2023年1月12日木曜日

第5回そらまどアカデミア「絵の具の旅— 中世ヨーロッパの絵の具の歴史とその作り方 —」

みなさん、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

今年はポンカンが不作で少ししょげているのですが、気を取り直してできることに取り組んで行こうと思います。

【参考記事】ミカンナガタマムシのせいでポンカンが壊滅…! やはり無農薬栽培は難しい。
http://nansatz-kurashi.blogspot.com/2022/11/blog-post.html

というわけで、2月5日(日)に第5回 そらまどアカデミアを開催します!

今回は、現代テンペラ画家のきはらごうさん(冒頭画像)をお招きして、「絵の具の旅—中世ヨーロッパの絵の具の歴史とその作り方—」という演題で話していただきます。

私はこの演題をいただいた時、「画家が絵について語るのはよくあるけど、絵の具について語る人は珍しいな!」と思いました。そして「現代テンペラ画家」という肩書きもなじみのないものだったので、「どうしてこの人はテンペラ画家になったんだろう?」と興味が湧きました。というわけで、先日、きはらごうさんのアトリエにお邪魔して話をきいてきました。

まず、なぜ「絵の具」をテーマにしたか。きはらさんはいろいろ語ってくれましたが、私が感じたことは、「この人は絵の具が好きなんだな〜」ということです。きはらさんは「テンペラ」という技法で絵を描いています。これは、ごく簡単に言うと「顔料を卵の黄身で溶いて絵を描く方法」です。『ヴィーナスの誕生』のボッティチェリなんかがテンペラ画家。

ここで、なんで「卵の黄身」が必要なの? と思うかも知れませんね。これは、顔料だけでは固着が十分でないので、卵のタンパク質が変性する力を借りて顔料を定着させているのです。ということで、テンペラで絵を描くには、いちいち卵を割って顔料を溶き、自分で絵の具をつくらないといけない。こりゃめんどくさい。しかも卵の固着力はあまりないので絵の具の厚塗りができない。というわけでもっと便利な油絵の具が開発されていきます。

しかしきはらさんは、この使いづらく、面倒なテンペラの技法がかえって楽しくなっちゃったそうです。元々は大学時代に、日本にテンペラ技法を本格的に紹介した田口安男さんからテンペラ画を学んだことに遡ります。それからしばらくテンペラからは遠ざかっていたそうですが、表現を模索する中で28歳頃に再びテンペラに取り組みました。するとこれが、「ぜんぜんうまくいかなかった」。そして「うまくいかないのに楽しかった」。というか「うまくいかないからこそ楽しかったのかもしれない」と、きはらさん。

話を聞いていたら、きはらさんは「試行錯誤の余地がある」ことが楽しいというタイプなのかもしれないと思いました。たぶん、料理をレシピ通りにつくらない人かも(笑)

そしてきはらさんは「現代テンペラ画家」を名乗るようになります。ただの「テンペラ画家」ではなく、「現代」を付けたのは、昔のテンペラ技法をそのまま使って昔風の絵を描くのではなくて、あくまで自分なりの表現をしたいという決意の表れだそうです。ちなみにこの「現代テンペラ画家」を肩書きにしているのは、今のところ日本でもきはらさん一人だけだとか。なじみがないはずです(笑)

それでは、きはらさんがテンペラを使ってどのような表現をするようになったか……については、当日、会場に作品を持ってきて下さるそうなので、そちらでご確認下さい。

ただ、ご自身で「ぼくの絵画は工芸的な部分がある」とおっしゃるとおり、普通の油絵とは全然違う質感が印象的でした。

これは、きはらさんがまだ大学時代にテンペラで描いた自画像の一部分なのですが、これだけ見ても油絵とは全然違うことがわかると思います。

講演では、中世を中心にしつつも古代から現代までの絵の具の歴史をひもとき、実際のテンペラ絵の具の作り方まで語って下さるそうです。絵を描かれる方はもちろん、西洋美術に関心がある方に広く聴いていただきたい講演ですよ。どうぞよろしくお願いします!

***************

第5回 そらまどアカデミア

絵の具の旅— 中世ヨーロッパの絵の具の歴史とその作り方 —

講 師:きはらごう(現代テンペラ画家)

絵の具の歴史や作り方について考えたことありますか。古代から使用される絵の具は中世ヨーロッパで大きく発展し、現在の絵の具となりました。様々な時代の作品を例にしながら、絵の具の歴史や作り方まで、マニアックな内容を分かりやすく解説し、絵の具の魅力を探ってみたいと思います。

日 時:2023年2月5日(日)14:00〜15:30(開場13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:1000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
鹿児島市在住1975年生。合同会社GoART代表。九産大大学院芸術研究科修了後、フランスパリに3年間美術留学。帰国後、高校美術教師として18年間在職し専業画家として独立。全国で個展を開催しながら絵画教室の講師をしている。

2022年12月16日金曜日

「そらまど」は年末年始に営業します!(12月30-31日、1月2-3日)

年末年始の「そらまど」営業のご案内です。

普通のお店なら年末年始は休むものですが、ここ大浦町は、普段は人が少なくて、年末年始に人が帰ってくる場所なので、年末年始は営業いたします。

具体的には、

2022年12月30-31日(金・土)は通常営業します。

そして、

2023年1月2-3日(月・火)は10:00〜18:00で臨時営業します。

昨年も年始の臨時営業はしたのですが、年末はお休みしました。ですが、年末にしか来られない方も多いようだったので、今年は年末も営業することにしたのです。

この時期、私は農業の方も柑橘の収穫等で忙しいのですが、帰省で大浦に来られる方にとっては「そらまど」に来られる貴重な機会だと思いますので営業日を拡大したものです。

特に年始営業は、朝10時から開けることにしました。朝から開ければ、昼までのちょっとの時間を利用して来店することも可能ですからね。

南さつま市に帰省される皆様、どうぞ「そらまど」にお越し下さい。お待ちしております。

↓books & cafe そらまど(ホームページ)
https://sites.google.com/view/soramado/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0

↓同 instagram
https://www.instagram.com/books_soramado/

2022年12月2日金曜日

明日で「そらまど」1周年。WEBサイトも公開。

「books & cafe そらまど」が1周年を迎えます。

開店したのが2021年12月3日。明日でちょうど1年。

普通ならば、1周年を記念していろいろと企画するべきですし、そうでなくても「1周年ありがとうございます」というような表示をすべきですが、本日も全く平常通りの営業でした。

この1年営業してきて、一つよかったなと思うことは、「ただの1日も、全くお客さんが来ない日がなかった」ということです。

鹿児島市内からは1時間半くらいかかる僻地にある上、周りには店がない孤立したお店ですから、お客さんが来なくても当たり前です。

それなのに、営業日には必ず誰かしら来て下さいます。

近所の方を中心に、常連さんも何人かできました。今のところ儲かるような店ではありませんが(笑)、しばらくは続けていくことができそうです。

ご支援・ご来店くださっている皆様、ありがとうございます。

ところで、1周年を迎えるまでにやろうと思っていたことがあります。それは、お店のWEBサイトを作ること!

というわけで、まるで夏休み最終日に宿題をやる子どもみたいですが、ギリギリWEBサイトを作ってみました。

books & cafe そらまど
https://sites.google.com/view/soramado/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0

見れば分かる通り、「とりあえず作ってみた」というようなお座なりな出来映えです…。内容もレイアウトも写真も、キマっているとはとても言えません。「この程度なら、いっそないほうがいいのでは…」と自分でも思っています。

でもWEBサイトがあると、お客さんにとってわかりやすいんじゃないかなと思いますし、自分たちにとっても蓄積ができていいのではないかと思いますので、思い切って公開しました。

とりあえず1周年に間に合ってよかった(笑)

そんなこんなで明日のそらまど営業は1周年。1年間ありがとうございました。また次の1年をよろしくお願いします。

2022年11月30日水曜日

ミカンナガタマムシのせいでポンカンが壊滅…! やはり無農薬栽培は難しい。

早いものでもう12月です。ついこの間、新年を迎えたばかりの気がするのですが…。

ここ大浦町では、早くもポンカンの収穫準備が始まっています。今年は、どうやら地域的にはポンカンが豊作のようです。

しかし、実はうちではポンカンの収穫がほとんどないような感じになっています。

…というのは、この写真を見れば分かる通り、今年はポンカンが次々と枯れてしまいました! 全部枯れたわけではないですが、壊滅的といってもいいくらいの被害が出ております。

なので、今年が不作というよりも、ちょっとしばらくポンカンの生産が低調になるものと思います。うちの中心商材だったのにこれは痛い。 

どうしてポンカンが枯れちゃったのか?

実はこれ、ミカンナガタマムシという害虫の被害なんです。

「そんな害虫聞いたこともない!」という柑橘農家が多いと思います。こいつらは、慣行栽培で農薬を使っていたらほとんどお見かけしない害虫なのです。特に防除しなくても、ダニの殺虫剤などが苦手らしくて、寄りつかないためです(柑橘はダニが主要な害虫で、慣行栽培では殺虫剤を定期的にかけます)。

ところが、無農薬栽培ではこのミカンナガタマムシが非常に強力な害虫になります。日本各地で柑橘の有機栽培/無農薬栽培は行われておりますが、今のところこの害虫の(無農薬での)有効な防除方法が見つかっておりません。これのせいで柑橘の無農薬栽培を諦める方も多いと言われています。

どんな被害をもたらすかというと、この虫は樹皮の下に卵を産み付け、樹皮下で2mmくらいのウジ状の幼虫が育ちます。この幼虫が面状に樹皮下の形成層部分(維管束などがある)を食い荒らし、樹を枯らしてしまうのです。

うちではこれまでも柑橘を無農薬栽培してきましたので、昨年までも多少被害はありましたが、なぜか今年は非常に被害が多く、夏頃にはすでに多くのポンカンの樹で被害が顕在化していました。放置していれば樹が枯れてしまうので、背に腹は替えられないと思い、無農薬栽培を標榜しつつも「ミクロデナポン」という農薬を初めて使用しました。これは劇物の結構強力なやつです。

しかしながら、ミカンナガタマムシが一度樹皮下に卵を産み付けると、農薬でそれをやっつけるのは困難なのです。というのは樹皮下に住んでいるので直接農薬をかけることができないためです。そんなわけで、すがる思いで農薬を使ったものの、やはり目に見える効果はなく、多くのポンカンの樹が枯れてしまいました……。

そんなわけでガックリ来ているところですが、まあ枯れたものはしょうがない。

早速ポンカンの苗木を注文して、再起を期しています。ちなみにミカンナガタマムシは老木や樹勢の落ちた樹にはよく寄ってくるのですが、若い樹にはあまり来ないと言われています。枯れたポンカンの樹は樹齢70年くらいでしたので、もう寿命が来ていたとも考えられます。更新が遅すぎたのかもしれない。

というわけで、今年、ポンカンの販売が全くないということはないと思いますが、かなり数量が限られます。ポンカン以外の柑橘はそれなりに販売する予定ですので、しばらくはそちらの方をご愛顧いただけますようお願いいたします。

農薬を使わずに果樹を育てるって難しいですねー。

2022年11月4日金曜日

今回のMVPは運営のみなさん。「しやくしょマルシェ」ありがとうございました。

11月3日(木・祝)、「しやくしょマルシェ」が開催されました。

南さつま市役所加世田本所前の広場と駐車場を使って行われる、ハンドメイド雑貨中心のマルシェです。

コロナ禍でこういうイベントは見合わせが続いていましたが、今回はほぼ平常の通りの開催となりました。3年ぶりじゃないでしょうか。開催できただけでも嬉しいですね。

私たちにとっても、野外イベントの出店自体が3年ぶりくらいでした。そのため、どんな準備をすればよいのかすっかり忘れており、当日までの準備にだいぶ手間取りました。

しかも、今回は「books & cafe そらまど」としては初めての出店です。なのでドリンクスタンドだけでなく本の販売もあります。というわけで、過去最高の物量(搬入量)とも格闘する羽目にもなりました。

具体的には、直前まで本をどのように陳列したらいいのか悩みました。本棚を持っていけばいいのですが、ちょうどいい本棚はないし、かといってわざわざ作ったり買ったりするのはコストが…。そんなわけで開催1週間前まで本の陳列方法が決まらず!

しかし古いモロブタを立てかけて使えば、いい具合に本が並べられるんじゃないかと突然思いついて、3日前くらいにモロブタ本棚を慌てて作りました!(ちなみに「モロブタ」って方言なんですかね?)

というわけでなんとか本も陳列することができ、多くの方に本を見ていただくことができました。モロブタ本棚は思った以上によかった! 

そして正直言うと、「このご時世、本は売れないに違いない」と思って、飾りくらいに考えていたのですが、意外と本を買う人が多かったです。普段とは違ったお客さんの層と出会えるのがマルシェのいいところですね。

それから今回、マルシェに久しぶりに出店して思ったのが、運営側の苦労です。当日までのいろんなアイテムの準備、告知、ポスター貼り、出店者への各種案内…、そしてもちろん、当日は駐車場の誘導まで! そういう地味な仕事を一つひとつやっていって、ようやく開催できるのがこういうイベントです。

私自身、いろんなイベントを開催してきましたが、駐車場の誘導まで手配したことはありません。当日の駐車場係のみなさんを見て、「こういう裏方をしっかりするのが一番大変なんだよなー」としみじみした気持ちになりました。

だから、今回のしやくしょマルシェ、出店者側が意気込んでいたのは当然として、MVPは運営の「南さつまmojoca」のみなさんだと思います。「もっとこうしたらいいなー」といった点も全くなく、全ての対応が完璧だったと思います。みなさんのおかげで、楽しく参加することができました。感謝!

ちなみに、撤収作業が完了した頃にザーザーと雨が降ってきました。まさに天祐(天の助け)とはこのことですね。最高の一日になりました。ありがとうございました。

※次は、11月6日(日)に開催される「秋の丁子屋石蔵文化フェスティバル」に出店します。よかったらこちらにもどうぞ。



 

2022年10月17日月曜日

第4回そらまどアカデミア「竹一本の世界」

第4回そらまどアカデミア、開催します!

テーマは「竹一本の世界」!

「竹一本の世界」って何だろう…? と思うかも知れません。これは、尺八の世界のことなんです。

尺八といっても、普通の尺八とは少し違います。実は尺八には「地(じ)あり尺八」と「地無し尺八」の二種類があり、みなさんが普通に聞いたり習ったりするのは「地あり尺八」の方です。

そして、この二種類はどう違うのかというと、ザックリ言うと「西洋音楽の音階を吹ける尺八が地あり尺八」ということになるみたいです。

で、今回取り上げるのはそうではない方の「地無し尺八」。

そして「地無し尺八」の特徴は、ただの楽器ではない、ということです。これは、もともと虚無僧という修行僧の人たち(時代劇に時々出てくるアレです)が、法器として吹いていた、つまり修業の一環で吹いていたものということになります。

今回講師をお願いした室屋無吹さんは、この「地無し尺八」の音に魅せられてその修業を続けている方。

個人的なことですが、実は、初めて室屋さんにお会いした時に衝撃的なことがありました。 

虚無僧の修業では、「尺八を吹くことで悟りに至れる」といったような教えがあるのですが、私はこんな荒唐無稽なことがあるわけがないと思っていました。というようなことをつい漏らしてしまったところ、ちょっとムッとして

「尺八で、悟りは開けます!!」

と仰ったのです。これには驚きました。

実際やっている人がそういうのだから、間違いないのでしょう。この一言で、私にとって虚無僧(普化宗)のイメージがガラッと変わってしまったのです。たぶん私は、同じ尺八でも「地あり尺八」しか知らなかったために、悟れるわけがないと思っていたのかもしれません。

今回、室屋さんには虚無僧が吹いていた尺八(地無し尺八)を、実際に吹いていただきながら、その歴史を繙いてくださいます。お聞き逃しなく!!

***************

第4回 そらまどアカデミア

竹一本の世界

講 師:室屋無吹

「尺八」と聞いてパッと思い浮かぶのは虚無僧ではないでしょうか? 実は虚無僧が吹いていた尺八と、現代の尺八には大きな違いがあるのです。その両方を吹き比べながら、日本画から尺八の歴史を読み解いた泉武夫著『竹を吹く人々』を参考に、その変遷を辿ってみましょう。

日 時:11月27日(日)14:00〜15:30(開場 13:00)
場 所:books & cafe そらまど (駐車場あり)
料 金:1000円(ドリンクつき) ※中学生以下無料
定 員:15名
要申込申込フォームより、または店頭で直接お申し込みください。※中学生以下は無料ですが申込は必要です。
問合せこちらのフォームよりお願いします。

<講師紹介>
尺八の音に魅せられ20年。5年前より地無し尺八奏者の上村風穴氏に師事。現在、普化風韻会会員、虚無僧研究会会員。

※本講演は、講師体調不良のため延期となりました。改めて企画したいと思います。

2022年10月2日日曜日

「ブックトーク「儒学・国学・廃仏毀釈」小川景一×窪 壮一朗」を開催します!(10月9日(日)) 

10月9日(日)、ちょっと変わったイベントをします!

ブックトーク「儒学・国学・廃仏毀釈」小川景一×窪 壮一朗

長くなりますが、このイベントの企画趣旨など説明したいと思います。

発端は、もちろん拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』の刊行です。販促の意味も兼ねて、記念のイベントをしたいと思っていました。しかしただ本の出版を祝ったり販売したりするだけでは自分が面白くない。

そこで、儒学や国学に造詣の深い小川景一さんと対談すれば、拙著でボンヤリとしていた「思想的な部分」が自分でも見えてくるかもしれない、そう思って企画したのがこれなんです。

具体的には、小川さんと対談しつつ、互いに本を紹介して「こういうこともある」「このことも重要」などと放談し、「思想的な部分」に肉薄したいと思っています。

では、その「思想的な部分」とは何かというと、ズバリ「儒学と国学がどう接続して、廃仏毀釈や国家神道にどう繋がっていったか」ということです。ここから以降はかなり専門的な話になりますので、ご関心のある方のみお読みください(笑)

****

さて、江戸時代の中頃から「国学」が勃興してきます。これは、日本古典に使われた言葉の意味を厳密に考証してその原意を明らかにし、古代日本のあり方に迫っていく学問です。特に国学を大成した本居宣長の主著『古事記伝』は、古事記の一言一句の凄まじいばかりの考証によって現代の古事記研究の基礎にもなりました。

その本居宣長は、古典研究にあたって中国風の概念「からごころ」を廃すことが重要だと考えました。というのは、日本の古典といっても実際には漢文(や変形した漢文)で書かれているので、古代人の語りそのままではなく、漢文(中国語)に翻訳された言葉を通じてそれに触れるということになるからです。なので宣長は、古典から「からごころ」を濾過して取り除き、古代日本人の生の声を再構成しました。

その結果宣長は、古代日本人には「からごころ」である儒教風の倫理秩序はなく、それどころかそういう人為的な規範がなくてもあるがままで国が治まっていたと考え、その点で日本は中国に優越していたと見なして儒学者と対立していきます。

これは宣長に始まったことではなく、その師・賀茂真淵から受け継いだ態度でもありました。儒学者・荻生徂徠の弟子・太宰春台の『弁道書』には、中国の聖人以前に「道」はない、と言う主張があり、これに真淵は反発します。真淵は著書『国意考』で、日本には日本の道「自然(おのずから)の道」があると主張。それどころか、戦乱が相次いだ中国よりも日本の方が神武天皇よりの皇統が連続しているから優れている、として儒教批判を繰り広げました。

さらに宣長も、『弁道書』への反論として『直毘霊(なおびのたま)』という本を書き、儒学の教えは欺瞞と虚飾に満ちたものであると否定しました。もちろんこういわれると儒学者としても黙ってはおれないので、「直毘論争」または「国儒論争」という論争が国学者と儒学者の間で巻き起こりました。

国学の方法論そのものには儒学と対立する要素はなく、むしろ国学は儒学の一派といってもよかったのに、こうして国学と儒学は仲違いしていきました。

ところが面白いことに、その主張内容は却って近接していきます。特に近接したのが水戸学です。水戸学は、水戸光圀の「大日本史」という日本史編纂プロジェクトを通じ、歴史観を中心とした思想を発達させた儒学の一派です。彼らは歴史の「正統」を考究する中で、皇統の連綿(=万世一系)や、その正統の証明である三種の神器など、神懸かりな領域に突入していきました。

藤田幽谷の弟子・会沢正志斎は、幕末に発表した『新論』の中で、国体論によって人心を統一して国防にあたろうという尊皇攘夷思想を喧伝します。そして具体的には、国家的な祭祀の体系を整備して人々に崇敬させることを構想しました。当然、そこではキリスト教はおろか仏教も胡神(外国の神)として不純物扱いされ、純粋な日本の「国体」のための神道が国家の中心におかれて祭政一致主義が打ち出されたのでした。これは後に述べる平田篤胤の「復古神道」とほとんど同じ主張だったのです。

「復古神道」について述べる前に、時間を遡って儒学のもう一つの一派について触れなければなりません。それが山崎闇斎の系統(闇斎学・崎門学)です。山崎闇斎は民間の儒者でしたが、とんでもなく厳しい指導によって宗教的なまでの儒学を作りあげ、やがて本当に宗教化して「垂加神道」という神道を創始しました。儒者が神道化していったこと自体が後の儒学の「神懸かり化」を予見しています。

闇斎がまだ神道化しないうちの弟子に浅見絅斎(けいさい)がいました。彼は朱子学の形式論を推し進め、現状の君臣関係を絶対化し、それを儒者らしく「道」だとします。そしてこれを突き詰めると徳川すら天皇の臣ということになり、将軍は「天子の御名代(代理人)」として統治しているに過ぎないと考えました。これは後に本居宣長が『玉くしげ』で主張する「大政委任論」とほぼ一致することになるのです。絅斎も宣長も、現状の秩序を肯定する立場でこのような主張をしたのですが、幕末になるとこれが倒幕の論理となっていくのはなんとも皮肉なことです。

さらに浅見絅斎は、『靖献遺言(せいけんいげん)』という本を書いて「殉忠の思想」を喧伝します。これは中国の「殉教者列伝」というような本ですが、命を犠牲にして忠義を貫いた人間を称揚することによって、幕末には尊皇のバイブルのような存在へとなっていきます。

国学の方に話を戻すと、本居宣長を師と仰いだ平田篤胤は、宣長が恬淡としていたその宗教観の方をどんどん発展させていきます。篤胤は死後の世界に強い興味を抱いていました。最初の妻が死んだ年に書いた『霊能真柱(たまのみはしら)』で死後の世界を語り、その後も厖大に叙述します。さらに神話を再編集し、国学を宗教化していきます。宣長の頃の国学はまことに地味な学問で、宣長をついだ本居家の学者たちも歌学を講じていた保守主義者だったのですが、篤胤は国学に強烈な宗教性を注入して、「日本古代にそうであったに違いない神道」=「復古神道」を興すことを目指していきます。当然のことながら、そこでは仏教は外来のものとして排斥され、日本古来の神を敬うことこそが重要だとしています。

ちなみに先ほどの太宰春台の『弁道書』でも、民間で祀られているものは禁じ、仏教や修験などの世話にはならない方がよいといった記載が見られます。春台は儒者らしく「天子」が統べるべきという考えから、雑多な宗教ではなく「天子」を中心とした祭祀へと人々の宗教を一本化した方がよいと主張していました。

このような思潮がぐるぐると渦巻いていたのが幕末という時代です。儒学と国学は、学者の間では対立していたのですが、それが幕末の志士たちにどう受け取られていたかというと話が別です。例えば薩摩の島津久光は『靖献遺言』を愛読書としたといいますが、平田篤胤の『古史伝』も読んでいます。西郷隆盛は陽明学(儒学の一派)を学んでいましたが、安政期には気吹舎(いぶきのや=平田篤胤の塾)をたびたび訪れ、同行者を入門させていました。これは薩摩藩だけのことではなく、多くの志士たちが国学と儒学の双方に影響を受けていました。

それは、その結論において儒学と国学がほとんど一致していたからです。日本の正統な統治者は将軍ではなく天皇であるという考え。仏教を外来のものと見なし、日本古来の神への国家的祭祀を行うべきとする祭政教一致思想。そして中国ではなく日本こそが世界の中心(中華)であるとする国粋主義、といった点においてです。

しかしそういった共通部分が、当の儒学者、国学者たちにどの程度親近感を抱かせたのかというと、どうもそこがよくわかりません。多くの共通点がある分、かえって細かい違いが対立を深める形になったような気がします。このあたりは私自身詳しくないのですが…。

そして明治維新を迎えると、まず政府が宗教政策を任せたのが国学者たちでした。特に津和野藩(長州藩の隣藩で政治力があった)の国学者と、平田系の国学者が重用されます。彼らはほとんど同じ思想を持っていたのですが細かい点で食い違い、何をするにも話がまとまらないので、明治4年に平田系の国学者が排除されます。

そしてこうした動きの背後で、宗教政策において儒学者が幅をきかせるようになってきます。特に長州藩出身の小野述信(のぶざね)は、国民教導政策において「小野神学」と呼ばれるような宗教的儒学思想による行政を進めました(述信は、系統的には儒学者ですが国学者と呼ばれることもあります)。

そして不思議なことに、あれほど「からごころ」を否定していた国学者たちは、いつのまにか儒学風の封建道徳を喧伝するようになりました。明倫、忠孝、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の彝倫(いりん)といったものです。これは、平田篤胤が復古神道の構想にあたってその倫理観に儒教道徳を据えたためと言われていますが、私はその点は原典で確認していません。仮にそうだとしたら、誇大妄想なまでに日本ナショナリズムを推し進めた篤胤が、なぜ道徳観を儒学から借りなければならなかったのか不思議です。

それはともかく、幕末から明治にかけて、儒学と国学が互いに思想的に近接していったということは間違いないことだと思います。そして儒学と国学の力が合わさることによって、廃仏毀釈が起こされ、また国家神道に繋がっていくと考えられます。明治23年の「教育勅語」は、後に国家神道の聖典のような存在になっていきますが、そこにはかつての国学の面影はもはやなく、忠孝、義勇、徳、修学といった儒教道徳で貫かれています。でもそれが完全に儒学的であるかというとそうでもなく、四書五経などの中国古典から切り離された宗教的な(教育勅語は各学校で奉安殿に安置された)ものであるのが特徴です。

儒学と国学が協力して国家神道を生んだというよりは、そのどちらもが変容することで時代を支配する思想が生まれていったようなのです。

というのは、——ここからは私の妄想も入って来ますが——儒学も国学も、どうも「宗教」を目指していたような感じがするんです。

儒学は元々「儒教」からその宗教性を排除して学問化したものです。では排除した宗教性は何かというと「礼楽」、つまり天地祖先を祀る儀式(礼)と音楽(楽)です。だから、儒学には宗教に必要な道徳や至高の存在(天)といったものはありますが、(儒には元来あった)祭祀の方法・儀式がなく、祀るべき対象(天)が抽象的でした。

一方、国学は古代の神々の世界を蘇生させましたが、宗教ならば備えていて当然の、道徳や人間としての規範は全くありませんでした。元々、本居宣長がそうしたものを人為的なものだと退けていたからです。

つまり儒学と国学は、どちらも単独で「宗教」となるには欠けたピースがあったわけです。それが、明治政府の宗教政策の結果、互いに足りないところを補い合うことになります。確かに、政府内では国学者と漢学者は対立し、例えば皇学所・漢学所というそれぞれの学校では互いに誹謗中傷を繰り返しました。しかし宗教政策全体を通じて見れば、それぞれの強みを採り、弱みを補うような取捨選択がされていった結果、儒学の道徳性と国学の神学性が政策的にハイブリッドされることによって、後に「国家神道」と呼ばれることになる国家宗教が生まれていったと考えられます。

と、言葉にするのは簡単ですが、思想の淵源を考えてみると、儒学と国学は水と油。簡単にはハイブリッドできないわけです。どこがどう接続し、誰によって思想が変容していったのか、具体的に述べよと言われると、特に儒学の知識が私に足りないこともあって、なかなか言語化できません。

というわけで、当日どこまでこうした内容に迫れるかはわかりませんが、小川さんの該博な知識を引き出して、自分なりにそのヒントを摑めたらと思っております。まだ若干定員の空きがあるので、こうした話にご関心のある方はどうぞご来場下さい。

↓お申し込みはこちらから(10月2日時点で残り7名)
https://forms.gle/zaoz8aAJXEgLRa3W9