫』全50冊などを編集し、昔話を広めた人。
『こがね丸』は今で言う創作童話ですが、当時は「童話」という言葉もないので、巌谷は「少年文学」という言葉を使っています。しかし文語体で子どもにはちょっと難しく、また子犬を主人公にするという工夫はあるものの、キャラクターにも子どもらしさは全く無いそうです。明治時代には、子どもは「小さな大人」と見なされていました。
『こがね丸』から4年後、画期的な雑誌が創刊されます。それが『少年世界』。これには読者投稿欄があり、これが言文一致を進める一助となりました。
なお、初めての子ども向けの本は小川未明の『赤い船』(明治43年)ではないかという説も。こちらはキャラクターに深みがあり、ちょっと陰影のあるストーリーです。
大正時代になると、第一次世界大戦による好景気で生活に余裕が出てきて教育が近代化し、主体性の重視、個性の尊重、体験の重視など、今につながるようなテーマがこの頃出てきます。いわゆる「大正自由教育運動」ですね。この風潮の中で、子どもの芸術面を伸ばそうということで絵を中心にした「絵雑誌」が次々と創刊されます。
『子供之友』は、「近代的な人間育成」を目指した教育的な雑誌。これにも読者投稿欄があって、読者の絵も投稿されています。しかもただ掲載されるだけでなく、けっこう辛辣な評が併せて載りました。「教育してやろう」という意志がはっきりした雑誌です。
『コドモノクニ』は、それとは違ってアート系の雑誌。竹久夢二が絵を描いています。
『赤い鳥』は夏目漱石の弟子、鈴木三重吉が創刊した子ども雑誌。鈴木は創刊の辞で「今の子供雑誌は俗悪だ!」として、高尚な雑誌を目指します。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」はこの雑誌が初出です。『赤い鳥』では、善良な主人公、無垢なキャラばかりで、子どもの弱さや純粋さをバリエーション豊富に描きます。資本主義の進展によって生き馬の目を抜く競争が行われる中、その揺り戻しとして子どもの世界が無垢さを強調されて描かれたのではないか、というのが四元さんの考えです。
大正15年創刊の『キンダーブック』は、いろんな話ではなく一冊で一テーマ、写実的な絵が主役で、子ども自身の観察を引き出す雑誌(というより定期配本)。創刊号のテーマは「お米」ですが、出来たお米は軍人さんに食べてもらうというラストで、既に戦争賛美が見え隠れしています。
昭和に入ると、戦前になっていきます。昭和4年の世界恐慌で景気が冷え込み、日本は帝国主義による力の論理で経済圏をつくろうとします(「満洲は日本の生命線」)。そんな中、昭和11年に講談社が創刊したのが『講談社の絵本』というシリーズ。これは、社長が「皇太子殿下(←現上皇陛下)にお見せできる絵本を!」という意気込みで出し、毎月4冊も出した上、40銭という雑誌としては高い価格にもかかわらず講談社の資本力によって大量に売りました。ちなみに第1号は『乃木大将』。最初から国家主義を鮮明にしています。
昭和13年には国家総動員法が制定され、内務省の統制が強力になります。絵本も「こんな内容の絵本をつくりなさい」という指導の下、プロパガンダ絵本以外は認められないという状況になっていきました。こうして絵本でも戦争の美化、権力への絶対服従が教え込まれていきます。『キンダーブック』はタイトルが外来語でけしからんとされ、『ミクニノコドモ』に変わります。もちろん内容も激変です。
こんな中、講談社のシリーズをパクって(!)軍事絵本刊行会が出版した『皇軍大勝利』は、のっけから「中国人兵士を叩っ切る」など、もはや絵本としてあるまじき内容になっています。業界も苦慮はしたのですが、この状況は、逆に言えばプロパガンダに協力するなら国のためと言う大義名分で絵本が出版できる、というわけで、先述の講談社などは戦争美化絵本を売りまくります(ひどい!)。
ところで、そういう戦争美化絵本は、どうしてもストーリーが「敵を倒す」しかありませんし、内容が全部似たり寄ったりで飽きないのかな? と思いますよね。四元さんによれば、絵の力、つまりビジュアルによって飽きさせない工夫が見られるそうです。現代の少年マンガでも、決めポーズや技のビジュアルで魅せる工夫がされていますが、おんなじですね。
ともかく、戦中は「国のために役に立ち、死んでくれる子どもを育てる」ということで、絵本はそのためのものばかりになってしまいました。
戦後は、そうした狂った出版への反省がなされ、児童文学の協会も出来、国のためではない、子どものための本が出てきます。特に「岩波の子どもの本」がその嚆矢となりました。
そして1956年(昭和31年)には福音館書店『こどものとも』が創刊。これは編集長の松居直(ただし)の「教育のための絵本にはしたくない」との考えの下、常識や教養を身につけるためではなく、「子どもが面白いと思うものをつくる」という、画期的な方針のシリーズでした(現在も継続中)。
ただ、教育的なものがなかったかというとそうでもなく、『だるまちゃんとてんぐちゃん』で有名なかこさとしさんは科学をテーマにした絵本をたくさん手がけています。とはいえ、それは上から目線で物事を教えるのではなく、子どもの目線で社会を見る手法がとられているのが特徴。
このように、戦前「国のため」だった絵本は、戦後は「子どものため」の絵本へと変わったのですが、四元さんは、「子どもという存在を大人の都合のよいように解釈して、社会の求める「子ども像」を当て嵌めるという意味では、本質的には変わってないのでは?」と感じているそうです。
そこで、現在の教育基本法(昭和22年制定)を見てみると、教育は「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とあります。これは素晴らしい理想ではあるのですが、やっぱり「押しつけなんじゃないの?」と言えなくもない。
さすがに就学前教育とか小学校くらいまではあまり言われませんけど、教育というとすぐに「社会に有用な人材を!」とかになってしまいますからね。四元さんは、そういう「子ども観」=「教育観」はうまくいってないと感じているとのこと。たくさんの保育園や学童の仕事に携わっている実感なのだと思いました。
明治から始まり、戦前・戦中・戦後という長いスパンでの話でしたが、やはりみなさんの関心が集中したのは戦中の絵本です。なにしろ、この時期の絵本は内容が内容なだけに復刊されず、闇に葬られているからです。そして、それらを見てみると、「絵本の戦争責任」はやっぱりあるんじゃないか、と考えざるをえません。
「天皇陛下のために命を捨てる」という、狂信的な思想を身につけるためには、子どもの頃からの入念な教育が必要とされたのは言うまでもありません。今以上に「教育」が重要だったのが戦中なのかもしれません。その一翼を担ったのが絵本です。
四元さんには、知られざる「絵本の戦争責任」の世界を垣間見せてもらいました。貴重な絵本はコレクションするのにもかなりのお金がかかっているみたいです。惜しげもなくその知識を披露してくださったことに対し、この場を借りて改めて御礼申しあげます。ありがとうございました。
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